41 あとしまつ
祈りの塔の一件は、表向きには何も起こらなかったことになった。
少なくとも、学園の記録の上では。
クラリッサについては、アルディーニ家が用意した診断書がすべてを片づけた。急な高熱と衰弱のため、数日ほど外部の医師のもとで静養していたことにする。寮の無断外泊も欠席も、その紙一枚で綺麗に「やむを得ない事情」へ塗り替えられた。
誰もそれ以上の詮索はしなかった。病名がもっともらしく、印章も本物で、提出してきたのがアルディーニ家である以上、誰も深くは突っ込まない。
クラリッサは医師の元での治療のあと、数日後、何事もなかったような顔で女子寮へ戻った。
実際、大きな怪我もなかったが、恐怖というものは心に傷を残す。夜中に目を覚ましてしまうこともあるだろうし、息が詰まることもあるはずだ。
それでも彼女は元の生活に戻った。
一方で、ニコロ・ステラマーレは死者のままでいることになった。
社交界にはすでに訃報が流れている。いまさら「実は生きていました」などと名乗り出られないし、ステラマーレ家も認めないだろう。
だから彼は、『ニコロ・ステラマーレ』ではなく、身元のはっきりしない若い男として王都の片隅へ置かれた。
引き取り先は、アルディーニ家と縁のあるパン屋だった。
朝は暗いうちから起き、粉をふるい、薪を運び、生地を捏ね、窯の前で汗を流す。貴族の跡取りとして絹の手袋をはめていた男の指は、すぐに小麦粉と水と火に馴染むしかなくなった。逃げ出そうとするほどの気力も、最初の数日は残っていなかったらしい。
「いつか彼の焼いたパンを食べてみたいわね」
ルクレツィアは紅茶を飲みながら言うと、ヴァレリオは無言で一礼しただけだった。
そして、ジュリアーノ・ベルナルディは学園へ来なくなった。
病欠ということになっている。過労だの体調不良だの噂が飛んでいるが、実際には、自室に引きこもっているらしい。
完璧主義の作劇家にとって、自分が吊るされて見世物にされるのは耐えがたき苦痛だったのだろう。
ルクレツィアはその報告に、特に何も言わなかった。
(――これで、あの未来の芽は詰めたかしら)
そうして数日が過ぎた。
学園の空気は、表向きにはいつもの穏やかさを取り戻していた。授業があり、休み時間があり、噂好きな生徒たちは別の話題を見つけ、昼には焼きたてのパンの匂いが食堂から漂う。
そんな午後、ルクレツィアは中庭に面した小さなサロンで、アンネローゼとコルネリアと向かい合っていた。
白いテーブルクロス。薄青の磁器。焼き菓子の皿。窓の外では春の光が芝生の上を滑っている。女子だけの小さなお茶会。
アンネローゼは、今日も花びらみたいに明るかった。
「クラリッサさん、もう大丈夫なのかしら。急なご病気だったなんて、心配でしたわ……」
「ええ……そうですわね」
コルネリアはカップを持つ手元を見ながら、少しぎこちなく相槌を打つ。以前ならルクレツィアの前でこんな穏やかな席が成立すること自体考えられなかったのだから、人の縁というものは不思議なものだ。
アンネローゼは続ける。
「今日のサロンにも誘ってみたのですけれど、いらっしゃらないのかしら……」
ルクレツィアは表情を崩さぬまま、紅茶の表面を見つめた。
クラリッサは今日から本格的に授業へ復帰している。そう聞いてはいる。だが、まだまともに顔を合わせていない。
――あの夜、塔で見た顔を思い出す。
青ざめ、震え、けれど気丈にこちらを見ていた顔。
貴族とファミリアに振り回された少女。
誘拐された彼女の前で、引き金を引いてニコロを撃った。ヴァレリオに場を制圧させ、ジュリアーノたちを塔に吊るした。
(……距離を置かれるでしょうね)
そうなったとしても仕方がない。いやそうするべきだ。
ルクレツィア・アルディーニがどれほどのことを動かせるかを、クラリッサはあの夜、嫌でも見てしまったはずだ。
友人でいたいと思っても、相手まで同じ距離でいてくれるとは限らない。
自分の気持ちを押し付けてはいけない――そう考えて、カップを持ち上げかけた時だった。
控えめなノックの音がして、サロンの扉が少しだけ開いた。
「失礼します……あ、あの」
その声に、ルクレツィアの指先がぴたりと止まる。
扉の隙間から顔をのぞかせたのは、クラリッサだった。
淡い色の髪はきちんと整えられていて、顔色も少し戻っている。まだ痩せた感じはあるけれど、目の光は消えていなかった。そして彼女の腕には、大事そうに抱えられた本が一冊ある。
「クラリッサさん! いらしてくださったのね」
真っ先にアンネローゼが明るい声を上げた。
「は、はい……その……ご一緒しても、よろしいでしょうか」
遠慮がちにそう言いながら、クラリッサの視線はルクレツィアに向けられていた。
ルクレツィアは一瞬だけ言葉を失い、それから何事もない顔を作って言う。
「ええ、お茶を淹れるわ」
「は、はい」
クラリッサはほっとしたように息をつき、そっと中へ入ってきた。席につく前に、抱えていた本を両手で差し出してくる。
「あの……新刊が出たんです」
それは、最近二人で話題にしていた恋愛小説シリーズの最新巻だった。
「どうしても、ルクレツィアさんに見せたくて……」
その言葉に、ルクレツィアはまばたきをした。
距離を置かれると思っていた。
少なくとも、以前と同じようには来ないだろうと。
なのにクラリッサは、怯えた目ではなく、どこか子犬みたいな期待を浮かべて本を差し出している。
「……クラリッサさん」
思わず呟くと、クラリッサは困ったように笑った。
「怖くなかった、って言ったら嘘になるけど……」
「…………」
「でも、それ以上に……嬉しかったし……格好良かったから」
ルクレツィアは一瞬だけ黙り込んだ。
アンネローゼはきょとんとし、コルネリアは微妙に気まずそうに視線をさまよわせている。事情を全部知っているわけではない二人からすれば、少し不思議なやり取りだろう。
クラリッサは本を抱えたまま、小さく笑った。
「眠れない夜もあったけれど……本を読んだら、少し元気が出て、夢中になれて。ルクレツィアさんとも、感想を話し合いたいなって」
「……借りても、いいのかしら」
「はい……!」
アンネローゼがぱっと顔を輝かせる。
「まあ、素敵! ご病気のあとは、やっぱり甘いものと恋愛小説ですわよね」
「その並べ方はどうなのかしら……」
コルネリアが呆れたように言ったが、その口元は少し緩んでいた。
やがてクラリッサが席につき、本がテーブルの中央へ置かれる。
表紙を見た瞬間、アンネローゼが目を丸くした。
「まあっ、このシリーズですの? 前巻の終わり方、あまりにも酷でしたわよね。だってようやく想いが通じたと思ったら、まさかの偽装婚約で――」
「偽装婚約そのものは別に珍しくないでしょう」
ルクレツィアが紅茶を口にしながら言うと、クラリッサが小さく吹き出す。
「ルクレツィアさん、そこだけ妙に現実的です」
「でも、偽装婚約なのに本当の恋になっていくのが良いんじゃありませんこと?」
アンネローゼが身を乗り出す。
コルネリアはため息をつきつつも、本の背表紙を視線でなぞった。
「わたくしは、あの第二王子の回りくどさの方が気になりますわね。さっさと言えばいいのに。雨の回廊で主人公が泣きそうになっているところへ現れて、肩を貸したのに、なのに告白しないところとか――机をたたいてしまいましたわ!」
「言えないから三巻も続いているのよ。告白して終わるのなら、一冊で済みますもの」
「まあ! 身も蓋もありませんわ!」
そのやり取りに、クラリッサがくすくすと笑う。
ルクレツィアはその光景を見ながら、胸の奥の硬いものが、ようやく少し溶けるのを感じた。
もう以前みたいに近づいてはこないと思っていた。
けれどクラリッサはここにいる。
新刊の恋愛小説を抱えて。
以前よりも、むしろ素直な顔で。
「ルクレツィアさんは、どの殿方が一番好みですか?」
不意にクラリッサが尋ねてきた。
アンネローゼが目を輝かせ、コルネリアも耳だけはこちらを向ける。
「そうですわ! わたくし、そこ気になっておりましたの。やはり冷たい公爵様タイプ?」
「いえ、絶対に黒幕めいた参謀役ですわ」
コルネリアまで乗ってくる。
ルクレツィアはカップを置き、わざと少し考えるふりをした。
「そうね……」
それから、ほんのわずかに口元を上げる。
「わたくしは、いつもそばにいる護衛の騎士が好きよ。どれだけ振り回されても、きちんとそばにいる人」
アンネローゼは「まあ!」と頬を染め、クラリッサは一瞬だけ目を丸くし、それからやわらかく笑った。
コルネリアは何か言いたげにルクレツィアを見たが、結局何も言わずに紅茶を飲む。
春の午後の光が、白いテーブルクロスの上に静かに落ちていた。
四人はシリーズについてそれぞれ好き勝手な感想を言い合い、甘いお菓子の皿はみるみる空になり、紅茶は何度も注ぎ足された。
――助けたかったのは、守りたかったのは、命だけではない。
こうした日常の方だったのだと、いまになってようやく気づいた。




