42 手
今日もこの家の夜は静かだ。
――夕食後、ルクレツィアは居間でひとり読書をしながら過ごしていた。
ハーブティーと恋愛小説。静かで平和な時間だ。
使用人たちは下がらせてある。彼らは彼らでそれぞれの仕事で忙しい。
卓上灯のやわらかな光だけが、広い部屋の一角をあたたかく照らしている。
窓の外では夜風が庭木を揺らし、薄い葉擦れの音が遠い波のように絶えず続いていた。ここには、磨き上げられた家具と、静寂と、アルディーニの家に特有のひやりとした整然さだけがある。
ルクレツィアはソファに腰を下ろし、ほっと小さく息をついた。
(――いまごろ、どこで何をしているのかしら)
考えた途端、廊下の向こうでかすかな足音がした。
規則正しい、迷いのない足取り。やがて扉が静かに開き、ヴァレリオが入ってきた。
黒い外套には夜気の匂いが染みついていた。金髪はいつもどおりきちんと整えられているが、肩先にほんのわずか埃がついている。灰色の瞳は静かで、表情にはほとんど何も浮かんでいない。けれどルクレツィアにはわかった。彼は外から戻ってきたのだと。
「おかえりなさい、ヴァレリオ」
「ただいま戻った」
いつもどおりの低い声。何事もなかったような顔。
ルクレツィアは小首をかしげた。
「またお掃除?」
ヴァレリオは扉を閉め、壁際に控えようとした足を一度だけ止めた。
「最初の頃より数は減った」
「それは、いったいどの頃なのかしら」
「君が王都へ来た頃だ」
「まあ」
それはつまり、自分が来てからしばらくは、彼がその何倍も忙しくしていたということだ。
ルクレツィアは、それ以上は問い詰めなかった。
何気なく視線を落としたとき、ルクレツィアはふと気づいた。
「ヴァレリオ、手袋が汚れているわよ」
黒手袋の表面に、煤のような灰色の汚れが薄くついている。遠目にはわからない程度だが、灯りの下では確かに見えた。
ヴァレリオは一瞬だけ自分の手を見下ろした。そして、何も言わない。
その沈黙に、ルクレツィアはわずかに口元を上げた。
「取り替えなさい、すぐに」
「あとでいい」
「だめよ。いま。ほら、座って」
彼が何か言う前に、ルクレツィアは本を閉じ、隣の小卓を指先でとんと叩いた。
「ハーブティーも淹れるから」
ヴァレリオはしばらくこちらを見ていた。断るべきか、一歩退くべきか、それとも従うべきか。ほんの短いその逡巡を見届けて、ルクレツィアは心の中で小さく微笑む。
――いまなら見られるかもしれない。
いつも黒手袋の下に隠されている、彼の本当の手を。
やがてヴァレリオは無言のままルクレツィアの斜め向かいに腰を下ろした。
ルクレツィアは湯気の立つポットを引き寄せ、茶葉の香りを確かめながらヴァレリオの分のカップを用意した。
その間に、明かりの輪の中へ、ヴァレリオの黒手袋がひとつ、そっと置かれる。
黒手袋を脱いだ彼の手は、思っていたよりもずっと硬質だった。節くれ立った指。分厚い掌。爪の下にはわずかに黒い影が残り、ところどころに薄く走る赤茶けた痕が見える。洗っても落ちきらなかったもの。治っても消えきらなかったもの。
「……それ、怪我?」
ルクレツィアが問うと、ヴァレリオは視線すら向けずに答えた。
「前にできた痕が消えていないだけだ。もう痛みはない」
「前って、いつの前よ」
「かなり前だ」
その言い方は、話を終わらせたいときのものだ。ルクレツィアはカップに湯を注ぎながら、ちらりと彼の手を見た。傷の形はひとつではない。刃物の浅い切り傷、火傷の名残、古い裂傷の痕。どれもこれも、まともな暮らしの中ではそうそうつかない傷だ。
ヴァレリオは何事もないようにカップへ手を伸ばしかける。
その瞬間、ルクレツィアはつい指先を伸ばした。ほんの少し、確かめるように。
だが彼の手はその途端、ぴたりと止まった。次の瞬間には、まるで熱いものを避けるようにすっと引かれている。
「……何のつもりだ?」
低い声だった。
ルクレツィアは少しだけ目を瞬く。
「触ってみようとしただけよ」
「……やめてくれ」
あまりにもはっきりした拒絶に、ルクレツィアは思わず眉を寄せた。こうしてはっきりと避けられると、さすがに胸のどこかが痛む。
「どうして?」
ヴァレリオはすぐには答えなかった。返す言葉を探しているのだ。
やがて、低い声が静かに落ちた。
「私の手は汚れている」
卓上灯の光が、傷だらけの指の上で淡く揺れる。
「君に触れることは許されない」
ルクレツィアは、しばらく彼を見つめた。
誰がそんなことを決めたのか。アルディーニ家か。古い掟か。裏の仕事に就く者たちの暗黙の心得か。あるいは、その全部を飲み込んでしまった彼自身か。
「……誰が許さないの?」
ヴァレリオは答えない。
だからルクレツィアは、自分で答えた。
「わたくしはあなたの手が好きよ」
ヴァレリオの金の睫毛がほんのわずかに揺れた。
ルクレツィアは、ためらわずに彼の手へ触れる。
ヴァレリオは止めなかった。止められなかった、と言う方が正しいのかもしれない。
触れた手は、思っていた以上に傷んでいた。掌は分厚く硬く、指の関節には細かな傷がいくつもある。火傷の跡も、刃物の浅い切り傷も、古い痕として残っていた。
武器を握るための手だ。
守るために、壊すことを覚えた手だ。
血を浴びることを厭わず、それでも平気な顔で紅茶を淹れられる手。
人はそれを『赤い手』と呼ぶのだろう。
けれどルクレツィアの目には、別のものに見えた。
「この手で、わたくしや皆を守ってくれているのね」
ヴァレリオは黙っていた。
いつもの沈黙だった。だが拒絶ではない。
ルクレツィアはその手をそっと包み込む。彼の手は大きく、少し冷たく、そして驚くほど不器用に力を抜いていた。
――愛しい、と思った。
「ありがとう」
そう言うと、ヴァレリオはようやく彼女を見た。
灰色の瞳が、灯りを弾いてわずかに揺れる。そこにある感情は読みにくい。けれど、まったく何もない顔ではなかった。
ルクレツィアは、少しだけいたずらっぽく口元を上げた。
「ねえ、ヴァレリオ。わたくしのこと、どう思っている?」
ただの主か。わがままなお嬢様か。恐ろしいアルディーニの娘か。
あるいは――……
「…………」
答えはない。ルクレツィアは質問を変える。いままで聞きたくて、聞けなかったことを、口にする。
「あなた、好きな人はいるの? 恋をしたことは?」
「…………」
また沈黙。
あまりにも見事な沈黙だったので、ルクレツィアは思わずくすりと笑った。
「ふふ、『沈黙』ね」
「答える必要を感じないだけだ」
無骨な返しである。だがルクレツィアは知っている。彼も人間であることを。
器用で大概のことはできるし、ダンスは少し苦手だったし、紅茶を淹れるのはうまくて、酢が少し苦手で。
傷を負えば痛みを感じ、喪失には耐えられないことを。
「――ねえ、勝負しない?」
ヴァレリオの眉が、ほんのわずかに寄る。
「勝負……?」
「そう、恋のゲームよ。先に恋人を作った方が勝ち」
「……何を言っている」
「負けた人は、勝者の言うことを何でも一つ聞かないといけないの」
ヴァレリオは静かに息を吐いた。呆れと警戒が滲んでいる。
「……恐ろしいルールだな」
「そう? そうかもしれないわね」
ルクレツィアは彼の手を包んだまま、指先へそっと力を込める。
このゲーム、勝つのはヴァレリオだと決まっている。決めている。
大切な恋人ができれば、彼は自由を欲するだろう。普通の人間として生きたいと思うだろう。
そうなったら、手放してあげる。
もう手を赤く染めることのない場所へ。
アルディーニの影も、血の匂いも届かないところへ、送り出してあげる。
二度とルクレツィアのせいで死ぬことのないように。
(あなたを自由にしてあげる)
自由な恋をしてみたかったのは嘘ではない。
だがそれは、ヴァレリオの命の上に成り立つものであってはならない。
彼が自由に生き、ぎこちなく笑える未来こそが、ルクレツィアの求める未来だ。
「――ゲームにする必要もない。君の勝ちだ」
ルクレツィアは目を瞬かせる。
「あら、どうして? そんなに早く諦めるなんてあなたらしくもないわ」
「諦めるしかない。他の誰かに心惹かれることなど、想像もできないのだから」
ルクレツィアの指先が、彼の手の上で止まる。
胸の奥で、何かが鳴った。
――鐘だ。金属でできた重たい鐘が、心臓のすぐ裏で不意に鳴らされ、何度も反響しているような衝撃だった。
「……やっぱり、好きな人がいるの?」
「…………」
――沈黙。
何故だろう。体温が上がる。頬が、指先が熱い。ヴァレリオは――その対象がルクレツィアだとは一言も言っていないのに。
それでもルクレツィアは、どうにか平静を装った。
「――じゃあ、もしもの話よ?」
ヴァレリオは黙ってルクレツィアを見ている。
「わたくしが勝って……誰もわたくしのことを知らないところに。アルディーニの手も届かないところに連れていって、って言ったら?」
たっぷりとした沈黙が落ちる。
やがてヴァレリオは、あまりにも簡単に答えた。
「できる」
ルクレツィアは息を呑む。
できたらいい、ではない。してみせる、でもない。ただ事実のように、呼吸のように、できると。
そしてヴァレリオは、低い声で続けた。
「追手を撒くことも、君を隠すことも。だが――その言葉の意味はわかっているのか?」
灰色の瞳が、真意を問うように向けられる。
「それでも君が望むなら……私は止まれない」
――それは、護衛騎士の職務との答えとしては、熱を帯びていて。
「……だから、戯れでは言わないでくれ」
その瞬間、胸の鐘がもう一度鳴った。
今度はさっきよりもずっと深く、ひどく、逃げ場もなく。
ルクレツィアは笑うべきか、怒るべきか、何も言わずに手を放すべきか、一瞬わからなくなった。
結局どれも選べず、ただ彼の傷だらけの手を包んだまま、じっと見つめることしかできない。
静かな部屋の中で、卓上灯の火だけがやわらかく揺れていた。
彼の手は、まだ少し冷たかった。
けれど、ルクレツィアの指先は、もうどうしようもなく熱を持っていた。




