40 吊られる男
ジュリアーノは胸元を押さえたまま、砕けたステンドグラスの破片を見た。床に転がる手下たち。窓辺から吹き込む夜風。自分の掌からこぼれ落ちたみたいに、一瞬で崩れた盤面。
「馬鹿な、どうやってここに――見張りは何を……」
その声には、ようやく作り物ではない狼狽が滲んでいた。
ルクレツィアは短銃を下ろさず、冷ややかに唇を歪めた。
「簡単なことよ」
月光の差し込む塔の上階で、彼女の赤い髪がわずかに揺れる。
「塔の壁を外から登って、上でタイミングを待っていたのよ。わたくしの護衛騎士は」
その言い方には、誇らしさがほんの少しだけ混じっていた。
ヴァレリオは何も言わない。ただ色硝子の粉を肩に乗せたまま、倒れた男たちを見下ろしている。灰色の瞳は冷えきっていて、ここに飛び込んできたのが本当に人間なのか、一瞬だけわからなくなるような顔だった。
ルクレツィアはジュリアーノへ視線を戻す。
「――ヴァレリオ、この男たちを外に吊るして」
ヴァレリオは即座に問うた。
「首をか?」
その問いがあまりにも自然だったので、床に倒れた手下の一人がひっと喉を鳴らした。ジュリアーノの顔からも、ほんの少しだけ色が引く。
ルクレツィアは眉をひそめる。
「怖いわよ。死なないようによ」
「承知した」
「――登校してきた生徒たちに、ちゃんと見つけてもらえるように」
静かな声だった。怒鳴りもせず、震えもせず、まるで明日の時間割でも決めるみたいに言う。
こういう男には、痛みそのものよりよほど効く。
高く積み上げた自尊心を、人目のある場所で無様にへし折られることの方が。
「待ってくれ! 何故こんな――」
「わたくしは、あなたの作劇の登場人物ではないの」
ジュリアーノはなお何か言い返そうとした。だがその前に、ヴァレリオの黒手袋が最も近くにいたジュリアーノの襟首を掴み、軽々と引きずり上げる。
呻き声。床を擦る靴音。抵抗らしい抵抗もできないまま、ジュリアーノは塔の外へ運ばれていく。
ルクレツィアはもうそちらを見なかった。
縛られたまま青ざめているクラリッサに視線を向け、ゆっくりと近づく。
クラリッサは怯えたように肩を震わせたが、その瞳の奥には、助かったという安堵と、ここへ来させてしまったという罪悪感が入り混じっていた。
「ルクレツィア、さん……わ、わたし……」
声がかすれている。ずいぶん怖かったのだろう。無理もない。
ルクレツィアは短銃をホルスターにしまい、クラリッサの後ろへ回って縄に手をかけた。きつく結ばれていた結び目を落ちていた短剣で切りながら、できるだけ穏やかな声で言う。
「怖い思いをさせてごめんなさい」
縄がほどけ、クラリッサは自由になった手首を見る。
けれどすぐには立ち上がれず、震える指を胸の前で握りしめたまま、ルクレツィアを見上げる。
「立てる?」
「……はい」
返事は小さかったが、折れてはいない。そこに少しだけ安心して、ルクレツィアは彼女の肩をそっと支えた。
「あの――どうして……彼を……」
その視線は倒れているニコロに向いている。
「だって、わたくしたち、彼には随分迷惑をかけられたでしょう? 本当はもう一発撃ちたかったのだけれど」
ルクレツィアの分と、クラリッサの分として。
そのとき、床の上から苦しげな呻きが漏れた。
椅子ごと倒れたニコロが、腹部を押さえながら身をよじっている。顔は真っ青で、目尻には情けなく涙まで浮いていた。
「ルク、レツィア……た、助け……」
ルクレツィアは振り返り、少しだけ首を傾げた。
「生きているでしょう。身体に穴も開いていないわ」
ニコロは呆然とルクレツィアを見る。
「わたくしが撃ったのはゴム製の弾よ。当たれば大の男も気絶するくらい痛いけれど、死にはしないわ」
「……だから、副会長の銃を……」
クラリッサが納得したような声を漏らしたが――
「それもあるけれど、実際重かったもの。あんなものを撃ったら、反動で肩が外れるわ」
それに、どんな細工がされているかわかったものではない。撃った瞬間暴発で手が吹き飛んだら大変だ。
ルクレツィアはニコロに視線を戻す。
「――表向き、あなたはもう死んでいる男ですものね」
その言葉に、ニコロの肩がびくりと跳ねた。
「訃報も出てしまったし、いまさらニコロ・ステラマーレとして社交界へ戻るのは難しいでしょう。戻ったところで、どちらの家にも居場所はないわ」
ニコロは何か言おうとして、しかし何も言えない。ここで否定したところで、自分がすでに「死んだことにされた男」だという現実は変わらないのだ。
ルクレツィアは少しだけ考えるように視線をずらした。
「――でも、自分よりも彼女の命を優先したところだけはよかったわ」
ニコロは銃口を向けられながらも、クラリッサの方を案じていた。
そこだけは、少し感心した。
「だから、そうね……一般人として、パン屋さんででも働いてもらおうかしら」
「……え?」
あまりにも予想外だったのか、ニコロは間の抜けた声を漏らした。
「朝は早いし、小麦粉まみれにはなるでしょうけれど、真面目に働けばパンは焼けるようになるわ。少なくとも、『真実の愛』よりは人の役に立つでしょうね」
クラリッサが目を丸くする。ニコロは完全に言葉を失っていた。
ルクレツィアは、そこでわずかに口元を上げた。
「――それとも、うちの下働きにでもなる?」
ニコロは喉を鳴らしたが、まともな返事にはならない。
きっともう、ファミリアと関わるのはごめんだとか思っているのだろう。
ルクレツィアはそんな彼を見下ろし、ふっと息を吐いた。
「安心なさい。いまここで決めなくてもいいわ。どうせあなたには、もう以前みたいに選べる立場など残っていないのだから」
塔の外では、男たちの情けない呻き声と、それを黙らせるヴァレリオの足音が交互に聞こえてくる。
夜はまだ深い。
けれど、この夜が明けたとき、多くのものが変わっているのだろう。




