38 祈りの塔の断罪
談話室の灯りと弦の音は、扉が閉まった瞬間に薄い膜の向こうへ退いた。
ジュリアーノは振り返り、いかにも気づかうような笑みを浮かべる。
「足元に気をつけて。夜の校舎は昼より少し危ないから」
「ご親切にどうも」
ルクレツィアはそう返しながら、わずかに顎を上げた。
危ないのは校舎ではなく、今夜の案内人の方だろう。
夜の学園は静かだった。昼間には生徒たちの声で満ちている廊下も、いまは灯りの届く範囲だけが切り取られたように明るく、その外側には薄い影がたまっている。
ジュリアーノは急かしもせず、遅すぎもせず、ちょうどいい歩幅で先に立つ。
ルクレツィアは半歩遅れて歩く。
――他に誰もいない。
春の風だけが、ひやりと頬を撫でていく。廊下の先には小さな中庭があり、その向こうに、細く白い石造りの塔が夜の中に立っていた。
祈りの塔。
「思い出深い場所だろう?」
石畳を渡る。夜露を含んだ空気が裾にまとわりつき、靴音だけが静かに響く。塔は昼間より白く、冷たく見えた。月光を受けて、誰かの秘密を閉じ込めた骨みたいに立っている。
ルクレツィアは、塔の扉を見上げた。
「怖いかい」
ジュリアーノが、ふと尋ねた。
ルクレツィアは彼を見ずに答えた。
「いいえ」
ジュリアーノは喉の奥で笑った。その笑い方が静かすぎて、かえって耳に残る。
「それならよかった」
ジュリアーノが扉に手をかける。
軋んだ音を立てて扉が開いた。中から流れてきた空気は、外の春の夜よりずっと冷たい。石と古い木と、閉ざされた場所特有の乾いた匂い。壁に沿って、細い螺旋階段が上へと伸びている。
――誰かいる。身を隠しているが、複数人。塔の内部にも、外側にも。
ヴァレリオやアルディーノの構成員たちではない。彼らは、ルクレツィアに気配を読まれるような人々ではない。
ジュリアーノの子飼いだろう。
この夜を邪魔させないための。
「ふふっ……本当に、退屈しなさそうね」
ジュリアーノが道を譲るように身を引いた。
先に上れということだ。
背中を向けろということでもある。
「レディーファーストにしては、場所が悪すぎるわ」
言いながらも、ルクレツィアは一段目へ足をかけた。
「君が転んだら受け止めるさ」
螺旋階段は細く、上へ行くほど灯りは乏しくなり、高窓から差し込む月明かりだけが石壁を青白く撫でていた。足音が丸い塔の内側で反響する。
一段。
また一段。
以前来た時は、この階段を上るのが楽しかった。上へ行くにつれて光が増し、別世界へ抜けていくようで。
踊り場の小窓から、ちらりと外が見えた。夜の王都は黒い屋根の海になっていて、ところどころに灯りが散っている。遠くで鳴る鐘の音が一度、薄く届いた。
やがて最後の踊り場が近づく。上から、ごくかすかに別の空気が降りてきた。
静かすぎるのに、何かがそこにあるとわかる空気。
ルクレツィアは足を止めなかった。
最後の数段を上りきる。
視界の先には、以前見た展望の間とは違う暗がりがあった。祈祷台と夕陽と遠い海の代わりに、今夜はもっと別のものが待っていた。
まず人の気配。革靴の擦れる音。押し殺した息遣い。祈りの塔には似つかわしくない、生身の男たちの存在感。
そして――石壁に近い位置に、二つの椅子が置かれている。粗末ではないが、祈りの塔にはどう考えても似合わない実務的な椅子。その椅子に、それぞれ人が縛りつけられていた。
一人は、青ざめた男。
乱れた髪。やつれた頬。おびえきった目。以前はもっと上品に見えたはずの顔立ちが、いまは情けなさと疲労で見違えるほど崩れている。
ニコロ・ステラマーレ。
訃報欄に載っていたはずの元婚約者が、生きたままそこにいた。
そしてもう一人。
淡い色の髪が乱れ、唇の色を失い、けれどまだ気丈に顔を上げようとしている少女。手首を縛られ、顔色は悪いが、傷はない。そのことにほんの一瞬だけ安堵しかけて、ルクレツィアはすぐにその感情を押しとどめた。
クラリッサ。
彼女はルクレツィアの姿を認めた瞬間、信じられないものを見るように目を見開いた。次いで、恐怖とも困惑ともつかない色がその瞳に広がる。
ニコロの方は、それどころではなかった。
ルクレツィアと目が合った途端、血の気の失せた顔をさらに引きつらせ、椅子ごと後ずさろうとするみたいに身をよじる。だが拘束はきつく、縄が軋む音がしただけだった。
「ル、ルクレツィア……!」
悲鳴のように名を呼ぶ声。慈悲を求める声。
ルクレツィアはしばらく何も言わなかった。
「――さあ、裁きの時間だ」
ジュリアーノはそう言って、一丁の拳銃を取り出し、ルクレツィアに差し出した。




