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37 若き裏社交界



 夜の学園は、昼間とは別の建物みたいだった。


 石造りの廊下は昼よりも広く見え、靴音はよく響き、壁に掛けられたランプの灯りは、あたたかいはずなのにどこかよそよそしい。窓の外はすでに群青に沈みきっていて、校舎の内側だけが、秘密を守るみたいに静かに明るかった。


 ルクレツィアは制服姿のまま訪れた。

 学園内ならば相応しい格好というものがある。


 付き人はいない。

 少なくとも見える範囲には。


 だが、アルディーニの娘が独り歩きなどできるはずもない。

 見えない付き人はあちこちにいる。必要な時まで存在を主張しないだけだ。


 ルクレツィアは招待状を指先で軽く挟んだまま、談話室の前で立ち止まった。


 黒い封筒に金の縁取り。やたらと手が込んでいる。内容は簡素なくせに、紙質だけが妙に上等で、「ここから先は選ばれた者のための場です」という主張が激しい。


 扉の前に控えていた上級生が、招待状を確認して恭しく頭を下げる。まるで本物の社交界みたいな仕草だ。


 扉が開く。


 中から、柔らかな弦の音が流れ出した。


 談話室は思っていたより広く、そして閉じていた。


 壁際には背の高い燭台が並び、テーブルの上には軽食とグラスが整然と並べられている。

 明るいのに、妙に息苦しい。少人数の集まりなのに、空気の密度だけがやたら濃い。


 集まっているのは生徒会役員らしい顔ぶれと、見覚えのない上級生たちだった。顔も名前も知らない。だが、それで十分だった。彼らの視線が何より雄弁だったからだ。


 面白がるように見る者。

 露骨には見ないが、明らかに意識している者。

 そして、ルクレツィアと目が合いそうになるたび、わずかに逸らす者。


 ただの内輪の集まりでもない。


 ここには「選ばれた」という顔をした若い獣たちがいる。貴族とファミリアの子どもたち。


 ルクレツィアは一歩、室内へ進んだ。

 その瞬間、いくつもの視線が静かに集まる。


 昼間の学園で彼女へ向けられる視線とは違っていた。好奇心や噂好きの軽さではない。もっと打算的だ。誰がここへ来たのか。誰が招かれたのか。誰が今夜の場にふさわしいのか。そういう値踏みの色が混じっている。


 ――確かにここは、未来の裏社交界。


 まだ完成していない、若い権力者たちの遊戯場だった。


(おままごとみたいだわ)


 父の――ドンの書斎とはまったく違う。その軽さが、若い獣たちには居心地良いのかもしれない。


 それにしても――これが現生徒会と次期生徒会候補の顔ぶれとは。


「ようこそ、ルクレツィア」


 ジュリアーノが人の輪の向こうから歩み寄ってきて、ルクレツィアのために椅子を引いた。


「何をお持ちしようか」

「あなたのおすすめのものを」


 ジュリアーノは小さく笑い、給仕役の上級生に視線を送った。すぐに飲み物が運ばれてくる。彼はグラスを自分で受け取り、ルクレツィアへ差し出す。


 中身はりんごの炭酸水だった。

 随分とお行儀のいい親睦会だ。


「視線がぶしつけだわ」


 ルクレツィアはグラスに口をつけるふりをして言った。


「君が美しいからだね」

「珍獣扱いの間違いではなくて?」

「いや。珍しいのは事実だが、君の場合、檻に入れるには華やかすぎる」


 ――その冗談は、よくない。

『破滅ルート』でルクレツィアを誘拐して監禁した男が言うセリフとしては、最低の部類である。


 談話室の隅では、二人の上級生が何か囁き合っていた。別の卓では、生徒会役員らしい男子生徒が書類めいたものをさりげなく畳んでいる。軽食は並んでいるのに、誰も本気では食べていない。


 普通の社交の真似事ではない。


 これは選抜だ。観察だ。試し合いだ。


 そのとき、少し離れた場所で誰かがニコロの名を口にした。囁きに近い声だったが、ルクレツィアの耳にははっきり届いた。


「……あの件、伯爵家は本当に病死で押し通すつもりらしい」

「口を慎め。今夜は」

「けれど彼女が来ている以上」

「だからこそだ」


 ルクレツィアがそちらへ視線を向けると、二人はすぐに口を閉ざした。目を逸らし、何事もなかった顔を作る。


 その反応を見て、ジュリアーノがわずかに目を細める。


 やはりこの男、見ている。

 多くの会話の中で、誰の声に反応したか。何が関心を引いたか。


「君は賢い」


 不意に、ジュリアーノが静かな声で言った。


「だからこういう場では、いろいろなものが見えすぎて疲れるだろう」

「ええ。社交の場というのは、あまり得意ではないわ」


 そつなく振舞うことはできても、しょせんはアルディーニの娘である。

 兄のように家を継ぐこともなく、仕事を任せられることもない。


 家の役に立ち、狭い世界で幸せに生きる――それこそがルクレツィアの幸せだと定められている。


 だが、そんなものに従っていては――待っているものは破滅なのだ。

 だからルクレツィアは動く。誰よりも強い護衛騎士カヴァリエーレを選んで。


「だから、あなたが今夜わたくしをここへ連れてきた理由も正直に言ってちょうだい」


 ジュリアーノはすぐには答えなかった。


 代わりに、談話室をゆっくり見回す。灯り、音楽、控えめな笑い声、選ばれたつもりの若い顔。その全部を、自分の掌の上に置いた玩具みたいに眺めてから、彼は小さく肩をすくめた。


「少し騒がしいね」


 ジュリアーノはルクレツィアを見た。穏やかな目だった。穏やかなはずなのに、どこかで次の段を踏ませたがっている目だ。


「静かな場所へ行こう」

「ここではだめなのかしら?」

「だめではない。けれど、見せたいものがある」


 ジュリアーノは少しだけ間を置いた。


「――君にだけ」


 それは、ひどく気障で、ひどく作為的な言い方だった。


 ルクレツィアは手の中のグラスを見下ろした。


「楽しませてくれるの?」


 ジュリアーノが微笑む。


「保証しよう」

「そう。なら案内して」


 ルクレツィアはグラスを卓に戻した。


「ただし、つまらないものを見せたら承知しませんことよ」

「それは怖い」


 ジュリアーノは軽く一礼し、ルクレツィアの前に道を作るように身を引いた。


 談話室の扉が、静かに開かれる。


 ――ようやく、ジュリアーノの用意したものが見られる。


 そう思いながら、ルクレツィアはジュリアーノの差し出した静かな夜の先へ踏み込んだ。




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