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34 クラリッサの欠席



 新聞を膝の上に置いたまま、ルクレツィアはしばらく動けなかった。


 ――ニコロ・ステラマーレ


 彼が死んだ? ――本当に?


 ルクレツィアはもう一度、記事の短い文面を目でなぞった。


 それは、あまりにも短い。


 ステラマーレ伯爵家は王都でそれなりの顔を持つ家だ。だからこそルクレツィアの婚姻相手にも選ばれた。

 その家の跡取りの死を知らせる記事にしては、そっけない。病名も経緯もなく、弔問の案内もなく、ただ「死んだ」とだけ書いてある。


 まるで、誰かに向けて最低限の事実だけを発しているみたいに。


「……おかしいわね」


 思わず漏れた声は、朝の静かな寝室に小さく落ちた。


 ――もし本当に死んだのだとして。どうして、いまなのか。婚約破棄の夜ではなく。


 あの夜こそ、もっとも危うい夜だったはずだ。アルディーニ家の令嬢との婚約を一方的に破棄し、別の女に心を移したと公にした夜。


 けれど、現実にはそうならなかった。

 ルクレツィアがその未来を止めたから。


 父も兄も納得はしていなかったけれど、ルクレツィアの判断を認めてくれたように見えた。だが、本当はニコロを許してなどおらず、いまになって処断したのか。


 何日か経ってから急に死んだというのなら、それは偶然にしては妙だし、報復にしても少し遅い。


 遅すぎるのだ。


 ――ルクレツィアは病死なんて公式発表は信じていない。診断書があったとしても。書類は偽造できるものだから。


 ルクレツィアは新聞をたたみ、指先で紙の端を軽く叩いた。


 ステラマーレ伯爵家が、アルディーニ家の報復を恐れた。


 アルディーニ家の名は、それだけで人を眠れなくさせるだけの重さがある。何もしていなくても、「これから何かされるかもしれない」という恐怖は十分に武器になる。


 ならば。


 いっそ死んだことにしてしまう、という手もある。


 新聞に訃報を出して、身内だけで葬儀を済ませると触れ回って、本人を表から消す。死んだことにして放逐する。あるいは幽閉する。国外に追放する。そうすれば、報復したい者がいたとしても狙う先を失う。少なくとも時間は稼げる。


「身内だけで葬儀、というのが、いかにも怪しいのよね」


 病で急死した若い跡取りの葬儀を、そこまで閉ざすものだろうか。もちろん、家の事情で簡素に済ませることはある。けれどこれは、悲しみに沈んで閉じるというより、外から見せたくないものを隠すために閉じる文面に見えた。


 本当に死んでいるのか。

 その疑いは、どうしても消えない。


 もし生きているなら、どこにいるのか。


 そこまで考えたところで、ルクレツィアはふと視線を上げた。


 ――昨夜。


 ヴァレリオの、血のついた髪。

 招かれざる客人、排除済みという言葉。


 ヴァレリオの声はいつも通り静かだった。静かすぎて、かえって何も見えない。


「……あなた、何を知っているのかしら」


 独り言のように呟く。


 アルディーニ家は何か知っているのか。


 ヴァレリオは何か知らないのか。

 知っていて言わないのか。


 ヴァレリオは、必要がない限り多くを語らない。ルクレツィアを守るためなら、情報すら刃の鞘に収めて持ち歩く男だ。だからこそ、昨夜の沈黙が妙に引っかかる。


 ルクレツィアはゆっくりと立ち上がり、窓辺へ向かった。朝の光は明るいのに、王都の屋根の向こうまで見通せる気はしない。


 ガラスに指先を触れながら、静かに息を吐く。


 新聞に名前を載せられた男。

 そして、その記事を読んで立ち尽くしている自分。


 こんな形でまた彼の名を見ることになるなんて、少し前のルクレツィアなら思いもしなかっただろう。



◆◆◆



 登校したルクレツィアは、教室に入った瞬間、小さく目を細めた。


 ――クラリッサの席が空いている。


 それだけなら、珍しいことではない。体調不良でも、用事でも、欠席は日常の範囲だ。

 けれど今日は、なぜか胸騒ぎがした。


(……クラリッサは寮生よね)


 ルクレツィアは休み時間にクラリッサのルームメイトを探した。

 ほどなく見つかった丸眼鏡の気弱そうな少女は、ルクレツィアを前にして目に見えて緊張していた。


「クラリッサさんのことで、少し聞きたいの。彼女、今日お休みよね? 具合でも悪いのかしら?」


 少女は青ざめたまま、かすかに首を振った。


「……昨日から、帰っていません」


 ルクレツィアは一瞬、言葉を失った。


「帰っていない?」

「は、はい……昨夜の点呼にもいなくて……無断外泊、扱いになります」


 ――無断外泊。


「それって、寮則違反よね?」

「はい……下手をすれば退寮処分です。クラリッサは奨学生なので、素行不良と見なされたら退学までありえます……」


 ルクレツィアは唇を引き結んだ。


 寮を追い出されるだけなら、どうとでもなる。

 住まいくらいアルディーニ家で用意できる。けれど退学となれば話は別だ。


「――最近、何か変わった様子は?」

「いえ……いつも通りで……」


 ――いつも通りなのに、無断外泊。そして欠席。


 静かに息を吐き、ルクレツィアは目を伏せた。


(――クラリッサ、どこに行ってしまったの)

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