33 新聞の訃報欄
胸騒ぎで、ルクレツィアは目を覚ました。
薄暗い寝室。カーテンの隙間から、夜の冷気が細く入り込んでいる。
それから、微かな金属の匂い。
寝台のすぐ傍に、ひとつの人影が立っていた。
「……ヴァレリオ?」
呼ぶと、その影が静かに動く。
月明かりに浮かび上がったのは、見慣れた黒い手袋と、淡い金髪だった。けれど、その髪の一部には、わずかに黒ずんだ赤が滲んでいる。
血だ。
ルクレツィアは上体を起こしながら、目を細めた。
「異変はないか」
「ないけれど、何かあったの?」
「招かれざる客人が来た。既に排除済みだ」
静かな声だった。
まるで、庭に野良猫でも紛れ込んだと報告するような調子で告げるのだから、この男はやはりどこかおかしい。
「そう。ありがとう」
それだけ返して、ルクレツィアは小さく息をついた。
学園には規律があり、王都には法があり、貴族社会には建前がある。
けれど、アルディーニ家に関わる現実は、そういう綺麗なものできっちり囲えるものではない。
――誓約法だって、きっと万能ではないのだろう。
ヴァレリオはルクレツィアの返答を聞くと、それ以上何も言わず、一礼して下がろうとした。
その背に向かって、ルクレツィアは不意に声をかける。
「ねえ、ヴァレリオ」
「……何だ」
「アルディーニ家のパネトーネは好き?」
一瞬だけ、彼が足を止めた。
振り返った横顔はいつも通り静かだったけれど、その目だけがほんのわずかにやわらいだ気がした。
「……ああ、もちろん」
その返事に、ルクレツィアはふっと笑う。
「ふふっ。いつでも焼いてあげるわね」
「無理はしなくていい。君の火器の扱いは危うい」
「だから、オーブンを危険物みたいに言わないで」
「扱い方を間違えれば、やけどをする」
「……あら、心配してくれていたの?」
「当然だ」
なら、もっと優しい言い方をしてくれてもいいのに。
けれど、その不器用さごと、たぶんそれがヴァレリオなのだろう。
「ちゃんと気を付けるわ。あなたも、ちゃんとお風呂に入ってから寝るのよ」
「……善処する」
「善処ではなく実行」
「わかった」
短いやり取りのあと、ヴァレリオは静かに去っていった。
扉が閉まり、部屋に再び夜の静けさが戻る。
ルクレツィアは枕に頬を預け、うっすらと残る甘い香りを思い出した。
昼間、パネトーネが厨房いっぱいに広がった時の、あの幸福な匂い。
――思いを込めて作ったお菓子をプレゼントして、食べてもらうこと。
コルネリアのおまじないが、いまさらのように胸の奥で転がる。
「……なんだか、もうずっと前にやっていたみたいじゃない」
誰にともなく呟いて、ルクレツィアは目を閉じた。
甘い菓子の香りも、冷たい鉄の匂いも、今夜は同じ夢の中へ溶けていく気がした。
◆◆◆
翌朝。
窓の外は、昨夜の不穏が嘘みたいに穏やかだった。
やわらかな朝の光が差し込み、寝室の空気を白く薄めていく。
けれど、侍女が運んできた、アイロンがけのされた朝刊を開いた瞬間、ルクレツィアの指先はぴたりと止まった。
新聞の下段。
大きくもなく、小さすぎもしない訃報欄。
そこに記されていた名を見て、彼女は一瞬、文字を読み損ねたのかと思った。
ニコロ・ステラマーレ。
ルクレツィアの、元婚約者の名だった。
心臓が、どくんと鳴る。
ルクレツィアは新聞を持つ手に、思わず力を込めた。
――ニコロ。
かつて、未来の旦那様になるはずだった男。
記事は簡潔だった。
体調急変ののち、昨夜遅くに逝去。関係者のみで弔いを行う予定、とだけある。
あまりにも短い。
短すぎて、不自然なくらいに。
「……何、これ」
喉の奥でこぼれた声は、自分でも驚くほど乾いていた。
悲しい、のとは少し違う。
もちろん衝撃はある。かつて知っていた相手の名が、新聞の訃報欄にあるのだから当然だ。
けれどそれ以上に、胸の奥に広がったのは、いやな冷たさだった。
ルクレツィアは唇を引き結び、もう一度その名前を見た。
紙面の上の文字は、当然ながら何も答えない。ただ平然と、死者の名としてそこにあるだけだった。
昨夜。
血のついたヴァレリオ。
招かれざる客人。
排除済み。
いくつかの断片が、頭の中でいやな音を立てて並びそうになる。
その時、寝室の扉が静かに叩かれた。
「入って」
そう言うと、扉の向こうから現れたのは、いつも通り整った姿のヴァレリオだった。
もう血の痕はどこにもない。髪も、黒手袋も、襟元も完璧に整っている。昨夜のあれが夢だったのではないかと思うほど、何も残していない。
ただ、彼の灰色の瞳だけが、新聞を握るルクレツィアの手元へ一瞬落ちた。
「……読んだのか」
「ええ」
ルクレツィアは新聞から目を上げた。
「ニコロ様が死んだのね」
「そのようだ」
「そのようだ、ではなくて」
思ったより鋭い声が出た。
けれど、ヴァレリオは少しも眉を動かさない。
「昨夜の招かれざる客人と関係があるの?」
問うと、彼は数拍だけ沈黙した。
その短い間だけで十分だった。
答えを言葉にされる前に、ルクレツィアにはわかってしまう。
「……断定はまだできない」
「でも、無関係とも言えないのね」
「そうだ」
まっすぐな肯定だった。
ルクレツィアはゆっくりと新聞を畳んだ。
紙が乾いた音を立てる。
「ルクレツィア」
低い声で名を呼ばれ、顔を上げる。
ヴァレリオはいつも通り、落ち着いた顔をしていた。
けれどその静けさの奥に、ごく薄い緊張がある。
「しばらくは、単独行動を避けてほしい」
「命令?」
「お願いだ」
その言い方に、ルクレツィアは一瞬だけ目を瞬いた。
昨夜、自分が言ったばかりの言葉が胸をよぎる。
命令ではなく、お願い。
違うようでいて、意味はひどく近い言葉。
ルクレツィアは小さく息を吐いた。
「……わかったわ」
「助かる」
「でも、その代わり」
新聞を膝の上に置き、まっすぐヴァレリオを見返す。
「何かわかったら、ちゃんと教えて。子ども扱いは嫌よ」
「わかっている」
「本当に?」
「君は、何も知らずに守られて満足する性格ではない」
それは、よくわかっているらしい。
「……そうね」
窓の外では、王都の朝が何事もなく始まっている。
昨日までと同じ朝が、今日もまた訪れていた。




