32 小さなころの聖光祭
それは、ルクレツィアがまだ五歳だった頃の、聖光祭の夜のことだった。
冬至を祝うその祭りの日、アルディーニ家の屋敷はいつも以上にまばゆかった。
高い天井から吊るされた燭台には無数の火が灯り、玄関ホールには大きな樅の木が飾られている。金と赤のリボン、硝子玉、銀の星。磨き上げられた床には灯りが幾重にも映り込み、人が通るたびにゆらゆら揺れた。
使用人たちは忙しなく行き交い、大人たちは夜の舞踏会に向けて華やかに装い、子どもたちは菓子を手に楽しそうに笑っている。
けれどその賑わいの輪から少し外れた庭の片隅に、ひとりだけ、そこに属していないみたいに立っている影があった。
十二ほどの少年だった。
まだ大人には遠い線の細い体つきなのに、妙に背筋が伸びていて、じっと動かない。
夜の闇に溶ける黒い服。灯りが届くぎりぎりの場所に立ち、祝祭を見ているようで、見ていない。
ただそこにいるだけなのに、周囲の笑い声や音楽からきれいに切り離されているような気配があった。
見覚えはある。
アルディーニ家に拾われた孤児で、最近訓練に入った子だと聞いた。名前はたしか、ヴァレリオ。
ルクレツィアはしばらくその後ろ姿を見つめていたが、やがてくるりと踵を返した。
向かった先は厨房だった。
「お嬢様、どちらへ?」
侍女に呼び止められても、ルクレツィアは振り向かない。
「内緒よ」
そう答えて、ちいさな足でたたたっと駆ける。
厨房の中は、屋敷のどこよりも甘い匂いで満ちていた。バターと砂糖と果実、それから少しだけ大人っぽい酒の香り。聖光祭のために焼かれた菓子やパンがいくつも並べられ、贈答用の籠へ丁寧に詰められている。
その中に、少し小ぶりのパネトーネを見つける。
昼のうちに焼かれ、布をかけて少し寝かされていたもので、香りがしっとりと落ち着いていた。
表面はつややかで、持ち上げるとずしりとほどよい重みがある。中にはたっぷりのドライフルーツと木の実が入っているはずだった。
ルクレツィアはそれをひとつ、こっそり抱えた。
「お嬢様、それはどちらへ」
「贈り物よ」
「まあ」
止める暇もないうちに、ルクレツィアはくるりと身をひるがえし、そのまま庭へ戻っていく。
少年は、まだそこにいた。
灯りの届かない隅で、誰とも言葉を交わさず、ただ黙って立っている。
まるで自分だけは祝われる側にも贈る側にも入ってはいけないと、最初から知っているみたいだった。
「あなた」
声をかけると、少年は弾かれたように振り向いた。
まず警戒が目に浮かび、そのあとで遅れて驚きが来る。そんな顔だった。
「……お嬢様」
「これ、あげるわ」
ルクレツィアが両手で抱えていたパネトーネを差し出すと、少年は目を見開いたまま動かなかった。
受け取っていいものなのかどうか、その判断すら許されていないような戸惑いが、顔いっぱいに出ている。
「ですが、おれがいただく理由は……」
「あるわ」
ルクレツィアは当然のように言った。
「今日は贈り物をする日で、わたくしがあげたいから」
少年はしばらく黙っていたが、やがておそるおそる手を伸ばした。
受け取る仕草はひどく慎重で、まるで壊れものか何かを扱うようだった。パン菓子ひとつにそんな顔をする人間がいるのかと、ルクレツィアには少し不思議だった。
「ねえ、あなた、ヴァレリオよね?」
「……はい」
「わたくしに普通に話しかけてみて」
「……どういう命令ですか」
真顔で返されて、ルクレツィアは思わず吹き出しそうになった。
「命令じゃないわ。お願い」
「お願いでも、意味は同じでは」
「ちがうわ。ぜんぜんちがうの。敬語もだめ」
「……どうすればいいか、わかりません」
「そうね、じゃあ……『元気か?』って言ってみて」
少年は押し黙った。
長い、長い沈黙のあと、
「……………………元気、か?」
ものすごくぎこちない声で言った。
ルクレツィアはぱっと顔を明るくする。
「ええ、とっても元気よ」
それだけのやり取りなのに、どうしてだかすごく楽しくなってしまう。うまく言えないけれど、いままで屋敷の誰と交わしたのとも少し違う感じがした。
ルクレツィアは勢いづいて、次の課題を出す。
「次は、わたくしの名前を呼んで、ヴァレリオ」
「…………」
「なあに、そのお顔。舌でも切り落とされそうな顔をして」
「……いいえ」
「もしかして知らない?」
「知っています。ルクレツィア様……」
「様はいらないわ」
「……」
「いらないの」
「……ルクレ、ツィア……」
ひどくぎこちなく、ひとつひとつ区切るみたいに呼ばれたその音が、冷たい夜気の中へぽとりと落ちる。
ルクレツィアは満足して、こくこくと大きく頷いた。
「ふふっ、対等な話し方に名前の呼び捨て。これでもう、わたくしたちお友だちね」
「……友達?」
「そうよ。わたくし、ずっとお友だちが欲しかったの」
「お嬢様には、たくさん周囲に人がおります」
「それはお友だちとは違うわ」
「……」
「ニコロ様はお友だちじゃなくて、未来の旦那様だし」
「未来の、旦那様……」
その言い方が、ほんの少しだけ低くなったことに、その時のルクレツィアは気づかなかった。
ただ、少年がますますむずかしい顔をしたので、不思議に思っただけだ。
「おれは、友達ではありません」
ぽつりと落ちた声は、さっきのぎこちない返事よりも、ずっとはっきりしていた。
「アルディーニ家の道具です」
ルクレツィアはぱちりと目を瞬かせる。
「話し方」
「…………」
「それに、内容がよくないわ」
少年は手の中のパネトーネへ目を落としたまま、低く言った。
「お嬢様に普通の話し方をしているのを聞かれれば、消されます」
「じゃあ、二人きりの時だけね」
「そんなことが」
「ファウストにも言っておくわ。ヴァレリオは『命令』でわたくしのお友だちにしたから、消さないでねって」
「そんなことが通るはず……」
「通すのよ」
ルクレツィアは堂々と言い切った。
――だってルクレツィアはこの世で一番えらい。
そのまま一歩、少年に近づく。
冬の空気は冷たいのに、パネトーネの甘い匂いだけが、二人のあいだでやわらかく漂っていた。
「それに、あなたは道具じゃないわ」
幼いなりの真剣さで、ルクレツィアはまっすぐに言う。
「ヴァレリオよ」
少年の灰色の瞳が、かすかに揺れた。
「ふふ、すてきなプレゼントをありがとう」
「……おれは、なにも……」
「もらったのよ。だって、わたくしたちもう、お友だちでしょう?」
少年は返事をしなかった。
けれど、抱えたパネトーネを落とさないようにする指先だけが、ほんの少し強くなった。
その意味を、その時のルクレツィアはまだ知らない。
ただ、聖光祭の灯りの届かない庭の片隅で、自分だけの秘密を見つけたような気がして、嬉しかった。




