31 パネトーネづくり
帰宅後、ルクレツィアは宣言どおり、まっすぐ別邸の厨房へ向かった。
夕暮れどきの厨房は静けさに包まれていた。
磨き上げられた大理石の調理台は窓から差し込む橙色の光をやわらかく返し、壁際に並ぶ銅鍋は鈍い金属の艶を帯びている。
棚には瓶や壺が整然と並び、空気の中には、焼きたてのパンの名残と香草の乾いた匂いがごくかすかに残っていた。
「お嬢様が、厨房に?」
低く太い声とともに現れたのは、調理長ビアンカだった。
大柄な身体を真っ白なエプロンに包み、腕を組んで立つ彼女は、料理人であると同時に毒使いとしても一流で、食卓と暗殺計画のどちらにも対応できる女性だった。
「ええ。パネトーネを作りたいの」
「まあ。それはまた、可愛らしいご用件で。爆発物でも薬瓶でもなく、小麦粉の方で安心いたしました」
そこでビアンカは、わずかに目を細めて付け加える。
「とはいえ、小麦粉も爆発しますけれどね」
ルクレツィアは少しだけ頬を膨らませた。
ビアンカはすぐに踵を返し、手際よく材料を取り出し始めた。
小麦粉。卵。砂糖。バター。刻んだクルミ。アーモンドプードル。色とりどりのドライフルーツ。そして、小さな瓶に入った琥珀色のラム酒。
それらが調理台の上に並んだ瞬間、冬の光景がふっとよみがえった。
飾りつけられた燭台。暖炉の火。家じゅうに広がる甘い焼き菓子の香り。
「お嬢様?」
呼びかけられて、ルクレツィアははっとする。
「……何でもないわ。始めましょう」
袖をまくって、エプロンを付けて。
パネトーネ作りが始まった。
生地をこね、最初の発酵を待つ。
クルミを刻み、アーモンドプードルを混ぜ、色鮮やかなドライフルーツを散らす。
ラム酒はほんの少しだけ。香りが立つ程度に。
「入れすぎると、大人の味になりすぎます」
「わかっているわ。うちのは、少し香るくらいが上品なの」
「さすがです、お嬢様。血筋だけでなく舌も確かでいらっしゃる」
発酵を終えた生地を型へ入れ、焼き上がりを待つ時間は、妙にそわそわする。
甘い香りが少しずつふくらみ、厨房の空気そのものをやわらかく変えていく。
やがて焼き上がったパネトーネは、ふっくらと香ばしく、部屋いっぱいに幸福な匂いを広げた。
表面には美しい焼き色がつき、切れ目からはほのかな湯気がのぼっている。ルクレツィアはそれを見つめ、満足げに胸を張った。
「どうかしら?」
「完璧です、お嬢様」
「ビアンカがそう言うのなら安心ね」
ビアンカは神妙に一礼した。
「まずは誰に食べさせますか?」
「そうね……」
そこで、厨房の入口に重い軍靴の音が響いた。
振り向けば、黒い制服をきっちりと着こなした男が立っている。刀傷の走る無骨な顔立ち。
――警備隊長ファウストだった。討伐部隊を率いるその男は、ルクレツィアにとっては幼い頃から見慣れた、屋敷を支える柱のひとつでもある。
「ちょうどいいわ、ファウスト。味見をして」
「承知いたしました」
ためらいなく差し出された一切れを受け取り、ファウストは無言のまま口に運んだ。
数秒の沈黙が、ひどく長く感じられる。
ルクレツィアは腕を組み、じっと彼を見上げた。
「どう?」
「とてもお上手です」
「それだけ?」
「ただ、もう少し寝かせて味を馴染ませた方が、さらによろしいでしょう」
「でも、出来立てもおいしいでしょう?」
「もちろんでございます」
ぶっきらぼうな顔のままそう言うのが、いかにもファウストらしい。
ルクレツィアは満足して頷いた。
「では合格ね」
「恐れ入ります」
そのとき、厨房の奥の影から、いつの間にかもう一つ別の気配が現れた。
黒い手袋。淡い金髪。静かな灰色の瞳。
ヴァレリオだった。
「あなたもいたの」
「警備の一環だ」
「家の厨房で?」
「君が火器を扱っていたら、警戒もする」
「オーブンを武器のように言わないで」
言い返しながらも、ルクレツィアの手は自然と動いていた。
一番きれいに切れた一片を選んでいる。
なぜそうしたのか、と問われれば説明は難しい。ただ気がつけば、そうしていたのだ。他の誰よりも整った断面で、焼き色もよく、ドライフルーツの入り方も見映えのする部分を。
「はい、ヴァレリオ。あなたも食べて」
「……私が?」
「そうよ。何か問題でも?」
「いえ」
彼は差し出されたパネトーネを受け取り、しばらくそれを見下ろした。
その顔はいつも通り静かだったが、何かを測るような、ひどく慎重な間がある。
やがて、静かに一口かじる。
その瞬間、ほんのわずかに、彼の目が見開かれた。
「おいしい?」
少しだけ間を置いてから、ヴァレリオは低く答えた。
「あの時と変わらず、とても」




