30 堅実なステップ
――つまり、コルネリア先生の言う恋のステップとは、こういうことである。
まず仲良くなる。
何を渡しても不自然ではない距離感になる。
手作りの贈り物を用意しても妙な空気にならない関係性を築き、相手が喜んで受け取ってくれる。しかも、ちゃんと食べてくれる。
――それはもう、おまじないではない。
告白である。
かなり好感度を積み上げた相手に対する、最終確認イベントである。
これは難易度が高い。
「――そもそも、わたくし、まだおまじないをかける相手が見つかっていないのですが……」
思わず漏れた呟きに、アンネローゼがぱっと身を乗り出した。
「だからこそ、準備ですのよ! いつ運命の方が現れても良いように、お菓子作りの練習をしておくのです」
「な、なるほど?」
勢いに押されつつ、ルクレツィアは反射的にコルネリアを見る。
コルネリアは不本意そうな顔のまま、しかし否定はしなかった。どうやら、この理屈自体にはそれなりの妥当性があるらしい。
――運命の相手。
その言葉の響き自体は、嫌いではない。
確かに、そんな相手を求めて王都に来たのだ。
けれど、その言葉の先に具体的な誰かを当てはめようとした瞬間、脳裏に浮かんだのは、灰色の瞳だった。
静かで、冷たく見えるくせに、ひどく忠実な目。
ルクレツィアははっとして、すぐに視線をそらした。
(どうしてここでヴァレリオの顔が出てくるの?)
自分の思考が信じられなかった。
違う。
ヴァレリオは、そういう相手ではない。
彼は自分の傍にいたら、いつ死んでもおかしくない男だ。
アルディーニの事情に巻き込まれ、血と命令の中で生きてきた男だ。
だからこそ、ルクレツィアは思う。
ルクレツィアもアルディーニも関係ない場所で、自由に、幸せになってほしいと。
自分の傍ではなく。
もっと穏やかで、もっと安全な場所で。
だから、違う。
「ルクレツィアさん? いま、誰かを思い浮かべませんでした?」
アンネローゼのきらきらした声に、ルクレツィアはぴしゃりと返した。
「気のせいです」
「まあ、そうかしら」
「そうです」
意味ありげに微笑まれ、ルクレツィアはわざとらしくグラスへ手を伸ばした。これ以上追及されるのは面倒だし、何より、自分でもその一瞬の連想をうまく説明できる気がしない。
コルネリアはそんな二人の様子を見て、ひとつ息をつくと立ち上がった。
「では、その『誰か』に渡す練習ということにして、何か作ってみたらよろしくてよ」
「だから、誰かなんて」
「それでは、わたくしは失礼しますわ」
きっぱりと会話を切り上げるように言って、コルネリアは優雅に一礼した。レースのついた制服の裾がふわりと揺れる。
昼休みは、そろそろ終わる時間だった。
アンネローゼは去っていく彼女の背中へ向かって、にこにこと手を振っている。
「さすがですわ、コルネリア様。恋のおまじないの先生として、とても頼もしいですわ」
「――先生ではありません!」
「最後まで否定が力強いわ……」
廊下へ消えていくコルネリアの声を聞きながら、ルクレツィアは小さく息をついた。
結局、恋とは何なのだろう。
憧れだけでは駄目で、勢いだけでも駄目で、きちんと仲良くなって、好感を積んで、手作りの菓子まで渡せる関係を築かなくてはならない。
ずいぶんと現実的だ。
夢だけで突っ走れないあたりが、かえって厄介である。
◆◆◆
放課後、ルクレツィアは久しぶりに文芸部の部室へ顔を出した。
扉を開けると、紙とインクの匂い、それから古い木の棚の乾いた匂いがふわりと漂ってくる。静かな部屋の空気に、どこかほっとした。
「あっ、ルクレツィアさん!」
真っ先に気づいたのはクラリッサだった。
机の上にノートを広げていた彼女は、ぱっと表情を明るくする。
「今日はどうしたの?」
「ええ、アルバイトの方はどうなっているかと思って」
「ああ、地下賭博クラブの?」
クラリッサは途端に顔をほころばせた。
「最高だよ」
「そんなに?」
「バイト代は高いし、みんな親切だし、着替えも通勤もいらないし。学園の中で全部済むって、こんなに楽なんだって感動してるところ」
その言い方があまりにも実感に満ちていて、ルクレツィアは思わず笑った。
「アルバイト経験は多いんですの?」
「多いってほどでもないけど、カフェの給仕は長かったんだ」
クラリッサはそこで少しだけ表情を曇らせた。
「でも、変なお客さんに付きまとわれて、辞めざるを得なくなっちゃって」
「まあ……それはとんだ無礼者ね」
「それでお金に困って、ああいうところに手を出しちゃったんだけど……でもその借金も返せそうだし、奨学金ももらえたし」
「そう」
「本当に助かったよ。ありがとう、ルクレツィアさん」
まっすぐに礼を言われると、少しだけ気恥ずかしい。
クラリッサは笑い、それから何かを思い出したように言葉を継いだ。
「カフェの給仕、けっこう好きだったんだ。忙しかったけど」
「そうなの?」
「うん。コーヒーや飲み物を運んだり、パネトーネを売ったり」
その言葉に、ルクレツィアはぴたりと動きを止めた。
「……パネトーネ?」
甘いパン菓子。
その響きが、思いがけず胸の奥をやわらかく叩いた。
古い記憶の扉が、ほんの少しだけ開く。
「懐かしいわ。うちでは冬のお祭りになると、特別なパネトーネを焼くの」
気がつけば、そう口にしていた。
クラリッサが興味深そうに身を乗り出す。
「特別な?」
「ええ。クルミとアーモンドの粉を加えるのがうちの流儀で、たっぷりのドライフルーツを入れるの。ふふっ、おじいさまが昔、こっそりお酒を入れたこともあったわね」
「へえ……素敵」
その一言に、ルクレツィアの胸の中で何かがすとんと落ちた。
そうだ。
パネトーネを作ってみよう。
いかにも恋のおまじない、という菓子よりは自然だし、皆で食べることもできる。特別な相手に渡す前の練習としても、ちょうどいい。
いつか運命の相手に渡す、その日のための練習に。
そう考えた瞬間、またほんの一瞬だけ灰色の瞳が脳裏をよぎった。
ルクレツィアはそれを見なかったことにして、静かに微笑んだ。
「今度、作ってみるわ。うちのパネトーネ」
「本当? ぜひ食べてみたい!」
「では、うまくできたら皆にふるまってあげることにするわ」
「うん、楽しみにしてる」
その無邪気な期待の声に背中を押されるように、ルクレツィアはそっと頷いた。




