03 王都での朝
誕生日から二週間後、ルクレツィアは王都別邸の自室で目を覚ます。
カッシニア島より軽い空気、静かな朝――
いつも響いていた波の音が聞こえない。
それだけで、いままでとは別の世界だった。
ベッドから身体を起こして窓の外を見ると、輝く王都の姿が見える。
「……ここが、今日からわたくしの生きる場所なのね」
王立学園に通うと決めてからの二週間は大忙しだった。
引っ越しの準備を整えて、島を出て、船で二日。陸路で三日。王都のアルディーニ侯爵家所有の屋敷に移ったのが昨日の昼だ。
部屋には既に学園の制服も届いている。今日から普通の学生としての日々が始まる。
(それにしても……どうしてわたくし、未来の姿が見えたのかしら)
あまりにも生々しい記憶の数々だったが、いまはかなり薄れてきている。
あの未来からズレてきているからかもしれない。
(考えられるのは……死に戻り。もしくは、未来視……そういえば、アルディーニの祖先には、先視の魔女がいたらしいけれど……)
――未来を読める力で、カッシニア島を占拠し、アルディーニ家の基礎を築いたという。
いまはもう伝説。おとぎ話だけれども。
その力がほんの少し、ルクレツィアにも現れたのかもしれない。
昔から勘がよく、カードゲームでも兄に常勝していたから、ルクレツィアはご先祖様に似ているのかもなと言われていたから。
(……だとしたら、ご先祖様に感謝だわ)
そっと祈っていると、扉が控えめにノックされる。
「お嬢様、おはようございます」
入ってきたのはメイドのエリサだった。別邸でのルクレツィア専属のメイドで、普段は暗殺者候補生として励んでいる。表情の変化に乏しいが、可愛い娘で、この屋敷で一番年齢の近い相手だ。
「おはよう、エリサ。身支度を手伝ってもらえる?」
「はい」
髪を梳いてもらい、寝間着から室内着に着替える。
その後は食堂に移動して、朝食を食べる。
今朝のメニューは、バターとハーブを練り込んだ小さなブリオッシュと、アーモンドクリームの入ったクロワッサン。チーズの盛り合わせにハーブ入りのスクランブルエッグ、野菜のサラダ、スモークサーモンのハーブマリネ、桃のコンポート、そして紅茶。
「とてもおいしそうね。いただきます」
食べ始めたところに、ヴァレリオが横にやってくる。
「――ルクレツィア、食べながら聞いていてほしい」
ルクレツィアはスクランブルエッグをフォークに乗せながら頷いた。
「まず、知っての通り、王都内での抗争・暗殺・敵対行為は禁止されている」
「誓約法ね。破ると全ファミリアと貴族から制裁されるのよね」
スクランブルエッグをぱくりと食べる。
バターの風味と卵の甘味、塩加減が美味だった。
そしてぼんやりと考える。全ファミリアと貴族から狙われるのはどんな気持ちだろうと。
きっと、生きた心地がしないだろう。あの記憶があるからなおさら。
「露見すればそうなる」
「つまり、バレないなら大丈夫ということね」
「…………」
ヴァレリオは表情一つ変えなかったが、しばらく沈黙していた。
「ダメよ。わたくしは平和にすごしたいの」
このサラダボウルのように。
色んな考えが絡まりあいつつも、秩序を保ったままでいてほしい。
「少なくとも、表立って狙われることはないんでしょう? つまり、わたくし一人のお出かけも可能というわけで――」
「却下だ。君に何かあれば、私の首が飛ぶ。物理的に」
「……むぅ」
スモークサーモンを切り分けながら唸る。
それは、困る。とても困る。
いまは冗談だが、冗談で済まなくなると困る。
せっかくヴァレリオをファミリアから引き離したのに。
――実際、離れられているかは疑問だが、小さな一歩は着実に進んでいる。
「学園内はさらに厳格な誓約法で守られている。生徒はほぼすべて大ファミリアの関係者や貴族の子女――問題を起こせば、アルディーニ家といえども制裁は免れない」
「――ちょっと待って」
聞き捨てならないことが聞こえて、ルクレツィアは思わずナイフとフォークを置いた。
「わたくし、普通の恋をするために学園に通うのよ? 相手がファミリア関係者だったら困るわよ?」
生徒の中にファミリア関係者がいっぱい紛れているなんて聞いていない。とんだ地雷だ。
「……一応、平民の特待生もいる」
「まあ、そうなの? 特待生なら優秀よね。誰なのか教えて」
「それはできない」
ルクレツィアは頬を膨らませた。
「君は、自分の手で『真実の愛』の相手を見つけるのだろう? 忠告はできるが、紹介や斡旋はできない」
「協力してくれてもいいじゃない。わたくしが『真実の愛』を見つけたら、あなたも自由になれるのよ?」
「拒否します」
いきなり敬語で拒否してくる。これは交渉の余地はないという意思表示だ。
交渉をあきらめてサラダの皿に手を伸ばしかけたところで、ルクレツィアはふと隣に立つ男を見上げた。
――ヴァレリオ。
家名のない、ただのヴァレリオ。
まっすぐ伸びた背筋。長身の体躯。少しの無駄のない動き。
柔らかく整えられた金髪が朝の光を受けて輝き、灰色の瞳は油断なく、冷たく澄んでいる。
すっと通った鼻筋に、引き結ばれた唇。どこから見ても絵になる美形――だが、その両手はいつも黒い手袋に覆われていた。
その手が何をしてきたか、本人の口から語られることはない。
ファミリア構成員の中で、唯一ルクレツィアに敬語を使わない――使うことを禁じられた男。
「――ねえ、ヴァレリオ。あなた、朝食は食べた?」
「ああ」
「何を?」
「……茹でた鶏肉、黒パン、水――以上」
ルクレツィアは眉を顰めた。
「ここでもそればかりなの? 野菜も食べなさい」
言いながら、自分のサラダボウルをぐいっと彼の前に押し出す。ルッコラ、ベビーリーフ、そしてカリフラワーのピクルスが色とりどりに、秩序をもって盛られていた。
「……ピクルスを人に押し付けようとするのは感心しない」
「押し付けてなんていないわ。あなたの食生活が心配なだけよ」
そう、けっして。
けっしてピクルスの酸味や食感が苦手というわけではない。
「……あなたの野菜嫌いは筋金入りね。今夜からはわたくしと一緒に、わたくしと同じものを食べること」
「毒見は調理長がしている」
ヴァレリオは無表情のまま、静かに答える。
「いいから。わたくし賑やかな食卓がいいの。あなたはわたくしの護衛騎士なのだから、食事の時間を守るのもあなたの役目でしょう?」
その言葉に、ヴァレリオは一瞬だけ目を伏せたが、何も言わなかった。
ルクレツィアはすぐに調理長――ビアンカへと視線を移す。
穏やかな笑みを浮かべた恰幅のいい中年女性は、超一流の料理人であり、同時に超一流の毒使いでもある。
「――ビアンカ。皆にも、できるだけ同じものを食べさせてあげてね」
「はい、お嬢様」
「それと、ピクルスはわたくしの分は抜いてもらっていいわ」
「それはできません、お嬢様。好き嫌いはなさらないようにと、旦那様のご命令です」
「むぅ……」
ルクレツィアは小さく唸り、ヴァレリオから戻されてきたサラダボウルにフォークを刺した。
「それと――ピクルスの毒味はヴァレリオ様にもお任せしましょうか」
ビアンカの発言に、ヴァレリオがわずかに眉根を寄せる。珍しく、本気で嫌そうな顔だった。
「それがいいわね」
ルクレツィアはフォークを躍らせ、カリフラワーのピクルスを刺す。
そして、ヴァレリオの前に持っていった。
「はい、あーん」
「…………」
「あーん」
圧を込めながら口の先にピクルスを寄せると、ヴァレリオは渋々と口を開き、フォークからピクルスを抜き取る。
そのまま何回か噛んで、水と共に飲み込んだ。
「……少し、酢が強い」
ぽつりと呟き、もう一口水を飲む。
ルクレツィアは満足して微笑んだ。




