02 護衛騎士《カヴァリエーレ》
自室に戻ったルクレツィアは、バルコニーに出て庭を見下ろす。
煌々と輝く満月が庭を白銀に染めていたが――薄い雲によって庭に闇が広がる。
「ねえ、ヴァレリオ」
名前を呼ぶが、返事がない。
(どうしたのかしら? いつもならすぐに出てくるのに――)
刹那、背後からぐっと抱き寄せられる。
わずかな息と声が漏れた瞬間、肩越しに長い腕が伸び――
弾けるような銃声と、火花が二度散った。
次の刹那、庭から呻き声と、どさりと何かが倒れる音が、夜闇に響く。
「――野良犬です」
すぐ近くから低い声が響き、ルクレツィアは顔を上げる。
雲が晴れ――月明かりが、彼の輪郭を浮かび上がらせる。
鋭くも静かな灰色の眼差し。精悍な頬の線。明るく照らされる金色の髪。
「ヴァレリオ、ちゃんといたのね」
ルクレツィアが笑う後ろで、彼――ヴァレリオは左手を耳に当て。
「――L2区画に一匹。手と肩を潰した。処理を頼む」
通信石に向かって淡々と呟く。
そして――ルクレツィアを見る。いまだ硝煙が立ち昇る拳銃を、右手に持ったまま。
「宴に紛れての潜入を許してしまいました。いかなる罰も」
「じゃあ、敬語はやめて。いつも言っているけれど、あなたはわたくしに敬語を使うのはダメ」
「……わかった」
淡々と答える。鉄の仮面のように、表情一つ変えずに。
――だが、ルクレツィアは知っている。
死の記憶の中のルクレツィアが最後に見たのは、全身を赤く染め、絶望する彼の顔だった。
ヴァレリオは、攫われたルクレツィアを助けに来て――
もう助からないルクレツィアを抱きしめながら――
自分の頭に銃口を当てて、引き金を引いた。
「……どうした?」
生きているヴァレリオに問われ、ルクレツィアは短く息を呑む。
(……あんな未来には、させない)
ルクレツィアはぐっとスカートを握りしめ、顔を上げた。
「わたくしね、この島を出て王都に行くの。学校に通うのよ」
「…………」
「そして、素敵な人と恋をするの」
鉄仮面が、ほんのわずかに揺らぐ。このニュースはヴァレリオにとっても意外だったのかと思うと、少し嬉しくなる。
「――あなたも一緒に来なさい。わたくしの護衛騎士になって」
灰色の目が、微かに見開かれる。
まるで想像もしていなかった雷で打たれたかのように。
ルクレツィアは一瞬だけ不安になる。
断られたらどうしよう、と。
護衛騎士は名誉と言われているが、危険な役目だ。
主のために生き、主のために死ぬ。
組織のためではなく。首領のためでもなく。
――ただ一人の主のために。
主に何かあれば、その命をもって贖う。
それが、アルディーニ家の伝統――護衛騎士だ。
名誉はあるが、名誉なだけで、損な役回りでもある。護衛騎士になれば組織内の出世はもう望めない。ある意味、そこが最高到達点だから。
まだ若く、才能がある彼にとっては、地獄からの勧誘かもしれない。
(わたくしのために、他のすべてを諦めて、なんて――)
しかも首領の命令ではなく、その娘から持ちかけられるだなんて。
きっと、困っている。
それでもルクレツィアは、彼がいい。
――彼でなければならない。
ルクレツィアは彼を、自由にしてあげたい。
自分で命を絶つ未来なんて、訪れさせてはいけない。
(……でも、どうして)
あの記憶のヴァレリオは、護衛騎士ではなかった。
それなのに、どうして自ら死を選んだのだろう。
「…………」
ヴァレリオは長い沈黙の末、静かに口を開いた。
「……私で、いいのか?」
ルクレツィアは明るく微笑んだ。
静寂がふたりの間を流れる。
遠くでフクロウが一声だけ鳴く。
ルクレツィアは手すりにそっと手を置き、ヴァレリオの方へ手を伸ばす。
「ええ、あなたがいいの」
孤児だった彼はアルディーニ家に拾われ、先代――ルクレツィアの祖父に目をかけられて育った。
末端の兵士から始まり、殺し屋を経て、いまは処刑人に任命されていて、『赤い手』なんて素敵な二つ名もついている。
骨の髄から、血の一滴、髪の先までアルディーニ家の道具であり所有物。
まるでルクレツィアのために誂えられたかのように、言葉遣いも礼儀作法も仕込まれた男。
荒くれ者が多いアルディーニ・ファミリアの中で、最も騎士然とした青年。
「二人でこの島を出て、わたくしは王都で恋をして……もちろん、マフィア以外の人とね。そうしてわたくし、自由になるから」
――風が、月光に浮かぶヴァレリオの金の髪を揺らす。
その奥の眼差しが、わずかに揺れた気がした。
「そうしたら、あなたも自由にしてあげる」
「……自由?」
「ええ、自由よ。でもこれはまだ二人だけの秘密ね」
そう。二人で自由になるのだ。
ヴァレリオがルクレツィアの責を負わされなくても済むように。ルクレツィアを助けられなかったことで、自決しなくてもいいように。
ヴァレリオは黒い手袋をはめた手で銃を握ったまま、不可解そうに眉を顰めた。
「……自由とはなんだ」
「自分の思い通りに生きることよ。もちろん自己責任でね。一度きりの人生だもの。たまにはわがままに生きるのもいいじゃない」
ルクレツィアにとっては二度目かもしれないけれど。
あんな破滅の未来は絶対に嫌だ。
ヴァレリオはルクレツィアの差し出した手を一瞥し――しかしそれを握ることはなかった。
ただ、軽く目を伏せる。
「――我が君。それが君の願いなら」
ヴァレリオの返事を聞き――ルクレツィアは眼を見開いた。
「……なんだ、その顔は。君から地獄に誘っておいて」
「……少しだけ、意外だったのよ。本当に、いいの?」
「いい。どこであろうと、何も変わらない。ならば君の近くで、君の行く末を見届けよう」
「ふふっ、退屈させないわよ」
冗談めかして笑うと、ヴァレリオはほんの少しだけ口元を緩ませた。
きっと、本人も無自覚に。
◆◆◆
――ルクレツィアが居間から出ていき、扉が静かに閉じられると、レオナールは迷いのない足取りで部屋の中央に進み出た。
燭台の光が、獅子のような赤毛を柔らかく照らす。
「親父、本気か? ルルを内地に――王都に送るなんて」
レオナールが動揺を含んだ声で問う。
侯爵――アルディーニ家の当主は、新しい葉巻を手に取り、自分で火をつけた。ふわりと立ち上る煙が、厳格な横顔を薄くなぞる。
「ルクレツィアにも考えがあるのだろう。ならば責任を取らせるまでだ。可愛い子猫のままでいるか、獅子になるか……」
侯爵は煙をくゆらせながら続ける。
「それに、島よりも王都の方が安全だ。あそこには誓約法がある。煩わしい犬どもも、好き勝手には吠えられん」
レオナールは唇を噛み、納得しかねる表情を浮かべる。
「あそこも表向きは平和ってだけだろ。裏では血の雨が降ってる」
「――まあ、ヴァレリオが傘となれば、そう簡単に濡れはせんだろう」
侯爵は喉の奥で笑い、葉巻の先を灰皿に落とした。
「若者の、島の外を見たいという気持ちは、押さえつけられるものではない……お前にも覚えがあるだろう」
「……わかったよ、親父……だが――」
レオナールの目の奥では、いまだ炎が燻ぶっていた。
「ルルを泣かすようなやつがいたら、容赦しねぇからな」
その声音には、兄としての怒りと、アルディーニの男としての血が、隠しようもなく滲んでいた。
父はそんな息子を見つめ、ふっと鼻で笑うように葉巻を指先で弄ぶ。
「――レオ、お前もアルディーニの男なら覚えておけ」
レオナールが顔を上げる。
父はゆっくりと口の端を上げた。
威圧感のある顔に浮かんだその微かな笑みは、妙に人間くさかった。
「娘が真剣な顔で突拍子もないことを言い出したら、反対するな――とな」




