28 閉じる花
視線がいっせいに集まった先で、淡い水色のドレスを着た若い令嬢が、片手で喉もとを押さえていた。もう片方の手から、グラスが床へ落ちる。薄い音を立てて砕け、透明な液体が磨かれた床の上へ飛び散った。
令嬢の顔色は、見る間に白くなっていっていた。
「マルタ?」
すぐそばにいた黒髪の青年が彼女の名を呼び、慌てて肩を支えた。だが支えきれず、令嬢の膝が崩れる。水色の裾が乱れて床へ広がり、その体が傾いた瞬間、会場のあちこちで息を呑む音が重なった。
青年の反対側から、淡い藤色のドレスの少女が駆け寄る。
「どうしたの、しっかりして!」
その声音には、驚きより焦りが強く混じっていた。三人はもともと一緒にいたのだろう。ついいましがたまで、笑いながら杯でも交わしていたのかもしれない。
だがいまは違う。
水色のドレスの令嬢は荒く息を吸おうとして、うまくできないように胸を上下させている。喉を押さえる指先が震え、薄く開いた唇からかすれた呼気だけが漏れた。
ざわめきが、一気に波立った。
「どうしたの?」
「気分が悪いの?」
「誰か、医師を」
「お酒が合わなかったのでは」
「違うわ、あれは……」
言葉は交錯し、だが誰も近づききれない。華やかな夜会の空気は、ほんの数秒で怯えた鳥の群れみたいにばらばらになっていた。
ルクレツィアは無意識のうちに、一歩前へ出ていた。けれどその肩の前に、すぐヴァレリオの腕が入る。
「下がれ」
「でも」
「君が出る必要はない」
必要がない。そう言われて、ルクレツィアは唇を噛む。
だが、もしヴァレリオに止められていなかったら、自分も同じように倒れていたかもしれない。
ヴァレリオは銀盆をエリサへ渡す。
「誰にも触らせるな」
「かしこまりました」
エリサは静かな目で盆の上を見下ろし、給仕の逃げ道を塞ぐように一歩ずれる。その動きは控えめなのに、妙に鋭い。
その時、人垣の向こうから、一人の男がためらいなく前へ出る。
ジュリアーノだった。
彼は倒れかけた令嬢のそばへ膝をつくと、支えている青年へ短く告げた。
「頭を持ち上げすぎないでください。呼吸が浅くなります」
声はよく通るのに、不思議なほど落ち着いていた。あたりにいた者たちが、その声だけで少し静まる。
ジュリアーノは令嬢の手首へ指を当て、次に瞼の動きを見た。口もとへ顔を寄せ、呼気を確かめ、落ちたグラスの液体へちらりと目を走らせる。その一連の動きが、迷いなく早い。
「水を。冷たいものではなく常温で。あと椅子を一つ」
近くの給仕が、弾かれたように動いた。
藤色のドレスの少女が青ざめた顔で問う。
「だ、大丈夫ですの……?」
「いますぐ命に関わるものではありません」
ジュリアーノははっきりと言った。
彼は水色の令嬢の肩を支えながら、静かな声を続ける。
「強い毒ではない。刺激が強く、しばらく体調を崩すでしょうが、致死性はありません。飲んだ量も多くはないようです」
致死性はない。
その言葉に、倒れた令嬢を支える青年が、ほっとしたように息をつく。けれど、その横に膝をついていた藤色の少女の表情が、ほんの一瞬だけ凍ったのだ。心配している顔から、別の何かへ変わる一瞬。
ルクレツィアの胸の内側で、何かがひやりと形を取る。
――あの少女は。
考えがそこまで届いた時、令嬢が喉を押さえたまま苦しげに身をよじった。支えていた青年が思わずその名を呼び、さらに身を寄せる。
「マルタ、しっかりしろ。私がついているから」
その必死さは恋人のものに見えた。
だが、それを聞いた藤色の少女の顔が、今度こそはっきり歪んだ。
「……どうして」
ぽつり、と。
誰に届かせるでもない小さな声だった。けれど、近くにいたルクレツィアの耳には届いてしまう。
「どうして、あなたがそんな顔をなさるの」
少女の唇が震える。
青年ははっとしたように顔を上げた。周囲の令嬢たちの視線が、彼と、倒れた令嬢と、藤色の少女のあいだを行き来する。
会場のざわめきが、今度は別の意味でざらりと波立った。
毒の気配だけではない。もっと生臭い、感情の匂いが広がっていく。
その中で、水色の令嬢の体が、とうとう完全に力を失う。
青年が咄嗟に抱き留め、周囲から短い悲鳴が上がった。
割れたグラスのそばで、淡い液体が灯りを弾いている。
そのきらめきはまだ美しいままだというのに、会場の空気だけがすっかり変わってしまっていた。
ルクレツィアは、倒れた令嬢と、その傍らの二人をじっと見つめた。
黒髪の青年は、青ざめた顔で水色の令嬢の名を呼び続けている。手の添え方が妙に慣れていて、躊躇がない。倒れた相手を支えるというより、もともとそうする権利を知っている者の手つきだった。
そして、藤色の令嬢。
彼女は駆け寄った。声も上げた。形だけ見れば、友人を案じているように見える。
けれど、見ているのは水色の令嬢の顔色ではない。青年だった。
青年が誰を見て、誰の名を呼び、誰に手を伸ばしたのか。そればかりを見ている。
ルクレツィアは扇の骨を指先でそっと押さえた。
(――あら……なるほど)
恋愛小説で散々読んできた知識が、胸の中で静かにぱたりと開く。
これは嫉妬だ。
そして三角関係。
水色の令嬢と青年は、やけに仲がよさそうだった。人前で倒れた相手を庇う、その必死さがもう不自然なほど親密で、逆に隠しきれていない。
ならば、藤色の令嬢が浮かべたあの顔も説明がつく。
友人が倒れたことに驚いた顔ではない。
狙った相手を苦しめたはずなのに、その瞬間、男の視線までその相手に奪われた女の顔だ。
おそらく、最初から水色の令嬢を困らせるつもりだったのだろう。
皆の前で、少し具合を悪くさせ、醜態をさらさせる。
そのために、特定の一杯ではなく、近くへ運ばれる飲み物へまとめて仕込んだ。
おおざっぱだが、感情に任せた犯行としては妙に納得がいく。
致死性の毒を使わないところは、少し可愛らしいとすら言えた。
もちろん、やっていることはまったく可愛らしくないのだけれど。
――筋は見えたが、ルクレツィアは何も言わなかった。
探偵役になる気はない。
第一、いま頭の中で並んだ推理は、恋愛小説で鍛えた勘にすぎない。もし外れていたら、ずいぶん気取った早合点をしたことになる。それはかなり恥ずかしい。
そういう恥は、できれば人前でさらしたくない。
だから彼女は、ただ観察した。
ジュリアーノが静かな声で周囲へ指示を飛ばしている。
ヴァレリオはルクレツィアの半歩前を動かない。
エリサはすでに給仕の動線まで目で追っていた。
そして、会場の反対側から、柔らかいがよく通る声が響く。
「皆さま、どうか落ち着いてくださいませ」
アンネローゼだった。
先ほどまで花のように愛らしく笑っていた少女が、いまは背筋を伸ばし、驚くほど澄んだ顔で立っている。その隣には年長の令嬢たちが並び、さらに数人、カメーリアの会の腕章をつけた若い男女が静かに散っていった。
動きに無駄がない。
笑顔ではある。だが、これはもはや愛想ではなく統率のための表情だ。
「飲食物には、もう手をお触れになりませんようお願いいたします」
別の令嬢がすぐに続ける。
「少しでも気分の優れない方は、その場で結構ですのでお申し出くださいませ。医師と休憩室をご用意しております」
さらに一人、落ち着いた声が場を引き取った。
「本日の会は、ここまでとさせていただきます。皆さまにはご迷惑をおかけいたしますが、ご理解くださいませ」
鮮やかだった。
つい先ほどまで恋の駆け引きと噂話で満ちていた場が、整然とした撤収の空気へ変わっていく。
やがて、年長の婦人が静かに前へ出た。
「事情を伺う必要がございます」
彼女はまず青年へ、次に水色の令嬢を見下ろし、それから藤色の令嬢へ視線を向ける。
「こちらへ」
柔らかな声音だった。だが、断れる響きではない。
青年が何か言いかける。水色の令嬢はまだ青い顔のまま、藤色の令嬢は唇を噛みしめている。その三人を、カメーリアの会の者たちが静かに取り囲んだ。包囲と呼ぶには優雅で、案内と呼ぶには隙がなさすぎる。
まるで椿の花びらに囲まれて連れて行かれるみたいに、三人は別室の方へ導かれていく。
ルクレツィアは、その光景を見送りながら小さく息をつく。
「恋物語にもいろいろあるのね」
ヴァレリオが、ほんのわずかにこちらを見る。
「……そうだな」
「でも、他人を巻き込むのは勘弁してほしいわ」
――もし自分が倒れていたら。
アルディーニの意思は、それを看過しないだろう。必ず報復に出る。
もしかしたら、『血のアルディーニ』の未来に繋がっていたかもしれない。
その想像は、いまになって背筋を撫でる。
だが、それは食い止められた。ヴァレリオの嗅覚によって。
ルクレツィアは顎を上げ、護衛騎士を見上げた。
「……今夜のあなた、やっぱり柱ではなくてよ」
灰色の瞳が、わずかに細められる。
「わたくしの騎士だわ」
そう言った途端、ヴァレリオの眉がほんの少しだけ動いた。
その反応がおかしくて、ルクレツィアはようやく、ほんの少しだけ本当に笑った。
――ああ、それにしても。
ジュリアーノという男は、思っていた以上に厄介そうだ。




