27 落ち着かないダンス
ジュリアーノの背が人波の向こうへ消えていくのを見送りながら、ルクレツィアは小さく息を吐いた。
一曲踊っただけだというのに、妙に肩がこる。
ルクレツィアは気持ちを切り替えるように顔を上げる。
舞踏会はまだ続いている。弦楽の音色は絶えず流れ、笑い声もグラスの触れ合う音も、何事もなかったかのように上品だ。けれど、ほんの少し前までとは空気が違っていた。
視線が増えている。
最初の一曲をジュリアーノ・ベルナルディに取られたことで、好奇心と憶測がいっそう濃くなったのだろう。遠巻きに眺める目、ひそひそと囁き合う口もと、こちらの様子を窺いながらも近づききれない青年たち。
視線を受けながら壁際へ戻ると、ヴァレリオは相変わらず黒い柱のように立っていた。隣にはエリサ。二人とも、最初から一歩も動いていないような顔をしている。
――その時、すぐ近くで若い令嬢たちの小さなさざめきが聞こえた。
「ねえ、あれ、ヴァレリオ教官見習いじゃない?」
「まさか。教官見習いがカメーリアの会に出るわけないじゃない。……でも、似てるわね」
「もし本当にそうだったら、どうしましょう」
「誘われたらどうしよう……危険な恋って感じがして素敵じゃない……?」
扇の陰で、ルクレツィアのこめかみにぴしりと音が入った。
当のヴァレリオは、何も聞こえていないような顔で壁際に立っている。壁の柱という表現が、いまになって妙にしっくりきている。しかしその柱は目立つ。とても目立つ。そして女子たちには妙な方向で評判が良い。
「…………」
何故か、むか、とした。
「……ただいま」
エリサの口もとがほんのわずかにゆるみ、扇を差し出す。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
ヴァレリオは何も言わない。ただ灰色の目が、ルクレツィアの顔から肩、指先へと静かに落ちて、すぐ元に戻る。怪我がないかでも確かめるみたいな視線だった。
「そんなに見なくても、無事よ。たかが一曲踊っただけでしょう」
「近づいた男が、何もするつもりのない人間だとは限らない」
低く返ってきた言葉に、ルクレツィアは目を細める。
「ずいぶん物騒な舞踏会ね」
「君がいる場所は、大抵そうだ」
その感情の正体を考える前に、ルクレツィアは扇をエリサへ押し戻した。
「エリサ、まだ持っていてちょうだい」
「お嬢様?」
エリサがわずかに首をかしげる。
ルクレツィアは何でもない顔で、ヴァレリオを見上げた。
そして、微笑む。
「あら。舞踏会で令嬢に恥をかかせるつもり?」
言いながら、片手を差し出した。
白い手袋越しの細い指先。受け取られるのを当然とするように、けれどどこか挑発するように。
ヴァレリオの視線が、その手に落ちる。
ほんのわずかに、彼の指がためらった。
その一拍が、ルクレツィアには妙に長く感じられた。周囲のざわめきも、弦楽の旋律も、その瞬間だけ遠のいてしまったような気がした。
だが次の瞬間には、ヴァレリオはきわめて礼儀正しい動作でその手を取っていた。
白手袋の指先が、ルクレツィアの手を確かに包む。
「――姫。一曲、お相手していただけますか」
「ええ、よろこんで」
その瞬間、周囲の空気が明らかに揺れた。
さっきまで「危険な恋」と囁いていた令嬢たちの息を呑む気配が、背中越しにもわかる。
ヴァレリオに手を取られ、フロアへ歩き出す。
――それは、不思議な時間だった。
自分の身体が、ふわふわと軽く感じられる。ヴァレリオの手も、歩き方も、まったく揺らぎがないのに。まるで見えない糸で支えられているような、妙な浮遊感だけが胸の奥へ残っている。
フロアの中ほどで向かい合う。
周囲にはまだ視線があるはずなのに、いまはそれが少しも気にならなかった。あるのは音楽と、磨かれた床と、目の前の灰色の瞳だけだ。
彼の手が、礼節の範囲で腰へ添えられる。
その瞬間、ルクレツィアは思わず瞬きをした。
――近い。
そして、逃げ場がない。
ワルツの拍子に合わせて導かれるたび、スカートの裾がやわらかく広がる。アイボリーの布がふわりと揺れ、その流れに合わせるように、ルクレツィアの身体も自然に運ばれていく。
驚くほど、足が迷わない。
ヴァレリオの導き方には無駄がなかった。大きく見せるための誇張も、相手を酔わせるための技巧もない。ただ、確実に支え、確実に運ぶ。その一点だけを磨いたような踊り方だ。
「……練習の成果が出ているわね」
ルクレツィアが小さく言うと、ヴァレリオの目がほんの少しだけやわらいだ。
「君の教え方がよかったんだろう」
「だったら嬉しいわ。また教えてあげる」
少し得意げに言ってみせると、ヴァレリオは一拍置いてから、低く返した。
「……君は、無防備すぎる」
その言葉に、ルクレツィアは目を丸くした。
「人前で、そう簡単に誰とでも踊るな」
「誰とでもではなくてよ」
言い返しながらも、胸の奥が妙にざわつく。
ヴァレリオの表情は変わらない。けれど、その手は変わらず正確で、ルクレツィアが一歩も踏み外さないように支えている。
「なお悪い」
「どういう理屈なの」
「私だからだ」
あまりにも短く言われて、ルクレツィアは一瞬だけ言葉を失った。
次のターンに入る。ヴァレリオの指先がほんの少しだけ圧を変え、その合図に合わせてルクレツィアの身体がふわりと回る。スカートの裾が花びらのようにひらき、元の位置へ戻った時には、まだ胸の奥のざわつきが消えていなかった。
彼は真顔だ。
冗談を言った顔ではない。
脅した顔でもない。
ただ事実を口にしただけの顔だった。
やがて曲が終わりへ近づき、旋律が最後のやわらかな円を描く。
ヴァレリオは何も言わず、最後まで乱れのない動きでルクレツィアを導いた。見せ場を作ろうとはしないくせに、終わり方まできちんと美しい。
最後の一節。
彼はルクレツィアを静かに引き寄せ、きっちりと礼を尽くす形へ導く。決して強引ではないのに、少しも揺れない。完璧、と言うより、隙がない。
ルクレツィアは息を整え、彼を見上げた。
「いきなり上達しすぎだわ」
ヴァレリオはそれには答えず、ただルクレツィアの手を丁寧に離した。
その指先が離れていくのを、ルクレツィアは一瞬だけ惜しいと思ってしまい、内心でそっと眉を寄せる。いまのは忘れることにする。
フロアから出ると、白い手袋をした給仕が銀盆を掲げて近づいてきた。
「お飲み物を」
差し出された盆には、細長いグラスがいくつか並んでいた。淡い琥珀色、透き通った薄桃色、氷を落とした淡い金。灯りを映してきらきらと揺れるそれらは、いかにも舞踏会らしく美しい。
「ありがとう」
ルクレツィアが、盆の上の一つへ手を伸ばした――その瞬間。
指先がグラスの脚に触れるより早く、別の手がその前に滑り込む。
「待て」
ヴァレリオが、ルクレツィアの指先とグラスのあいだへ、静かに自分の手を差し入れる。
給仕の顔がわずかに強張る。
ルクレツィアは伸ばしかけた手を中途半端な位置で止めたまま、ヴァレリオを見上げた。
「どうしたの?」
「香りが違う」
それだけ言って、ヴァレリオは盆ごと給仕から受け取った。動きがあまりに自然だったので、給仕自身、一瞬なすがままになっていたほどだ。
「違う、って……」
ルクレツィアが言いかけた、その時。
「きゃっ……!」
短い悲鳴が、少し離れた場所から上がった。




