26 危険なダンス
「最初の一曲を、お相手いただけませんか。ルクレツィア嬢」
手が差し出される。
会場の視線が、ゆるやかにこちらへ集まっていた。
ルクレツィアは閉じた扇を胸もとで軽く持ち直し、その手を見つめた。
「お誘いは光栄ですわ、副会長殿」
ルクレツィアはそこで一拍だけ間を置き、赤い髪を揺らしてわずかに首を傾げた。
――断りたい。
だが、断る理由がない。
――そもそもどうして自分なのか。いまのルクレツィアとジュリアーノは同じ学園の生徒としての関りしかない。
壁の花になっているのを哀れまれたのか。
だが、ここで「どうしてわたくしに?」と問うのもなんだか自意識過剰だ。
ルクレツィアはエリサに扇を渡す。
「――では、一曲だけ」
「ありがとうございます」
白手袋越しに受け止められた手は、思ったよりも落ち着いていた。手慣れた男の手だ。無遠慮ではないが、迷いもない。
ジュリアーノに導かれ、ルクレツィアはフロアの中央へ歩き出す。
歩きながら、一瞬だけ背後を振り返った。
ヴァレリオは何も言わない。けれど、その灰色の瞳だけが、ほんの少し冷えて見えた。
ルクレツィアはすぐに視線を前へ戻す。
いまは目の前だ。
注目されている。失敗するわけにはいかない。
曲は、ちょうど一つの楽章の柔らかな盛り上がりに差しかかっていた。ワルツの拍子に合わせ、ジュリアーノが滑らかにルクレツィアを迎え入れる。片手は手を取り、もう片方は礼節の範囲で腰を支える。
近い。けれど、不躾ではない。うまい、と認めるしかなかった。
「お似合いの色ですね」
最初の一歩とともに、ジュリアーノが言った。
「椿の赤に負けないどころか、今夜は花のほうが飾りに見えます」
「まあ。副会長殿は、舞踏会のたびにそんなことを仰るの?」
ジュリアーノは少しだけ目を細める。
「少なくとも、今夜は初めてです」
さらりと言う。
まるで本当にそれが事実であるかのように。
そして、ジュリアーノは慣れていた。
足運びに一切の乱れがない。ターンへ入る前の重心移動も静かで、相手に余計な負担をかけない。
「お上手なのね」
「一応は嗜みとして。ですが、あなたに褒めていただけるなら、身につけた甲斐がありました」
随分と社交がうまい。
正面から見上げると、黒髪の下の顔立ちは整っていた。穏やかで、涼しくて、丁寧だ。いかにも令嬢たちに好かれそうな男である。
なのに、どこか熱の届かない場所がある。人当たりはいいのに、近づききれない。そんな評判が、いまなら少しわかる気がした。
「驚きました」
ターンを導きながら、ジュリアーノが不意にそう言った。
「あなたが今夜、本当にいらっしゃるとは思っていなかったので」
「まあ。どうして?」
「婚約解消の直後ですから。社交の場に出るには、少しばかり厄介な時期でしょう」
婚約解消。
「あら、随分と耳が早いのね」
「貴族とファミリアは耳ざとく、目ざとい。そうでしょう?」
くるりと一回転する。スカートの裾がふわりと広がり、磨かれた床の上をアイボリーの布が柔らかく流れる。
「その話を聞いて、すぐに結婚の申し込みを送ったのですが」
――ルクレツィアは転びそうになるのを、なんとか立て直した。
いまこの男は何を言った?
結婚の申し込み?
「行動も早いのですね。でも、聞いておりません」
ルクレツィアはターンを終えながら、何でもない声で言った。
「少なくとも、正式な話としてはわたくしの耳に届いていませんわ」
実際のところ、婚約解消後すぐにルクレツィアは王都に来たから、行き違いになっているのかもしれない。
だが、その後に本家から婚約に関する話が一つも届いていないところを見ると、無視されているか保留されているのだろう。
ジュリアーノは少しも慌てなかった。
「それは残念です」
そう言いながら、ぜんぜん落ち込んでいない。
そして、この話でいくつもわかったことがある。
ジュリアーノは優秀な諜報部隊を飼っている。
すかさず結婚を申し込んでくる行動力がある。
――そして。
この男は、アルディーニ家と深い縁を結びたいと思っている……
「申し訳ございませんが、父はわたくしの気持ちを最優先で考えてくださいます。いいお返事はいただけないものと思っていてください」
「ああ――なら、あなたに気に入っていただければいいのですね」
まるで、その方が簡単だ、と言いたげだった。
ルクレツィアは目を細めた。
「わたくしを、ずいぶんと気に入っていただけているのね」
「はい」
「アルディーニの娘だから?」
「それだけではありません」
やわらかな口調のくせに、言葉の芯は妙に硬い。
「美しく、知性があり、物怖じしない。家名に押し潰されないだけの胆力がある。そういう方を前にして、躊躇する理由がありません」
「……最後の一つだけ、もう少し濁してもよろしかったのではなくて?」
「なぜです?」
ジュリアーノはターンの流れに合わせてごく自然にルクレツィアを引き寄せ、低く言う。
「あなたはアルディーニの娘であることを含めて、あなたでしょう」
その一言に、ルクレツィアの背筋がひやりとした。
「……怖い人ね、あなた」
つい本音が漏れる。
だがジュリアーノは、傷ついたふうにも、怒ったふうにもならなかった。
「時間はたくさんあります。あなたを振り向かせてみせますよ」
音楽が終盤へ向かい、旋律がわずかにふくらむ。フロアの上の組が、同じように最後の流れへ身を預けているのがわかった。いよいよ一曲が閉じていくのだ。
ジュリアーノの手は最後まで乱れず、足運びも静かなままだった。
曲の最後の一節。
ジュリアーノはルクレツィアをゆるやかに引き寄せ、きっちりと礼を尽くす形へ導いた。過不足なく、美しい終わり方だった。
「……美しい姫君に、ダンスのお礼にひとつ捧げ物を」
静かな声が、耳元で響く。
「君のすぐ近くに、裏切者がいる」
「……ご忠告ありがとう。でもわたくし、根拠のない中傷は信じないことにしているの」
ジュリアーノは微笑みを浮かべて一歩退き、ルクレツィアの手を丁寧に離した。
「次も、機会があれば」
「機会があれば、ね」
彼は深く一礼し、いったん身を引く。その去り方まできれいで、見送る側に余計な隙を与えない。
ルクレツィアはその背を見送り、それからゆっくりと息を吐いた。
ふと視線を巡らせる。
壁際には、黒い柱のように立つヴァレリオがいた。




