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22 秘密の時間



 別邸の地下射撃場には、火薬と油の匂いがまだ薄く残っていた。


 訓練を終えたばかりのルクレツィアは革張りの長椅子に腰掛け、脱いだ手袋の指先を揃えながら、ふうと小さく息をついた。さっきまで銃を握っていた手のひらには、わずかな痺れが残っている。


 向かいではヴァレリオが訓練用の器具を片づけていた。黒手袋のまま淡々と動くその姿は、今日も無駄なく静かで、いつ見ても少し腹立たしいほど整っている。


 彼は最後に標的の位置を確認し、壁際に置かれた木箱の蓋を閉めると、ようやくルクレツィアへ視線を向けた。


「……結局、クラブには入らないのか?」


 低い声が、広い地下室に小さく響く。


 ルクレツィアは少しだけ唇を尖らせた。


「どこに行っても、あなたの監視付きなんでしょう?」

「監視ではない。護衛だ」

「言い換えただけじゃない」


 ルクレツィアは椅子の背にもたれ、天井を見上げる。


「ゆっくり探すわ。焦る必要はないもの。それにわたくし、『真実の愛』を探すのに忙しいの」


 その言葉に、ヴァレリオの表情はほとんど変わらなかった。変わらなかったが、ほんのわずかに目が細くなった気がした。


「そうか」

「そうよ」


 ルクレツィアは満足げに頷く。だが次に落ちた問いには、わずかに瞬きをした。


「……あの副会長と、何かあったのか?」


 一拍遅れて、その意味が胸の奥へ落ちる。


 ルクレツィアは顔を上げた。ヴァレリオは相変わらず落ち着いた顔をしている。問い詰めるようでもなく、ただ、見逃してはいないという顔でこちらを見ていた。


「――君が、緊張していた」


 ルクレツィアはほんの少しだけ肩をすくめる。


「あるわけないわ」


 すぐにそう返してから、言葉を継いだ。


「あったら、あなたが知らないはずがないでしょう?」


 それは半分、本音だった。


「緊張したのは、なんだか嫌な雰囲気がしたからかもね」


 ヴァレリオは数秒だけ黙ったあと、深追いはしなかった。


「……そうだな」


 その返事に、ルクレツィアは少しだけ救われた気がした。


 ジュリアーノのことは言葉にできない。「未来の記憶を見たの」なんて言えるはずもない。

 どんな未来か聞かれて――アルディーニ家が大暴れしていくつもファミリアや家を潰して、その復讐のためルクレツィアを攫って、殺して――


 助けに来てくれたヴァレリオも、自決するだなんて。


 ――言えるわけがない。


 だからルクレツィアは、わざと声の調子を変えた。


「それより、婚活舞踏会に行ってみようかと思っているの」


 ヴァレリオの眉が、わずかに動く。


「婚活舞踏会?」

「アンネローゼ様から聞いたの。学園の外縁にあるサロンで、月に一度、若い男女を集めて小さな舞踏会を開いているんですって。名目は交流会だけれど、実質は良縁探しだとか」

「……ずいぶんと率直だな」

「率直で何が悪いの。恋愛市場というものは、ある程度はそういうものでしょう?」


 ルクレツィアは得意げに顎を上げ、それからふと、いたずらを思いついた子どものように目を細めた。


「ねえ、ヴァレリオ。ダンスはできる?」

「一通りは習ってある」

「まあ」


 ルクレツィアはすっと立ち上がった。長椅子の前に出ると、スカートの裾を軽く整え、そのまま手を差し出す。


「なら、付き合ってちょうだい」


 ヴァレリオの目が、差し出されたその手へ落ちた。


「……やめてくれ。首が飛ぶ」


 あまりにも真顔で言うので、ルクレツィアは吹き出しそうになった。


「誰も見ていないわ。おさらいに付き合って」

「ここは射撃場だ。ダンスを練習する場所ではない」

「いいから」


 ルクレツィアはなおも手を差し出したまま、動かない。


「舞踏会に行くなら、少しは勘を取り戻したいわ」


 ヴァレリオはしばらく黙っていたが、やがて観念したようにごく小さく息をついた。


 そして、黒手袋のまま、その手を取った。


 ルクレツィアはにっこりと笑う。


「まずはワルツとパヴォーヌから行きましょうか」

「指導までされるのか」

「当然でしょう。あなたは護衛騎士で、わたくしはお嬢様よ」

「何の説明にもなっていない」

「気分の問題よ」


 地下射撃場の石床の上で、二人は向かい合った。


 ルクレツィアは左手を軽く持ち上げ、もう片方の手をヴァレリオの腕に添える。ヴァレリオも形だけはきちんと整えた。けれどその動きは、剣や銃を扱う時と比べると、ほんのわずかに硬い。


 ルクレツィアはすぐにそれに気づき、ぱちりと目を瞬かせた。


 ヴァレリオが、ちょっとぎこちない。


 ほんの少しだけ重心が高い。踏み込みのタイミングも、完璧とは言いがたい。おそらく手順は覚えている。けれど、身体がまだ武術のほうへ引っ張られているのだ。


 ルクレツィアは、思わず唇をほころばせた。


 完璧な男の弱点を見つけた気分だった。


 護衛騎士カヴァリエーレに、思わぬ弱点を見つけた気分。


「ふふっ」

「何だ」

「べつに?」


 ルクレツィアはくすくす笑いながら、一歩下がる。ヴァレリオがそれに合わせて動く。動くが、やはり少しだけ硬い。


「やっぱり、少しぎこちないわね」

「習ってあるとは言ったが、得意だとは言っていない」

「あなたにも苦手なことがあるのね」

「あるだろう。人間なんだから」


 そんなことを言いながらも、表情はほとんど変わらない。その真面目さがまた可笑しくて、ルクレツィアは肩を揺らした。


「ふふっ、わたくしが教えてあげる」

「遠慮したい」

「駄目よ」


 ルクレツィアは少しだけ距離を詰め、声を落とした。


「ほら、そこ。もっと自然に重心を落として。あなた、剣を構えるみたいに立っているわ」

「似たようなものだと思っていた」

「ぜんぜん違うわ。ダンスは戦いじゃないもの」

「……そうか」

「そうよ」


 ヴァレリオの手は相変わらず黒手袋越しで、掌は大きく、硬い。けれどその手に導かれて回るというより、いまはむしろルクレツィアが彼の動きを直しているのだった。


 それが何だかくすぐったくて、少しだけ愉快だ。


 何度かステップを踏むうちに、ヴァレリオの動きはだんだん滑らかになっていった。もともと身体の軸はしっかりしているのだ。慣れさえすれば、それなりに形になる。


 ルクレツィアは満足して頷いた。


「ええ、さっきよりずっといいわ。……やっぱり、社交ダンスクラブがいいかもね。パートナーと恋が生まれそう」


 その瞬間、ヴァレリオの足がほんの一瞬だけ止まった。


「……君に触れた生徒は、指を一本ずつ返されるだろうな」

「怖いこと言わないで。……もしかして、あなたがするの?」

「私ではない。アルディーニの意思がだ」


 あまりにもさらりと言うので、かえっておそろしい。


「君の普段の行動、誰と話したか、すべて報告書に記し、毎日本家に送っている」


 ルクレツィアは足を止め、じっとヴァレリオを見上げた。


「じゃあ、このことも書くわけ? 護衛騎士カヴァリエーレと地下でダンスの練習……って」


 ヴァレリオは黙った。


 見事なくらい黙った。


 ルクレツィアは思わず笑ってしまう。


「冗談よ」


 そう言って、彼の手をもう少しだけしっかりと握る。


「あなたの首が飛ぶのも、指が離れるのも嫌だもの」


 ヴァレリオの灰色の目が、わずかに揺れた気がした。

 けれどそれも一瞬のことで、彼はすぐにいつもの無表情へ戻る。


 ルクレツィアはそのまま、少しだけいたずらっぽく目を細めた。


「あなたはすべてわたくしのものよ、護衛騎士カヴァリエーレヴァレリオ」


 地下射撃場の白い灯りの下、その言葉は妙に静かに落ちた。


「だから、この時間のことは誰にも秘密……ね?」


 ヴァレリオはしばらく答えなかった。


 その沈黙のあいだに、ルクレツィアは自分の心臓が少しだけ速くなっていることに気づく。

 何でもない顔をしているくせに、こういう時だけ彼は返事を遅らせる。ずるい男だと思う。


 やがて、低い声が静かに響いた。


「……了解」


 ルクレツィアは微笑み、もう一度だけ彼を導くように一歩を踏み出した。





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