21 最悪の相手との初対面
練習試合は、観客たちの半ば野次のようなざわめきの中で始まった。
地下賭博場の中央に据えられた卓の上には、黒と白の駒がきっちりと並んでいる。見た目だけなら、どこにでもある普通のチェス盤だ。けれど、その上で行われるのは、もはや普通のチェスではなかった。
対面に座る責任者の男子生徒は、まだどこか余裕を残した顔で指先を組んでいた。
ルクレツィアはそんな彼に、いっそ優雅なくらいの微笑みを向ける。
「では、まずは練習よ。ルールを身体で覚えてちょうだい」
「練習、ね……」
男子生徒は鼻で笑い、最初のポーンを進めた。
序盤はほとんど普通だった。
何人かの見物人が「案外まともじゃないか」と囁き、クラリッサも少しだけほっとしたように胸を撫で下ろす。
けれど中盤に差しかかったところで、ルクレツィアのビショップが相手のビショップを取った瞬間、その空気は一変した。
ルクレツィアは奪った駒を指先で摘まみ上げ、にっこりと微笑む。
「このビショップ、元はあなたの腹心だったけれど……昨日、わたくしのチョコを気に入ってしまって」
地下室が一瞬しんとした。
「……は?」
責任者の男子生徒が目を瞬く。
「だから今日からこちらの者よ」
そう言って、ルクレツィアはそのビショップを盤の脇に丁寧に置いた。
「なんか物語が始まってる?!」
見物人の一人が思わず声を上げる。
ルクレツィアは涼しい顔で続けた。
「相手の駒を取るときは、ストーリーを語ってね」
「いまさら追加するルールか?!」
「いまさらではなく、『マフィア将棋』はそういうルールよ」
責任者の男子生徒が頭を抱えそうな顔になる。だが、周囲ではむしろ面白がるような笑いが広がっていた。
勝負はそのまま進む。
ルクレツィアは今度はナイトを取り、その駒を軽く持ち上げて、まるで朗読でもするような柔らかな声で告げた。
「このナイトは、騎士団から追放され、わたくしのクイーンと出会って恋に生きたのよ。だから、あなたのキングを守る義理はもうないの」
「ナイトぉぉぉぉ!! 貴様ああああ!!」
責任者の叫びに、見物人たちがどっと笑った。
だが笑っている間にも、盤面の形は確実にルクレツィア有利へ傾いていく。
取った駒を再利用するまでもなく、淡々と、そして容赦なく相手の動きを狭めていく。
追い込まれた責任者の男子生徒は、何度も盤面を睨み、ルクレツィアを見、また盤面を睨んだ。
けれどどこをどう見ても、逃げ道がない。
ルクレツィアは顎に指先を当て、楽しそうに小首を傾げた。
「あらあら……取った駒を使わずに勝ってしまいそうね」
「っ……」
責任者の男子生徒が息を呑む。
次の一手で、完全に詰みだった。
ルクレツィアは最後の駒をそっと動かし、盤面を見下ろして微笑む。
「わたくしの勝ちね」
地下賭博場のあちこちで、息を吐く音が重なった。
誰かが「早すぎるだろ」と呟き、別の誰かが「練習試合でこれかよ」と呻く。
ルクレツィアは椅子にもたれ、満足そうに言った。
「――では、次は本番」
「いや、もういい」
責任者の男子生徒は両手を上げた。
さっきまでの余裕はすっかり消え失せ、顔には疲労と困惑がくっきり浮かんでいる。
「あんたの実力はよくわかった。普通のチェスでもかないそうにないのに、こんな変則チェスで勝てるわけがない。そいつの借金はチャラにしてやる。だから早く出て行ってくれ」
クラリッサがはっと顔を上げた。
けれど、ルクレツィアはそこで首を傾げた。
「誰がいつ、そんなことを望んだのかしら?」
「……は?」
「わたくしの要望は、この賭博クラブの売上よ」
地下室の空気が、また違う意味で静まり返る。
責任者の男子生徒が、今度こそ本気で意味がわからないという顔をした。
「……売上?」
「そう。売上の三パーセントを納めること。それで手打ちにしてあげましょう」
「上納金……? ま、待て。売上の三パーセント……? 利益ではなく?」
「もちろん売上よ」
ルクレツィアは涼やかに微笑む。
「そしてそのお金は、給付型の奨学金として学園内で運営すること。会計係としてクラリッサを雇うこと。バイト代も払ってね」
クラリッサが呆然とルクレツィアを見た。
責任者の男子生徒はしばらく口を開けたまま固まり、やがてぎこちなく瞬きを繰り返す。
「…………」
ルクレツィアは肘掛けに頬杖をつき、やわらかく笑った。
「何か意見はあるかしら?」
その時だった。
ぱち、ぱち、ぱち、と。
不意に静かな拍手が地下室の奥から響いた。
ざわめきが割れるように人垣が少しずつ開き、その向こうから、一人の男子生徒が姿を現す。
整えられた黒髪。癖のない微笑。無駄のない制服の着こなし。華美ではないのに、そこに立つだけで自然と視線を集める男だった。
そして、その整った顔を見た瞬間。
ルクレツィアの背筋を、鋭い氷のようなものが走った。
(――……うそ)
喉がひどく冷たくなる。
記憶の底、暗く閉ざされた破滅の気配の中で、最後に自分を見下ろしていた影。
まさか、そんなはずはないと思っていた相手。
けれど間違いない。
――あの男だ。
曖昧になっていた未来の記憶が、一気に鮮やかによみがえる。
――これは、死の記憶の中で、ルクレツィアを誘拐し、殺した相手。
若いとは思っていたけれど、まさか同じ学園の生徒だったなんて。
男はそんなルクレツィアの内心など何も知らない顔で、拍手を止めて微笑んだ。
「見事だ。いや、本当に」
その声までもが、ぞっとするほど穏やかだった。
責任者の男子生徒が椅子を蹴るようにして立ち上がる。
「副会長……!」
「様子を見に来たんだ。少し騒がしいと思ってね」
副会長と呼ばれた男――ジュリアーノは、盤面とルクレツィアを交互に見たあと、満足そうに目を細めた。
「生徒会副会長、ジュリアーノ・ベルナルディだ。賭博クラブの様子は以前から把握していたが……いまの提案は興味深い」
彼はまっすぐにルクレツィアを見た。
「ルクレツィア嬢の案を受け入れるなら、生徒会としてこの賭博場の運営を認めよう」
地下室にざわめきが広がる。
「ふ、副会長、本気ですか?」
「本気だとも。学園内で閉じた資金循環ができる。奨学金制度までつくるとなれば、単なる遊戯では終わらない。むしろ管理下に置いた方が健全だ」
健全、という言葉に何人かが微妙な顔をしたが、ジュリアーノは意に介さない。
ルクレツィアはその場で笑みを崩さなかった。
けれど心臓だけが、嫌になるほど速く打っている。
ヴァレリオは壁際から一歩だけ前に出ていた。
黒手袋のまま組んでいた腕が解かれ、灰色の目が、静かにジュリアーノを見据えている。
そのわずかな変化を感じながら、ルクレツィアはゆっくりと立ち上がった。
「まあ。副会長殿下自らお墨付きをくださるなんて、光栄ですわ」
声は揺れなかった。
揺らさなかった。
「では、契約成立ということでよろしいのかしら?」
「ああ」
ジュリアーノは微笑んだ。
その笑みが、ルクレツィアにはひどく苦しかった。
――ジュリアーノ・ベルナルディ。
その姿は記憶の彼よりずいぶん穏やかだが。
目の奥の光は、そう変わりはしなかった。




