20 地下賭博場
文学部の部室を出たあと、ルクレツィアはクラリッサを伴い、ヴァレリオを従えて学園の北棟へ向かった。
「そもそもどうして賭博場なんかに行って、借金なんて作ってしまったの?」
「……生活費のためなの。学費は奨学金が出るけれど、生活費や雑費はそうもいかなくて」
「……なるほど」
ルクレツィアは貴族だから、生活費の心配をしたことはない。
だが、金銭が人を動かすことは知っている。明日のパンのために人を殺すような孤児がいることも。
「アルバイトとかはしていないの?」
「学生のできるバイトって、あまり稼げないんだよね。大きく稼げるか、学園内でできるバイトがあればいいんだけど。色々楽だし」
「……なるほど」
北棟のさらに奥、普段はほとんど使われていない古い倉庫の裏手に、地下へ続く細い階段がある。昼間でも薄暗いそこは、学園の中だというのに妙に空気が冷たく、石壁には湿り気があった。
クラリッサは途中からすっかり青ざめてしまい、両手で鞄を抱え込むようにして歩いていた。
「ほ、本当に行くの……?」
「行くわよ。あなたの借金を取り返さなくちゃ」
きっぱり言い切ると、クラリッサはますます小さくなった。
その後ろで、ヴァレリオは無言のままついてくる。石段を下る足音だけが、規則正しく、変に落ち着いて響いていた。
やがて階段の先に、ぼんやりと橙色の灯りが見えた。
地下の扉を押し開けると、そこには思っていた以上に賭博場らしい光景が広がっていた。
地下室を無理やり改装したらしい広い空間。ランプと卓上灯の明かりが低く揺れ、丸机の上にはカードやチップや帳簿が散らばっている。壁際には酒瓶まで置かれていて、換気の悪い空気の中に紙と蝋と熱気が混ざっていた。
年若い生徒たちが、ひそひそと囁き合いながら勝負に興じている。制服姿のままの者もいれば、上着を脱いで腕まくりをしている者もいる。学園の地下とは思えない。むしろどこかの裏通りの隠れ家に紛れ込んだような気分になった。
「まあ……」
ルクレツィアは感心したように目を細めた。
「ずいぶんと本格的なのね」
その声で、周囲のざわめきが一瞬だけ止まる。
何人かが椅子を引く音を立て、誰かが小さく舌打ちした。
ルクレツィアはそんな空気にも臆さず、室内をゆっくり見回した。
「責任者は誰? わたくしと勝負してくださらない?」
にっこりと微笑み、続ける。
「負けたほうは、勝ったほうの言うことを何でも聞くの」
数秒の沈黙のあと、奥の卓にいた男子生徒が立ち上がった。上質な制服を少し着崩し、指先でチップを弄んでいたその男は、いかにもこの場を仕切っているらしい余裕を顔に浮かべている。
「……面白いことを言うな、お嬢様」
その声に周囲が少しざわついた。
だが次の瞬間、そのざわめきは別の方向へ変わる。
「やばい、あいつ新しく来た教官見習いだぞ……!」
「おい、なんでいるんだよ」
「終わっただろ、これ……」
視線が一斉にヴァレリオへ向いた。
ヴァレリオはそんな視線の集中を気にした様子もなく、片手で眼鏡の位置をくいと直した。
「定時を過ぎているから問題ない」
「……は?」
場の誰かが間抜けな声を漏らす。
「私は業務時間外に校内の間取りを確認しているだけだ。いないものとして扱うように」
それだけ言うと、ヴァレリオは本当にルクレツィアの後ろへ下がり、壁際に立って腕を組んだ。干渉しないと言わんばかりの態度である。
その堂々たる屁理屈に、地下室の空気が一瞬だけ宙吊り状態になる。
「……何なんだあいつ」
「知らねえよ……」
責任者らしい男子生徒が、引きつった口元を立て直すように鼻で笑った。
「まあいい。で、勝負だと? ……勝負の形式は何を望む? チェスか、カードか?」
ルクレツィアは顎に指先を添え、少し考えるそぶりを見せた。
「そうね。――『マフィア将棋』といきましょうか」
「……なんだそれ?!」
今度は責任者本人が声を上げた。
ルクレツィアは涼しい顔で答える。
「カッシニア島の『アルディーニ家式非公開戦略遊戯』よ。別名、『頭脳決闘』」
「いまつけた名前じゃないのか?」
「失礼ね。由緒正しき遊戯よ」
たぶん聞いたことのない全員が、ものすごく疑わしそうな顔をした。
だがルクレツィアはもう止まらない。
「初めてでしょうから、簡単なルールで行ってあげる。使うのはチェスの駒。ただ一つ違うのは、取った駒を再利用できるのよ」
「待て」
「置き場所はどこでもオーケー。キングの横でも、どこでも。置いてすぐは動かせないけれど」
「待てって言ってるだろ! そんなの、チェスの概念が崩れる!」
「崩れるから面白いのよ」
ルクレツィアは優雅に微笑んだ。
「裏切り、寝返り、買収、鞍替え。人の心が絡む勝負なら、そのくらい当然でしょう?」
責任者の男子生徒が数秒黙り込む。その隙に、彼は背後の手下へ低く命じた。
「――おい、用心棒を呼んでおけ」
ルクレツィアはぱちりと瞬いた。
「用心棒? まあ、随分と本格的なクラブなのね」
しかも、どこか嬉しそうである。
「負けた時、暴れるやつがいるからな」
責任者は平然と答えたが、その声を遮るように別の生徒が駆け込んできた。
「部長! まずいです!」
「何だ」
「既に逃亡してます」
「なんだと?!」
地下室にどよめきが走る。
「外部から雇ったプロだぞ?!」
「なんでも『赤い手』とは関わりたくないと言って……」
その瞬間、視線がまた一斉にヴァレリオへ集まった。
壁際に立つ当人は、何も聞こえていないかのように静かだった。本棚の影にでもなったつもりなのか、表情ひとつ変えない。
けれど、その静けさが余計に怪談じみて見えるのだろう。
誰かが低い声で囁いた。
「知ってるか? 一度『赤い手』に狙われたら、もう終わりだって――」
「国外逃亡しても無駄。国境を越えても、海を渡っても、気づけば背後にいる」
「手袋をしているのかと思えば、処刑相手の血で染まった手だった――それが、ラ・マーノ・ロッサの由来」
「一晩で二つ、三日で四つのファミリアを潰した。方法は不明。現場には何も残らなかった」
囁きは囁きを呼び、地下室の空気をじわじわ冷やしていく。
ルクレツィアはその怪談めいた言葉を聞きながら、ふと小さく笑った。
「あら。なんだか数え歌みたいね」
すると別の生徒が青い顔で付け足した。
「あの黒手袋の下はきっと、染みついて落ちない血のせいで真っ赤なんだ……」
その声に、ルクレツィアは小さく首を傾げた。
(黒手袋の下?)
そういえば、ヴァレリオは自分の前ではいつも黒手袋をしている。さすがに寝るときまでではないだろうけれど、日中の彼から手袋が外れているところを、あまり見たことがない。
だとしても、血で染まって真っ赤というのは非科学的だ。
そんなもの、そう簡単に皮膚へ定着するはずがない。
だが当のヴァレリオは、やはり何も言わず壁と一体化していた。荒事が起きない限り、自分から前に出るつもりはないらしい。
責任者の男子生徒は、そんな怪談の当事者を背後に感じながらも、やがて口元を歪めた。
「くっ……くくく……駒を再利用、だと?」
指先でチェスのナイトをつまみ上げる。
「上等じゃないか。裏切り、寝返り、買収……マフィアお得意の手ってことだろ?」
「理解が早くて助かるわ」
ルクレツィアは満足そうに頷いた。
「では、まずは一度練習してみましょうか」




