19 仮入部期間
文学部に仮入部してからというもの、授業が終わればそのまま部室へ向かうのが、ほとんど日課になったのだ。
そしてヴァレリオも、いつの間にか文学部の副顧問のような顔をしていた。
もちろん、正式な役職ではない。
だが、気づけば彼は毎日のように部室の壁際か窓際に立ち、本を読むでもなく、口を挟むでもなく、ただ静かにそこにいた。
最初の頃こそ部員たちは緊張していたが、人というのは慣れる生き物である。
部長が原稿用紙を取り落とした時には、ヴァレリオが無言で拾って渡し、窓の建て付けが悪くて閉まらない時には、やはり無言で直した。
高い棚の上の本が欲しいと言われれば、淡々と取ってやることもある。そういうことを何度か繰り返すうちに、彼は文学部の中で「怖いけれど、とりあえずそこにいる大きな人」へと変わっていった。
ある日など、新入生が恐る恐るクラリッサに尋ねていた。
「ええと……あの方、ほんとうに教官見習いなの?」
「う、うん……そう、だと思う」
「副顧問じゃなくて?」
「違う、はず……」
その会話を聞いたルクレツィアは吹き出しそうになったが、向こうで本棚の影に立っているヴァレリオがあまりにも真顔だったので、ぎりぎりで堪えた。
本当に、よくわからない男だ。
護衛騎士であり、教官見習いであり、そしていまや文学部の空気の一部でもある。
とはいえ、ルクレツィアにとって文学部の一番の楽しみは、やはりクラリッサとの語らいだった。
その日もいつもの窓際の席に座り、クラリッサと向かい合う。
机の上には読みかけの恋愛小説が二冊。片方は悲恋もので、もう片方は山ほど障害を越えてようやく結ばれる王道の長編だった。
「やっぱり、情熱的な告白の場面って素敵だわ」
ルクレツィアが本を胸に抱くようにして言うと、クラリッサも頬を染めながら頷いた。
「わ、わかる……! 一気に言葉があふれるみたいな告白、憧れるよね」
「そうでしょう? それまでずっと抑えていた気持ちが、とうとう溢れてしまう感じがいいのよ」
ルクレツィアは身を乗り出す。
「しかも、その前にちゃんと試練があるべきだわ。すれ違いとか、誤解とか、身分差とか、どうしても越えないといけない大きな障害があって、それを全部越えたうえでようやく『好きだ』と言うの。そうしてこそ、最後の一言が生きるのよ」
「うん……! その方が、最後の一言の重みが増すっていうか」
気づけば二人は、他の部員たちが少し引くくらいの熱量で語り合っていた。
「わたくし、安易に両想いになる話は少し物足りないの」
「だよね……! 一度くらい、もう駄目かもしれないって思いたい!」
「そうなのよ! あと、好きだと気づくまでが長いのもいいわね。お互いにわかっていないのに、読んでいるこっちだけは『それはもう恋でしょう』ってなる感じ」
「それも好き……!」
文学部の奥の机で本を読んでいた部員が、ちらりとこちらを見てから、小さく肩をすくめた。
おそらくまた始まったと思っているのだろう。
壁際に立つヴァレリオは、今日も相変わらず無表情だった。
腕を組み、本棚の影のようにそこにいる。だがこちらの話が聞こえていないはずはない。
――こういう時間が続けばいい、とルクレツィアは思った。
本を読んで、恋の話をして。
こういう穏やかな放課後こそ、自分が本当に欲しかった学園生活なのかもしれない。
◆◆◆
その穏やかさに最初に翳りが差したのは、それから数日後だった。
その日もルクレツィアは文学部の部室へ顔を出し、クラリッサと本の話をしていた。
だが何かがおかしい。
クラリッサは笑っている。返事もしている。けれど、その視線が落ち着かない。頁をめくる指先はぎこちなく、ハンカチの端ばかりを弄っている。楽しそうなふりをしているだけで、心がここにないのが見て取れた。
「クラリッサさん?」
ルクレツィアがそっと呼ぶと、クラリッサはびくりと肩を揺らした。
「えっ、あ……ご、ごめんなさい」
「何かあったの?」
問いかけると、クラリッサは露骨に目を逸らした。
その瞬間、何かがあるのは確定したようなものだった。
「もし困りごとなら、話してほしいわ。お友達でしょう?」
まだそこまで長い付き合いではない。
けれど見て見ぬふりをする気にはなれなかった。文学部での時間が好きだからこそ、そこにいるクラリッサの不安も放っておけない。
クラリッサはしばらく迷っていたが、やがて観念したように小さく息を吐いた。
「……笑わないで聞いてくれる?」
クラリッサはますます小さくなり、声を潜める。
「その……借金が……」
「借金?」
予想外の単語に、ルクレツィアは瞬いた。
「ええ……少し、だけ……」
「少しって、どれくらい?」
「わたしにとっては、かなり……」
そこでクラリッサはついに俯き、絞り出すように言った。
「賭け事で、負けてしまって……」
ルクレツィアはしばし沈黙した。
賭け事。
その言葉だけなら社交の場でも耳にする。カード遊びや、ちょっとした勝負事くらいなら珍しくもない。だが、クラリッサのこの顔は、軽い遊びの範囲をとうに越えていそうだった。
「どうしてそんなことを?」
「最初は、本当にほんの出来心だったんです。友だちに誘われて……大丈夫、大丈夫って言われて……」
大丈夫という言葉ほど、大丈夫でない時に出てくるものはない。
「お金に困っていたの?」
「いえ、そういうわけでは……ただ、負けた分を取り返せるかもって思ってしまって」
ルクレツィアは目を閉じた。
なんというありがちな罠。
しかもこういう真面目そうな子ほど、一度踏み外すと変な義務感でずるずる沈みやすい。
「どこで?」
「え?」
「どこでそんなものに手を出したのか聞いているの」
クラリッサはさらに声を潜めた。
「……学園の地下、です」
ルクレツィアはゆっくりと目を開いた。
「……いま、なんて?」
「だ、だから……学園の地下に、その……そういう場所が……」
数秒、完全な沈黙が落ちた。
そして次の瞬間。
「学園内に賭博場があるの?!」
ルクレツィアの声が、思ったより大きく響いた。
近くの机にいた数人が振り返る。クラリッサは肩をすくめてさらに小さくなった。
「ど、どうなってるの、ここの秩序!」
「る、ルクレツィアさん、声が……」
「だっておかしいでしょう? 学園でしょう? 生徒が通う場所でしょう? 恋や友情や教養を育むべき聖域に、どうして地下賭博場なんてものがあるのよ!」
憤然としているルクレツィアの背後で、静かな声が落ちた。
「学園黙認の非公式クラブ活動だ」
振り向くと、そこにヴァレリオが立っていた。
いつからいたのか。
教官見習いの格好のまま、いつものように隙なく、まるで最初からこの会話の結末を知っていたかのような顔をしている。
ルクレツィアは目を見開いた。
「……知っていたの?」
「存在はな」
「どうして教えてくれなかったのよ!」
「知らない方が、余計な場所へ首を突っ込まずに済むと思っていた」
たいへんもっともらしい理由である。
そしてそれが、余計に腹立たしい。
「いままさに知ってしまったわ」
「そうだな」
ヴァレリオはクラリッサに一瞬だけ視線を向け、それから再びルクレツィアを見た。
「どうする」
「決まっているでしょう」
ルクレツィアはきっぱりと言った。
目の前で困っている友人を放ってはおけない。
それに、学園黙認の非公式クラブ活動などという怪しい響きが、好奇心をこれ以上なく刺激していた。
「その賭博場、見に行くわ」
ヴァレリオがごくわずかに溜息をつく。その溜息は、止めても無駄だと知っている男のものだった。




