16 ヴァレリオの恋人疑惑
帰りの馬車の中は、行きよりも少しだけ暗かった。
夕方の光が窓から差し込み、向かいに座るヴァレリオの横顔を柔らかく照らしている。眼鏡のレンズが一瞬だけ光を反射し、すぐにまた灰色の目が静かな影に沈んだ。
馬車が石畳を刻むたび、微かな揺れが座席に伝わる。
ルクレツィアは窓の外を見ているふりをして、何度か口を開きかけては閉じた。
聞く必要はない。
別に気にすることでもない。
なのに、気になる。
何度目かの逡巡のあと、ついに耐えきれず、ルクレツィアはぽつりと言った。
「あなたって、モテるのね」
ヴァレリオの眉が、ほんのわずかに動く。
「……新しく覚えた言葉を使ってみたくなったのか?」
「違うわよ」
即座に言い返したものの、少しだけ悔しい。
自分でも、いまの切り出し方があまり洗練されていないことはわかっている。
「あなた今日、女の子に囲まれていたじゃない?」
ヴァレリオは一瞬だけ考えるように視線をずらし、それから淡々と答えた。
「……質問に答えていただけだ。新任の教官見習いは興味を引くらしい」
「どんなことを聞かれたの?」
「名前に年齢、どこの出身か、恋人はいるか――」
その最後の言葉に、ルクレツィアはぴたりと口を閉じた。
「…………」
馬車の中に、車輪の音だけが響く。
ヴァレリオがこちらを見る。
「……どうした?」
「別に」
少しだけ早口になってしまった。
別に、ではない。だが別にとしか言えない。
ルクレツィアは膝の上で指先を組み、それから何でもないふうを装いながら、できるだけ平坦な声で尋ねた。
「――いるの?」
「何がだ」
その返しがあまりにも自然で、少しだけ腹が立つ。
「……だから、恋人」
言ってから、自分の声が思ったより低かったことに気づく。
問い詰めるような響きになっていないといいのだけれど、と一瞬だけ不安になった。
「…………」
ヴァレリオはすぐには答えなかった。
たかが数秒のはずなのに、その沈黙が妙に長く感じられて、ルクレツィアは自分でもわからないまま息を止める。
何を考えているのだろう。
まさか、本当にいるのだろうか。
それとも、誰か心当たりがあるのだろうか。
胸の奥が落ち着かず、心臓が勝手に速くなる。
やがてヴァレリオは、いつもの調子で言った。
「――黙秘する」
一拍遅れて、その意味がじわりと染みてきた。
「……は?」
思わず、そう聞き返してしまう。
「質問への回答は差し控える」
「それ、答えたくないという意味でしょう?」
「そうだ」
「どうして?」
「答える必要がないからだ」
あまりにもそっけない。
そして静かなまま頑として譲らないところが、いかにもヴァレリオである。
ルクレツィアは頬をふくらませ、そっぽを向く。
窓の外には、夕暮れに染まる王都の街並みが流れていく。なのにその景色は少しも目に入らない。
(黙秘する、って何よ)
いないならいないと言えばいいし、いるならいると言えばいいだけの話だ。
わざわざ黙秘なんて言い方をするから、余計に気になる。
もしかして、本当にいるのだろうか。
いや、でも、いたらいたで、あのヴァレリオが誰かとどうやって恋人になるのか想像がつかない。
そもそも相手はどんな人だろう。年上だろうか、年下だろうか。優しい人か、しっかり者か。まさか学園のあの子たちの中に既に候補がいたりするのだろうか。
考えれば考えるほど、胸の奥がもやもやした。
「……そんなに知りたいのか」
不意に落ちてきた低い声に、ルクレツィアははっと顔を上げる。
ヴァレリオは相変わらず無表情だった。
だが、眼鏡の奥の灰色の目だけが、少しだけこちらを見ている。
「べ、別に……ただ、あなたが変な人に引っかかったら困ると思っただけよ」
「変な人、か」
何故か実感のこもっている声だった。
「そうよ。世の中には色々な人がいるのだから、気をつけなさいという話」
「忠告として受け取っておく」
まるで本気で受け取っているようには見えない。
ルクレツィアはますますむくれたが、その一方で、少しだけ安心している自分にも気づいてしまう。
――何に安心しているのかは、考えないことにした。
馬車は揺れながら、別邸へと向かっていく。
向かいの席ではヴァレリオがまた何事もなかったような顔に戻っていて、ルクレツィアは膨れた頬のまま窓の外を睨んだ。
「……でも、その、あなたの恋を応援したくないわけじゃないのよ」
ルクレツィアがもごもごと言い訳めいた声でそう付け足すと、向かいに座るヴァレリオはわずかに眉を上げた。
「どっちなんだ」
ルクレツィアは言葉に詰まる。
どっち、と問われても困る。本人にだってまだ、きちんとはわかっていないのだ。
「……だから、応援はしたいのよ。したいのだけれど……その人が、わたくしより先にあなたを連れていってしまうみたいで、少しだけ嫌なの」
――沈黙が、続く。
「……君は」
先に口を開いたのはヴァレリオだった。
「時々、ひどく残酷なことを無自覚に言う」
「えっ」
「応援する、と言った直後に、連れていかれるのは嫌だと言う。どちらも本音なのだろうが、言われた側は判断に困る」
ルクレツィアは目を丸くしてから、ぷくっと頬を膨らませた。
「だって本当だもの。仕方がないでしょう」
「開き直るな」
「開き直っていないわ。誠実なだけよ」
「それを世間では開き直りと言うことがある」
呆れ気味の声。
しかもごくわずかだが、笑っている気配が混じっている。
――それは、とてもめずらしいことだった。
「少なくともいまのところ、君が気にするようなことにはなっていない」
ルクレツィアはぱちりと瞬く。
「……それは、恋人はいないという意味?」
「質問が細かいな」
「大事なところでしょう?」
食い下がると、ヴァレリオは一瞬だけ視線を逸らし、そして観念したように息をついた。
「いない」
短い返答だった。
それだけなのに、胸の奥のもやもやがふっと軽くなる。
その軽さが、また少しだけ恥ずかしい。
「そう」
「そうだ」
「……そうなのね」
「何度確認しても、返事は変わらない」
ルクレツィアは咳払いをして、すました顔を作った。
「なら、いいわ」




