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15 新任教官見習い




 自習時間の教室は、妙に静かで落ち着かなかった。


 紙をめくる音、ペン先が走る音、ひそひそと交わされる小声。

 皆がそれぞれ課題や予習に向かっている中、ルクレツィアも机に向かってはいたが、どうにも気持ちがそわそわして集中できない。


 少しだけ息抜きをしたくなって、ルクレツィアはそっと席を立った。


 廊下に出る。

 教室の中より少しひんやりした空気に触れて、ルクレツィアは小さく息を吐いた。


 そのまま廊下を歩いていた時、隣の教室から男子生徒たちのざわめきが聞こえてくる。

 何気なく通り過ぎようとして――ふと、聞き覚えのある低い声に足が止まった。


(……ヴァレリオ?)


 そっと教室の中を覗き込むと、そこには男子生徒ばかりの教室と、その教壇に立つ長身の男の姿があった。


 黒板の前に立っていたのは、まぎれもなくヴァレリオだった。


 黒板の前に立つ姿はいつもより少しだけよそゆきで、眼鏡の奥の灰色の瞳は教室全体を静かに見渡している。背筋は真っ直ぐで、肩の力は抜けているのに隙がない。

 護衛騎士として傍らにいる時とは違う、けれどやはりどこか同じ空気をまとっていた。


 男子生徒の一人が、椅子に浅く腰掛けたまま皮肉っぽく言う。


「武術なんて何のために学ぶんですか? どれだけ鍛えたって、銃の一発で死ぬのに」


 教室のあちこちで、くすりと笑う気配が広がった。

 いかにも思春期の少年らしい、虚勢と退屈が混ざった声だった。


 ヴァレリオは少しも気分を害した様子を見せず、ただ静かに生徒たちを見回す。

 灰色の目は揺るがない。


「生き延びるためだ」


 短い一言だった。


 だがその声が落ちた瞬間、教室の空気がわずかに変わる。

 小さなどよめきが広がり、先ほど笑っていた生徒たちも自然と口を閉ざした。


 ヴァレリオは黒板の端に指先を置いたまま、淡々と続ける。


「銃があろうと、当たらなければ意味がない。弾が切れた時、相手がまだ立っていたらどうする? その時、お前はどうやって自分の身を守る?」


 誰も答えない。

 答えられないというより、彼の言葉があまりにも当然の現実として落ちてくるので、軽口を挟む隙がないのだ。


「銃は道具の一つに過ぎない。使えない時もある。ならば、己の身で戦うしかない」


 抑揚も感情も薄い声だった。

 だが、言葉に嘘がないのは、廊下から見ているルクレツィアにすらわかった。


 ヴァレリオは本当にそういう場所を知っている。

 銃があっても足りない時を、弾が切れた後の地獄を、きっと何度も見てきたのだろう。


「それとも――ただ黙って殺されるつもりか?」


 静かな一言が、教室の空気を凍らせた。


 誰も動かない。

 机を指先で叩いていた生徒も、椅子を傾けていた生徒も、ぴたりと止まっている。


「そんな気持ちなら、何丁銃を持っていようと、最初に死ぬのはお前だ」


 しんと静まり返った教室を見て、ルクレツィアは心の底から感心した。


(――す、すごい……ちゃんと教官をしているわ……!)


 いや、ちゃんと教官見習いなので当たり前といえば当たり前なのだけれど。

 それでも、いつものヴァレリオが本当に学園の中で授業をしているのを見ると、なんだか妙に新鮮で、少し誇らしい気持ちになる。


 ヴァレリオは何事もなかったように黒板へ向き直り、板書を始めた。

 チョークが乾いた音を立てる。彼の字は整っていて無駄がなく、やけに読みやすい。


 その時だった。


 教室の後方から、白い消しゴムがひとつ、勢いよく飛んできた。


 投げた生徒は面白半分だったのだろう。

 だが次の瞬間、教室の空気は別の意味で止まった。


 ヴァレリオは振り返らなかった。


 ただ背後に気配を感じたその瞬間、左手を後ろへすっと伸ばし――飛んできた消しゴムを空中でぴたりと掴んだ。


 あまりにも自然な動きで、まるで最初からそこに消しゴムが収まることを知っていたかのようだった。


 教室が静まり返る。


 さっきまでのざわめきは一瞬で蒸発し、今は誰かが喉を鳴らす音すら響きそうなほど静かだ。


 ヴァレリオはチョークを置き、ゆっくりと生徒たちを振り返った。

 眼鏡の奥の灰色の瞳は、少しも怒っていない。

 だからこそ、なおさら怖い。


「授業中の私物の投擲は禁止だ。次は没収する」


 無表情のままそう告げると、彼は掴んだ消しゴムをひょいと軽く投げた。


 放物線を描いたそれは、きっかりと持ち主の机の上に落ちる。


 一瞬、教室にざわめきが戻る。

 けれどそのざわめきもすぐに引いて、生徒たちは今度こそきちんと前を向いた。


 ルクレツィアは廊下の壁際に立ったまま、小さく瞬いた。


(……やっぱり、教官のお仕事向いてる?)


 護衛騎士カヴァリエーレとしてのヴァレリオは、頼もしくて、過保護で、少し物騒だ。

 けれど教壇に立つヴァレリオは、また別の意味でよく似合っていた。


 厳しい。

 静か。

 そして、誰よりも説得力がある。


 なんだか少しだけ不思議な気持ちになりながら、教室に戻る。


 この人は自分の知らない場所でもちゃんと立っていられるのだと、いまさらみたいに気づかされた。



◆◆◆



 休憩時間、ルクレツィアは窓際に立って中庭を眺めていた。


 人の流れの中でも、ヴァレリオの姿はすぐにわかる。

 背が高く、無駄なく立つので、嫌でも目に入るのだ。


 そのヴァレリオが、ちょうど数人の女子生徒に囲まれていた。


 皆、目を輝かせて何かを質問している様子で、笑い声まで聞こえてくる。


(……何か、トラブルかしら?)


 そう思ったのも束の間、ヴァレリオは落ち着き払った表情のまま、生徒たちの会話をさらりと受け流し、最小限の返答だけをして、その場をすっと離れていった。


(……あれは、あしらっていたのね)


「ヴァレリオ先生、モテるよね」


 不意に隣から声がして、ルクレツィアははっと振り向いた。


 そこにいたのは、やわらかい茶色の髪を肩のあたりでまとめた少女だった。派手さはないが、知的でやさしそうな顔立ちをしている。


「モテ……?」


 初めて聞く単語を思わず繰り返す。


「恋人候補として人気があるってこと」


 あまりにもあっさり言われて、ルクレツィアは一瞬言葉に詰まった。


「まあ、あの子たちも本気じゃないだろうけど。ほら、ヴァレリオ先生、いい感じに年上で、美形で、ちょっとミステリアスでしょ? ひそかに人気爆発中なんだよね」


 人気爆発中。

 その言葉の勢いに、ルクレツィアは窓の外のヴァレリオをもう一度見てしまう。


 たしかに顔はいい。

 かなりいい。

 しかも本人に愛想がないぶん、勝手に想像を膨らませたくなる気持ちも、わからないではない。


 けれど、胸の奥に小さく引っかかるものがあった。


「ええと、クラリッサさん、ですよね……?」

「うん。そうだよ、ルクレツィアさん」


 少女――クラリッサは気さくに笑った。


「この学園、いいところの子ばっかりだから、わたしちょっと浮いてるけど……仲良くしてくれると嬉しいな」

「もちろんです!」


 思わず前のめりに言ってしまったが、クラリッサは笑っていた。


「ふふっ、これからよろしくね」

「はい!」


 ルクレツィアはクラリッサと共に教室に戻っていく。


(――また、新しいお友達ができたわ!)


 その嬉しさと同時に、もやもやとした胸騒ぎも沸いていた。


 ――ヴァレリオが恋人候補として人気があるなんて。


 無愛想で、愛嬌もなくて、言葉も足りなくて、やたらと融通が利かない男なのに――いや、顔はいい。かなりいい。そこは認める。ついでに背も高いし、静かに立っているだけで妙に目立つ。しかも新任教官見習いという肩書きまである。


 そういうものが、年頃の少女たちにとって魅力的に映るなんて。


 ルクレツィアの胸の奥が、きゅっと小さく縮こまるような感覚に襲われた。


 ――なんということだろう。


 自分より先に、ヴァレリオの方が『真実の愛』を見つけてしまうかもしれないなんて。


(……いえ、ちょっと待って。わたくし、いまかなり失礼なことを考えていなくて?)


 胸の内で自分に突っ込む。

 まるでヴァレリオに恋愛の機会がなさそうだと思っていたみたいではないか。いや、実際そういう雰囲気は少しあるけれど、それとこれとは別だ。


 ――いや、でも、彼は大人だし。


 ああいう冷たそうで静かな人は、年頃の少女たちにはきっと憧れの対象になる。

 寡黙で、強そうで、少し近寄りがたい。しかも眼鏡までかけている。あれが変装のつもりだというのだから世も末だが、少女たちにとってはむしろ加点材料かもしれない。


 ヴァレリオにとっては、きっといいことだ。

 彼にも恋愛する権利がある。幸せになる権利がある。むしろ、なってもらわないと困る。いつまでも自分のそばでしか生き方を知らないままではいけないのだから。


 だからこれは、いいこと。


 ――いいことの、はずなのに。


 その小さな違和感は、春の風に吹かれても消えなかった。




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