14 帰路
帰りの馬車は、夕暮れの王都を軽やかに進んでいた。
石畳を打つ車輪の音が、規則正しく小さく響く。
窓の外には、赤く染まり始めた屋根の連なりと、細く天を突く尖塔の影。通りを行き交う人々のざわめきも、扉と壁に遮られて、いまは遠い別世界のもののようだった。
揺れに合わせて天井の小さなランプがかすかに震え、金具が微かな音を立てる。
その向かいで、ヴァレリオはいつものように背筋をまっすぐ伸ばして座っていた。
黒手袋を嵌めた両手を膝の上で重ね、無駄な力みひとつない姿勢で、ただ静かにルクレツィアを見ている。教官見習いとして学園に立っているときと同じく隙がなく、それでいてこうして二人きりの馬車の中では、外向きの仮面よりも少しだけ近い空気を纏っている。
ルクレツィアはその顔を見つめ、堪えきれずに口元を緩めた。
「ふふっ、ヴァレリオ。なかなかいい取引だったと思わない?」
白い包帯の巻かれた足を、ほんの少し持ち上げて見せる。
ヴァレリオは表情を変えなかった。
ただ灰色の瞳だけが、ルクレツィアをまっすぐに映している。
「公爵家と王家に恩を売れたのよ?」
ルクレツィアは得意げに指を一本立てた。
「それに、わたくしには『普通のお友達』が増えたんだもの」
二本目の指を立て、少しだけ胸を張る。
普通のお友達。
その言葉を胸の中で転がすと、くすぐったいような、妙に晴れやかな気持ちになる。
もちろん、あの場にいた誰もが素直にそう受け取ったわけではないだろう。コルネリアは涙ぐんでいたし、リカルドは青ざめていたし、教室中の空気はまるで冬の朝みたいに冷えきっていた。
――それでも、友達は友達だ。
それでいい。
あの場で何もかも暴いてしまえば、話はもっと面倒なことになっていた。
学園の中のただの揉め事では済まなくなり、公爵家と侯爵家、あるいはそこに王家まで絡んだ、息苦しい話になっていたかもしれない。
――それが『血のアルディーニ』の未来につながるのは嫌だった。
だから、あれでよかったのだと、ルクレツィアは思う。
コルネリアの怯えきった顔が、脳裏にふと浮かぶ。
少し可哀想でもあったけれども、彼女もまた、自分のしたことがどれほど危ういことだったのか、知るべきだった。
ルクレツィアはにっこりと微笑んだ。
「わたくしが突き落とされたことも、あなたとわたくしが黙っていれば『なかったこと』になるでしょう? 露見しなければいいのよね」
ヴァレリオはすぐには答えなかった。
ただ、じっとルクレツィアを見る。
静かな視線だった。責めてもいないし、呆れてもいない。ただ淡々と、こちらの内側まで見透かしてしまいそうな目で見ている。ルクレツィアはその視線を受けるたび、自分が少しだけ落ち着かなくなるのを感じる。見慣れているはずなのに、慣れきることのできない目だ。
やがて、彼の口元がほんのわずかに緩んだ。
「……君らしい」
あまりにも短い一言だった。
けれど、それだけで十分だった。
ルクレツィアはぱちりと目を瞬かせ、それからくすりと笑う。
「あら。あなたにそう言ってもらえるなんて、嬉しいわね」
返しながら、そっと窓の外へ目を向けた。
夕陽はもうかなり低く、建物の輪郭を金と朱で縁取っている。通りの店先には灯りがともり始め、薄闇の中に小さな光が一つ、また一つと浮かび上がっていた。昼間の王都は華やかで騒がしいのに、夕方の王都はどこか秘密めいている。美しい街だと、素直に思う。
複雑で、油断がならなくて、思っていたよりずっと面倒で。
それでもやっぱり、美しい。
来てからまだ、ほんの数日しか経っていないのに。
クラスメイトには怯えられ、王子様にはがっかりして、公爵令嬢には突き落とされ、それなのに友達ができたと言い張っている自分がいる。こんな学園生活、予想していたものとはだいぶ違う。けれど、悪くもない。
むしろ、少し面白いくらいだった。
窓ガラスに自分の顔がぼんやり映る。赤い髪、少し上がった口元、まだ幼さの残る輪郭。その隣にヴァレリオの姿はうまく映らない。位置のせいか、外の光のせいか、輪郭の端に気配が混じるだけだ。
けれど、その存在は確かにすぐそばにあった。
近くて、遠い。
触れようと思えば届くのに、手を伸ばすべきではない距離にいる。
いつも、いる。
「ねえ、ヴァレリオ」
「なんだ」
短い返事は、いつもと同じ温度で返ってくる。
ルクレツィアはその声音を聞くだけで、なぜだか少し安心する自分に気づいて、ほんのわずかに目を細めた。
「わたくし、王都でもうまくやっていけそうだわ」
ヴァレリオは少しだけ目を細めた。
「君が言うなら、そうなのだろうな」
それは相槌のようでもあったし、確認のようでもあった。あるいは最初からそうなると知っていた者の返答にも聞こえる。
ルクレツィアは満足して、背もたれに身を預けた。
「――ええ、そうよ。あなたがいてくれるから」
馬車は王都の中心街を離れ、ゆるやかに高台へ向かっていく。窓の外の景色は少しずつ静かになり、屋敷町の整った並木と石壁が夕闇の中に浮かび始めた。もう少しで別邸に着く。
学園生活は、まだ始まったばかりだ。




