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10 差出人名のない手紙




 ――翌日の昼休み。


 教室のざわめきが少しだけ薄れた頃、ルクレツィアは自分のロッカーの扉を開けて、小さく首を傾げた。


 教科書の上に、見慣れない封筒が一通、そっと置かれていたのだ。


 白い、上質な紙。香水の匂いはない。封蝋も家紋もなく、ただ静かにそこにある。


「……まあ」


 朝は確かにこんなものなかった。


 周囲を見回してみても、こちらを見ている者はいない。皆それぞれに昼食の支度をしたり、友人と話したり、廊下へ出ていったりしていて、誰がこれを入れたのかはわからなかった。


 とはいえ、同じ学園の人間には違いない。


 ルクレツィアは封を開き、中の便箋を取り出す。

 そこに記されていたのは、短い一文だけだった。


『放課後、祈りの塔にてお待ちしています』


 それだけ。


 差出人の名はない。

 筆跡も整ってはいるが、癖を隠すようにあまりに無難で、男か女かさえ判別しづらい。便箋にも封筒にも、誰かを示す印は何一つなかった。


 差出人不明の手紙。


(まあ、どなたからかしら?)


 ルクレツィアは便箋を胸の前でひらりと揺らし、ほんの少しだけ唇を緩めた。


 この学園に来てまだ二日目だ。

 知り合いと呼べる相手など、数えるほどしかいない。わざわざこんなふうに、呼び出してくる人は思い浮かばない。


 となると。


(もしかして、愛の告白かしら?)


 ルクレツィアは冗談めかしながら心の中で呟く。

 けれど、まったく可能性がないとも言い切れないではないか。


 放課後。

 祈りの塔。

 人目を避けた呼び出し。

 そして差出人不明。


 ひどく、いじらしい。


 ルクレツィアは頬に指先を当て、こっそりと考える。

 もし本当にそうなら、その相手はきっと、ひどく照れ屋で、勇気を振り絞ったのだろう。


 顔を真っ赤にしながら手紙を書いたのかもしれない。

 名前を書けば断られるのではと不安で、最後まで書けなかったのかもしれない。

 あるいは、自分の名を明かす前に、まずはルクレツィアに会ってほしかったのかもしれない。


 そう思うと、なんだか可愛らしく感じられた。


 ――嫌いではない。


 むしろ、少し好きだ。

 そういう不器用さは、どこか守ってあげたくなる。


「ルクレツィアさん、どうかなさいました?」


 近くを通りかかったアンネローゼが、花びらみたいにやわらかな声で尋ねてくる。

 ルクレツィアははっとして、便箋をさっとたたんだ。


「い、いえ、なんでもありませんわ」


 なんでもない、は嘘だけれども。

 いまこの場で「差出人不明のお手紙をいただいたの」と打ち明けるのも、なんだか照れくさい。


 本当に告白とは限らないし、ただの呼び出しかもしれないし、何か相談事かもしれない。


 けれど。


 祈りの塔、という響きがいけない。

 あまりにも、それらしいではないか。


「――アンネローゼさん、『祈りの塔』って知っています?」


 アンネローゼはぱちりと目を瞬かせ、それから、ああ、と小さく笑った。


「ええ、もちろん。北棟の奥にある白い塔ですわよね。もともとは寄宿舎の生徒たちが朝夕に祈りを捧げるために建てられたそうですけれど、いまはほとんど使われておりませんの」

「まあ、そうなの?」

「ですから、試験前に神頼みに行く方とか、一人で静かに考えごとをしたい方とかが、たまに立ち寄るくらいですわ。最上部からの眺めはとても綺麗ですのよ」

「まあ……」


 ――それは、とても。

 愛の告白のために用意されたような舞台だ。


「……素敵ですわね」

「ええ。ですけれど、放課後は少し寂しい場所でもありますわ。人通りも少ないですし、夕方になりますと、塔の中は風の音ばかりで……」


 アンネローゼはそこで、ふと意味ありげに声を潜めた。


「それで、少しだけロマンティックな噂もあるんですの」

「ロマンティックな噂?」


 思わず、ルクレツィアは身を乗り出す。


 アンネローゼはくすりと笑い、指先を唇の前に添えた。


「放課後の祈りの塔で、誰にも知られず二人きりで言葉を交わした男女は、特別な縁で結ばれる……なんて」

「まあ……!」


 あまりにもそれらしくて、ルクレツィアは思わず便箋を握る手に力をこめた。


「もちろん、昔からある学園の作り話でしょうけれど」


 アンネローゼは軽やかに言うが、その目は少しだけ楽しそうだった。


「……もしかして、どなたかに呼び出されましたの?」

「い、いいえっ、そういうわけでは……っ」


 あまりにも慌てて否定してしまい、かえって怪しくなる。

 アンネローゼはまあ、と頬に手を当て、春の花のようにふんわり微笑んだ。


「うふふ。詮索はいたしませんわ。でももし本当にそうでしたら、どうか素敵なお話でありますように」

「す、素敵なお話……」


 その言葉が、胸の奥で甘く響く。


 ルクレツィアは便箋をそっと胸元にしまい込み、誰にも悟られないように、ほんの少しだけ微笑んだ。





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