09 地下射撃場でのため息
アルディーニ家王都別宅の地下には、地上の華やかさとはまるで無縁の空間がある。
白い壁も、金の額縁も、花の香りもない。あるのは冷たいコンクリートと、一定間隔で吊られた照明、そして火薬の残り香だけだ。
乾いた銃声が、無機質な射撃場に鋭く響いた。
ルクレツィアは両手で小ぶりのリボルバーを構えたまま、標的の中央を見つめる。
人型を模した的の中心には、真新しい穴が開いている。
「……ちょっと、がっかりしたわ」
背後には、ヴァレリオが立っている。
「王子様も、割と俗物的なのね。アルディーニの助力が欲しいなんて」
昼間の出来事を思い返しながら、呟く。
王子というものは、もっとこう……高潔で、誇り高く、光に包まれた存在だと思っていたのに。
少なくとも、こちらが手を差し伸べたくなるような人物であってほしかった。助けてほしいなら、助けてもいいと思える人間でいてほしかったのに。
それなのに彼は、自ら手を伸ばしてきた。
家を継ぐわけでもない一人娘に向かって。婚約者もいるというのに、ずいぶんと軽やかに。
「――がっかりだわ」
引き金を引く。
パン、と先ほどより少し強い音が響き、標的の中心がさらに砕けた。
火薬の匂いがかすかに強くなる。
ルクレツィアは銃口を下ろさないまま、少しだけ振り返った。
「ヴァレリオはどう思う?」
「親指がグリップから浮いている」
「……そこ?」
「そこだ」
次の瞬間、ヴァレリオはルクレツィアのすぐ後ろへ歩み寄った。
黒手袋に包まれた手が、そっと手元に添えられる。
「脇を締めて。肩の力は抜く」
低い声が、真後ろから落ちてくる。
ルクレツィアはほんの少しだけ目を瞬かせた。
ヴァレリオが近い。火薬の匂いに混じって、革と石鹸と、彼自身のひどく清潔な気配がした。
――ああ、何故だろう。
どうしていま、胸の鐘がかすかな音を立てたのだろう。
「引き金は焦らず、指の腹で軽く――」
声に導かれ、ルクレツィアは息を整える。
視界の先、標的の中心だけを見つめる。世界から余計なものがすっと削ぎ落ちていく。
パン、と今度は控えめな音が鳴った。
赤く印された中心に、また一つ綺麗な穴が増える。
ルクレツィアは小さく目を見開き、それからふっと笑った。
「さすがね」
「さすがなのは君の腕前だ」
「いいえ、あなたが支えたからよ」
言ってから、ルクレツィアは手の中の愛銃を見下ろした。
白銀のフレームに、真珠母貝のグリップ。射撃場の無骨な灯りの下でも、それだけは妙に愛らしい。まるで宝石箱からそのまま抜き出してきたみたいな、小さく上品なリボルバー。
ルクレツィアはこの相棒を「ドルチェ」と呼んでいる。
甘くて柔らかな名前から撃ち出されるスタン弾は、殺傷力は低いものの、男一人をその場に沈めるには十分な威力を持つ。
もっとも――
「ドルチェは、学園には持っていけないのよね?」
「当然だ。武器の携帯を許せば学園内は瞬く間に誰もいなくなる」
随分物騒な学園である。
「そういえば、ヴァレリオも学園内には武器の持ち込み禁止なの?」
「もちろんだ」
ヴァレリオは一歩下がり、いつもの距離に戻る。
距離が開いたはずなのに、さっきまで背中にあった気配がまだ残っている気がして、ルクレツィアは少しだけ落ち着かない。
「じゃあ、もし戦闘が起こった場合はどうするの?」
そんなこと、誓約法のある学園で本当に起こるとは思っていない。
けれど、アルディーニ家の人間としては、少し気になる。
ヴァレリオは何でもないことのように答えた。
「たいていのことは素手で対処できる。無力化も、武器強奪も、排除も――必要とあらば」
あまりにも当然のように言うので、いっそ清々しい。
その横顔には微塵の不安もなく、誇張も虚勢もない。ただ事実だけを述べている顔だった。
ルクレツィアはくすりと笑う。
「ふふっ、さすがね」
黒手袋に包まれたその手は、アルディーニ家の中でも特別なものだ。
赤い手――ラ・マーノ・ロッサ。
血に濡れてきた二つ名のはずなのに、ルクレツィアにとってその手は、幼いころからずっと一番確かな存在だった。
呼べば来る。守る。転びかけそうなときは支えてくれる。けっして近くから離れない。
兄よりも近く、――けれど、友達にはなってくれない手。
ルクレツィアは銃を下ろし、ヴァレリオを見つめた。
「でも、危ないことはしないでね」
ヴァレリオは答えなかった。否定もしないし、肯定もしない。
その沈黙に、ルクレツィアは小さく肩をすくめる。
「わたくしはここに、『真実の愛』を探しに来たのだから」
王子様には、少しがっかりしたけれども。
だからといって夢を捨てる気はない。
ルクレツィアは、胸の鐘が激しくなるような相手と出会いたい。
陰謀も打算もない、純粋な恋を探したい。何もかも捨てても、命さえ懸けても、悔いのないような恋を。
ヴァレリオはしばらく黙っていたが、やがてごく静かに口を開いた。
「ならば、なおさら怪我は避けるべきだ」
ルクレツィアは少しだけ笑って、手の中のドルチェを見つめた。
「そうね。せっかくの恋が始まる前に、顔に傷でもついたら大変だもの」
「顔だけの問題ではない」
「わかっているわ」
そう返しながらも、ルクレツィアの声音は軽い。
ヴァレリオは小さく息をついた。呆れたのか、諦めたのか、そのどちらともつかない音だった。
ルクレツィアは彼のため息が嫌いではなかった。
ヴァレリオのそれは、冷たいようでいて、どこか安心するのだ。
ルクレツィアは、もう一度だけ標的を見つめてから、そっと銃を下ろした。
「そろそろ戻りましょうか、ヴァレリオ。夕食の時間だわ」
「ああ」
短い返事が返る。
真珠母貝の煌めきを、ケースの中に収める。
火薬の匂いと冷たい空気を背に、ルクレツィアは射撃場をあとにした。




