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11 祈りの塔




 放課後、教室のざわめきがほどけていく頃、ルクレツィアはそっと鞄の中の手紙を確かめた。

 この手紙を受け取ってからずっと、胸の奥が落ち着かない。


 廊下へ出ると、窓際に立っていたヴァレリオがすぐにこちらへ視線を向けた。教官見習いの装いにはすでに板についていて、きっちりと隙がない。


「帰るのか」


 低い声で問われ、ルクレツィアは小さく首を振った。


「いいえ。少し用事があるの」


 ヴァレリオの灰色の目が、わずかに細まる。


「だから、先に馬車を出さないで。少しだけ待っていてちょうだいね」


 ヴァレリオは黙っている。

 その沈黙だけで、いま彼が何を考えているのか、なんとなくわかってしまう。どこへ行くつもりだ、誰に会う、なぜ自分に言わない、ついて行くべきか。きっとそういうことだろう。


 ルクレツィアは先回りするように言い添えた。


「それから、ついてこないでね」

「……理由を聞いても?」

「秘密よ」


 あえて言い切ると、ヴァレリオの眉がほんの少しだけ動く。

 だが、それでもルクレツィアは引かない。


(告白の場に教官同伴なんて、どう考えてもおかしい)


 相手は絶対に委縮する。ロマンティックが始まらない。それは避けたい。


「ほら、学園の中でし誓約法もあるし、大丈夫だわ」


 少しだけ声を落とし、ルクレツィアは目を逸らした。

 ヴァレリオは何も言わなかった。何も言わないまま、ただじっとこちらを見ている。


 その視線に気まずくなって、ルクレツィアは咳払いをひとつした。


「とにかく、しばらく待っていて。いいわね?」

「……承知した」


 ひどく不本意そうな承諾に、ルクレツィアは少しだけ疑わしく思う。


「ほんとうについてこない?」

「君がそう望むなら」

「望むわ」

「……わかった」


 ようやく折れたらしい。

 ルクレツィアはほっと胸を撫で下ろし、それからなるべく平静な顔を作って背を向けた。


 向かう先は、学園の北棟のさらに奥。小さな中庭と回廊を抜けた先にある、細く白い石造りの塔だ。


 ――祈りの塔。


 やや緊張しながら、ルクレツィアは塔へ続く石畳を歩いた。


 呼び出しの場所としては、いかにもそれらしい。

 人目を避けられて、静かで、高いところにあって、少しだけ特別。


 胸が、また小さく跳ねる。


 塔の扉は重かったが、押せばすぐに開いた。中はひんやりとしていて、外の春の空気とは少し違う、石と古い木の匂いがする。壁に沿って細い螺旋階段が上へと続いていた。


 ルクレツィアは手すりに指を添え、一段ずつ上っていく。


 ――いったい、誰が、どんな顔で待っているのだろう。

 自分は、そこで何を言われるのだろう。


 等間隔にある窓は細長く、ところどころしか外の光が入らない。だからこそ、上へ行くにつれて明るさが増していくのが、まるで別世界へ抜けていくようで少し楽しい。


 最後の段を上りきると、視界がひらけた。


 そこは、学園の喧騒から切り離された別世界のようだった。


 高い窓から差し込む西日が、石造りの床に長い帯を落としている。白い壁はやわらかな金色に染まり、どこか祈りそのものが形を持って残っているような、静謐な空気が満ちていた。


 展望の間は丸く開けていて、腰の高さほどの磨かれた手すりと、壁際に小さな祈祷台があるだけだ。飾り気は少ないのに、不思議と寂しくはない。風が高窓の隙間を抜けるたび、かすかに衣の裾を揺らしていく。


 ――そして、最も目立つのは、太陽と聖母の姿が描かれたステンドグラス。


 まさに、静かな祈りの場として相応しい場所だった。


 ルクレツィアはそっと周囲を見回した。


 誰もいない。気配もない。

 だが、いくつも残っている真新しい足跡が、ごく最近使われたことを示している。


「……まだいらしていないのかしら」


 小さく呟いて、胸元から手紙を取り出す。


 少しだけ頬を染めてここまで来た自分が、なんだか可笑しくなってくる。


(本当に愛の告白だったらどうしようかしら……)


 呼び出しの手紙、二人きりの場所。少しロマンティックな空気。

 これで劇的に登場され、熱烈な告白をされたら――胸の鐘が鳴ってしまうかもしれない。


 だが――……


 しばらく待っても、誰も来ない。


 石の階段の方へ耳を澄ませても、聞こえてくるのは風の音ばかりだった。

 足音も、息遣いも、衣擦れもない。


 少しだけ時間が過ぎる。


 それでも、誰も来ない。


(急用が入ったのかしら。それとも、いたずら?)


 ルクレツィアは首を傾げる。


 どちらにせよ、いつまでもここに立っているわけにもいかない。


 自分には帰る家があり、待っている夕食があり、そしてたぶん、待っているよう命じられたくせに、いまごろ塔の周囲をうろついていないか心配になる黒手袋の男もいる。


 その姿を思うと、少しだけ口元が緩んだ。


「……まあ、仕方ないわね」


 呼び出されて、その相手が来ないのは少し拍子抜けだ。

 けれど腹を立てるほどでもない。


 せっかくここまで来たのだから、とルクレツィアはあらためて景色へ目を向けた。


 王都の屋根が夕陽に染まっている。赤茶の瓦も、白い石壁も、遠くの尖塔も、みんな薄い蜜を塗ったように輝いて見えた。庭園の緑は深く、道を行く馬車は小さな玩具のようだ。


 そして、ほんのずっと向こう。


 青く霞んだ地平のあたりに、細くきらめくものが見えた。


「……海」


 思わず、そう呟く。


 ここからでは本当にわずかしか見えない。光を受けた銀の糸みたいに、遠く、かすかに見えるだけだ。


 それでも海だった。


 島で見ていた海とはまるで違う。

 すぐそばで波音を聞かせてくれる海ではなく、手を伸ばしても届かない、遠い海。

 けれど確かに、自分のいた場所とつながっている海。


 ルクレツィアはしばらくその景色を見つめた。


 呼び出した相手は現れなかった。

 けれど、いいものは見られた。


「……まあ、いいわ」


 誰に言うでもなく、満足そうに微笑んで、ルクレツィアは踵を返した。


 祈りの塔の石階段は細く、らせん状に下へ続いている。

 西日の名残が上階から差し込み、段差の輪郭を淡く照らしていた。


 手すりに軽く指を添え、一段、また一段と降りていく。


 塔の中は静かだった。

 高いところにいた風の音も、階段を下りるにつれて遠ざかっていく。

 代わりに、自分の靴音だけが、こつ、こつ、と石壁に反響する。


 終わりが見えてきた、その瞬間だった。


 背後に、気配が走ったのは。


 振り返るより早く、強い力が足を押した。


「――――っ」


 バランスを崩し、視界が、ぐらりと傾いた。


 踏みしめていたはずの石段が足元から消える。

 身体がふわりと浮き、次の瞬間には、奈落のような階段の中心へ向かって投げ出されていた。




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