09.臭っ!
馬小屋のごとき下町の老朽化した建物が、どよめきと共に一瞬ミシリと音を立てた。野次馬たちが部屋の入口で押し合いへし合い、何人分もの体重が開きっぱなしの扉枠にのしかかったのだ。
おいおい壊さないでくれよとニコが声を出す前に、世話役の中年女性が金切り声をあげた。
「んっまああぁーー!! ニコ!! 玉の輿じゃないか!! 大出世だよ!!」
それを皮切りに誰もが、「すごいぞニコ!!」「大金持ちのお坊ちゃんなんだろ?!」「どうやって射止めたんだ?!」「おめでとうニコ!!」と大騒ぎを始めてしまった。うるさ過ぎて途中からあまりよく聞こえないほどに。
はじめはその勢いに面食らっていたディセルだったが、どうやら祝福されているらしいと察したらしい。ヘラヘラとだらしのない顔で後ろ頭を掻いてみたりしている。やめろやめろ。いつものように少し怒っているくらいのほうが凛々しいんだよあなたは。
「待ってください。皆もうるさい! オレ……いえ、私はβですよ。名家のα様と結婚なんてできるわけが無いでしょう」
「んっまああぁーー!! αだってさ皆!! 道理で男前だと思ってたんだよアタシは最初から!!」
ニコはディセルと話そうとしているのだが、女性の反応速度たるや、肝心のディセルが口を挟む隙すら与えない。案の定、あとは祭りのごとき騒乱へと発展してゆく。「やっぱりαは違うよな!!」「ニコ!! 愛は性別を超えるんだぜ!!」「なんてうらやましいニコ!!」「おめでとうニコ!!」……もう、上を下への乱痴気騒ぎだ。
拍手が手拍子に変わり、集落はすっかり過熱してしまっている。勘弁してくれ。
「……ああーーっ!! うるせーいったん黙れおまえら!!」
ニコの剣幕にビクッと怯んだのはディセルだけであった。周りはまったく気にも留めずに、自分たちがこれまでに見かけたαがどうの、βとしての人生がどうの、ニコとの思い出がどうのと、各々が己れの話で勝手に盛り上がってしまっている。下町の人間は声が大きいのだ。ローゼンディアの屋敷では隠していたが、ニコもだ。
「いいから入口を空けやがれ有象無象ども!! ここじゃろくに話もできねえ外行くぞおい!!」
「…………え、……あ、うん」
たじたじと両手を胸の前に力無く重ね合わせ、ディセルは乙女のように従順に頷いた。
◇ ◇ ◇
外にも中にも口を開けた獅子の彫刻が鎮座する馬車の中で、ニコは先ほどの威勢を上手く冷ませぬままに、腕組みをして眉を吊り上げていた。まずい。下町言葉が出まくってしまった。
だがディセルのほうは幸か不幸か、ニコに対する熱視線を止めようとはしない様子だ。
「……ニコ、会いたかったぞ」
似合いもしないしっとりとした台詞で、ニコの肩を抱いて髪に唇を埋める。いつかのように。
だが、ニコはしまったという顔で低く呟いた。
「……あ、ヤベ」
「臭っ!! 汗臭っ!!」
やはりせめて湯浴みだけでもしておくべきだったか。さすがに申し訳なく思い、そしていささか恥ずかしくなり、ニコはディセルの厚い胸板を押して体を離した。
「……すみません。湯浴みできてなくて、ここ数日」
「数日もっ?!」
「下町では珍しくないです」
「そんなに貧しいのか?!」
「貧しさもありますけど、毎日湯浴みする習慣が無いんですよ」
「何だと?!」
信じられないものを見る目つきでわなわなと、ディセルは腰を浮かせて馬を操る馭者へと車内から声をかけた。
「屋敷へ急げ! ニコを風呂に入れる!!」
方向転換する馬車の中で、ニコは慌ててディセルを制した。屋敷になんて行ってしまったら、昼からの仕事に差し支えるではないか。
「待ってください! ローゼンディア家へは参れません!」
だが、1度言い出したら人の話を聞くような人間ではないのだ。相応しい服装ではないことも、もはや契約満了にて退職した立場だということも、そしてこのあとの仕事のことも、ニコは必死に訴えたのだが、ディセルは頑としてすべてを無視してどっしりと座り続けていた。
不可解なのは、「臭っ!」と言いながら、道中何度もニコの髪を嗅いでくることだった。嫌がらせだろうか。それとも普段嗅ぎ慣れないにおいがよほど珍しいのだろうか。だが、真剣にやめて欲しい。
「おやめくださいディセル様」
「臭っ! ……ハハハ!」
「ホントやめてください」
「アハハハハハ!」
「やめろって」
そうだ、ごくたまにこんな風に屈託無く笑うこともある人だった。笑顔がいい。だが怒り顔もいい。「男前だ」と集落では散々持て囃されていたな。確かにそうだ。
αは、なんてズルい。
◇ ◇ ◇
「ぶぉうえーーーい……」
1ヶ月半ぶりにニコは、ローゼンディア家の広く清潔で華美な浴室の、池のように巨大な浴槽に身を揺蕩わせて、深く低い魂からの吐息を漏らしていた。オッサンのように。
気持ちがいい。風呂は良い。下町での、湯を節約しながら汚れを落とすのみを目的とした湯浴みとは訳が違う。ニコは取り立ててキレイ好きでもないが、取り立てて不潔を良しとしているわけでも無い。何度も言うが、下町とは違う。従者たちによって整えられたこんな環境があるのであれば、誰だって毎日喜んで身を清めることであろう。
湯の中でぼんやりと天井を見上げる。天井にまで描かれた美しい絵画は、本当に必要な装飾なのだろうか。
結婚……、だとか言っていたな。
忘れていたわけでも当然無いが、わざとらしく思い出したような体を取って、ニコは頭の中を必死に整理しようとしていた。
以前「好きなんだ」と言われたことはある。東方での旅の最中だ。それだって忘れられるはずも無い。だがディセルには、これ以上無いほどの美しい完璧な『運命のΩ』を引き合わせてやったではないか。
シュネーはどうしたのだろう。てっきり日々子作りにでも励んでいるものだと思っていたのだが。
「……おまえと結婚、「することにした」って何だそれ……。ホンット自己中……」
先ほどのディセルの台詞を反芻して若干イラッとしながら、頭のにおいと顔の熱を流し去るべくニコは、湯の中にブクブクと髪の毛の先まで全身をすべて沈めてしまった。そして肺の中の空気を残らず吐き出して、グニャリと歪んだ天井画を眺めた。
用意されていた、ほんの少しだけ腹周りがキツく感じるジャケットに袖を通し、ニコはフリルたっぷりのふわふわブラウスのリボンタイの結び目にブローチをつけた。本来こうして使われるべきものだ。やはり収まりが良い。それにしてもダイエットはしたほうがいいかもしれない。栄養について今一度考え直さなければ。
「ディセル様」
通い慣れた重厚な扉を3度ノックすると、待ちかねたようにディセルが飛び出してきた。そしてすかさずニコの頭に顔を擦りつける。
「フフフフ、臭くない!」
さもおかしそうに、腹を押さえて笑うディセル。そりゃそうだろう。高価な植物油の石鹸で髪も体も何度も洗ったし、湯上がりには香油もたっぷり振っている。服だって洗濯係の手により丁寧に洗われ保管されていた高級品だ。
そう言えばニコが下町から着て来た穴の空いたボロ着はどうなったのだろう。浴室から出ると見当たらなくなってしまっていたのだが、よもや捨てられてはいまいな? ああ見えて一張羅なんだが。
うっかり思考を他へやっていたニコに、ディセルはこれ見よがしに整った顔面でおもむろに微笑んだ。
「おかえり、ニコ」
そして当たり前の顔をして、両手を広げてニコの小さな体を包み込もうとした。αのいい香りをふわりとくゆらせて。
「…………いひゃい」
ディセルのキレイな顔は、次の瞬間ニコの手のひらにより無惨に潰されていた。他人には聞かせられない情けない声が漏れる。「痛い」、だろうか?
いや、しかし不意に抱きつかれそうになったら誰だって抵抗するだろう? ニコは斜め下から力一杯ディセルを拒んで腕を突っ張っていた。
「ただいまなんて言いませんよ。私はすぐに下町へ帰ります。そもそも『運命のΩ』様はどうなさったのですか」
「う……、うう……」
後ろめたそうに視線を逸らし、ディセルは呻いた。
◇ ◇ ◇




