08.何か用ですか
ローゼンディア家での生活は、思えば夢か幻のようであった。上等な生地が幾重にも織り込まれた柔らかいブラウス、窮屈ながらも形の整った丁寧な縫製のジャケットや靴。ニコはそれらをとても嫌いだったはずなのだが、それでも毎日湯浴みが叶い、主の好みの香油を振り、髪も肌も艶やかさを保っていられた2年強。
だが今はと言えば、乾燥した髪を毛羽立たせ、薄汚れた粗い布を張り合わせただけの上着で、ニコはすっかり下町に馴染みきっていた。ただし1つだけ、場違いなほどに輝くブローチが胸元を飾っているのがおかしかったけれど。
重くもなかったはずのブローチは、心許ない安い生地に大きな穴を開けては重力により下を向いてしまう。それを2本の指でクイッと上向かせる仕草は、いつしかニコの手癖のようになっていた。
仕事は順調であった。ローゼンディア家より支給された金はまだまだ潤沢であったが、ニコは殊更に新たな人探しの依頼を受けまくっていた。こちとら国内全域を、あの東方エリアに至るまで探し尽くしたという実績があるのだ。下町での人探しは、大抵の場合は下町内で完結する。平民が広い世界を知る機会はそうは無い。となるともう笑えるほど簡単に、ニコは数々の任務をこなせるようになっていた。
「ありがとう……! 君のおかげで息子にまた会えたよ……!」
今日もまた、生き別れて10年だという親子の再会に貢献して、ニコは報酬を得ていた。よくもまあこの狭い下町で10年も顔を合わせずに暮らせていたものだと、逆に笑いそうになってしまう。……いかん、感動の親子の対面だ。得意の業務的笑顔でニコは、「良かった」とだけ呟いた。
しかし会いたい人に会えるのは何よりも良いことだと思う。そのために、自分は働くのだ。
そうしてニコは今日もまた、胸元のブローチを指でつまみ、それを上向けては赤い2つの石を目に映すのだった。
◇ ◇ ◇
ともすればずっと下町にしかいなかったような感覚が戻りつつあったニコだったが、その周辺がにわかに騒がしくなったのは、あれから1ヶ月半ほど経った秋の風が冷たくなる頃であった。
「ニコ! ニコ、アンタ大変だよ!!」
ニコに両親は既にいない。集落一帯の世話役のようになっている1人の中年女性が、ニコの暮らす小さな部屋に無遠慮に飛び込んできた。昨日は夜中まで仕事をしていたのでまだ眠いのだが、彼女の揺れる腹の肉を目にするに、どうやら緊急事態のようだ。
「…………何」
目頭の目ヤニを短い指の爪で掻き落とし、ニコは薄っぺらに萎んだ固く平たい布団を脇へ寄せた。
「見たことも無いものすごい立派な馬車がそこに来てるんだ!! 車箱にねえ、獅子の彫刻があるんだよ! 車輪すら上等な木組み細工の芸術品さ!」
女性は臆面も無く興奮を押し出して喚いていた。確かにそんな悪趣味な馬車など、一生に1度も目にすることは無いのがこの町の普通であろう。
だが、ニコには覚えがある。獅子の彫刻、それはある御人の大好きなモチーフである。大仰に口をかっ開き、鋭い牙を剥き出して、たてがみが立派に棚引く雄獅子なんじゃないか?
「……どうして……」
独りごちてニコが呆然としている僅かな時間に、ニコの部屋には無礼千万、不躾で非礼で侮蔑に満ちた嫌味な罵声が響き渡った。
「何だここは!! 馬小屋よりも汚いぞ!!」
その不遜極まる声の主は、太陽の光の角度によって浮かび上がる見事な織模様のコートの袖口で、自身の鼻と口を覆いながら顔をしかめていた。
「なんか臭い!! うわっ、綿埃が溜まっている!!」
彼は部屋の隅を指差した。うるさいなあ。今の仕事が落ち着いたら掃除をするつもりだったんだ。大体綿埃程度で死ぬわけでも無し、こちとらその埃をつまんで食べて生きていたような生い立ちなんだぞ。
においに関しても、ここは長屋のように幾つもの部屋が連なり貧しい者たちがひしめいて暮らす界隈だ。花や紅茶の香りなどが漂っていようはずも無い。
……とは言え、この数日ちょっと湯浴みをサボっていた自覚はある。そこは申し訳ない。ニコはボリボリと頭頂部に指を分け入らせて動かし、恨みがましく入口に向かって口もとをヘの字に歪めた。
そこには、今や幸せな新婚生活を送っているはずの元雇い主、ディセルが心底軽蔑したような顔をして立っていた。
断っておくが、ニコの今の生活がこの下町において特別に怠惰なわけではない。そりゃもう少しこまめに湯浴みはするべきであったし、忙しくてもほんの数分の掃除もできなかったのかと問われると言い訳に困ってしまう。が、大勢の従者たちの働きによって毎分毎秒キレイでいられる豪族とは生活事情が違うのだ。
「……何か用ですか」
寝起きの気だるさを全開にして、ニコは大口を開け欠伸をしながら右腕を伸ばした。そして反対側の目ヤニもおざなりに指で確認する。
「……ニコ……おまえ、屋敷を出て何だかやつれたな……。やはり、精神的なショックで……」
ディセルはまだ入口付近に突っ立ったまま、憐れなものを見るかのような目を向け口もとを押さえた。
「は? 元気一杯ですが? むしろ少し太りましたが?」
不規則な生活と偏った食事のせいで実際、少々無駄な贅肉がついてしまった。昨夜遅かったためまだ眠いだけだと補足して、ニコは窓の下に置かれた古ぼけた抽斗から上着を取り出した。
「ぎゃっ!! ニ、ニコ何をしている!!」
「何って、着替えですよ。寝間着のままだと失礼かと思いまして」
「とっ、突然裸になるほうがどうかしているだろう!! 女性もいるし馭者たちもいるんだぞ!!」
「そうですか?」
慌てて目を覆い何故か赤くなっているディセルの背後では、先ほどの中年女性を先頭に、集落の者たちが何事かと集まりつつあった。その横にはディセル付きの従者が2人、姿勢良く随行している。見知った顔だ。ペコリと首だけでニコがそちらへ会釈をすると、ディセルはさらにあたふたと両手をバタつかせて叫んだ。
「挨拶なんかいいからさっさと服を着ろ!! おまえたちは後ろを向け!! 全員だ!!」
馭者たちが秩序正しく1歩右足を大きく後ろへ引き、そのままクルリと向きを変えたのを見て、野次馬たちもよく分からない顔をしつつバラバラとそれに倣い反転した。裸なんて別にこの辺りでは珍しくもないのだけれど。真夏であれば往来には半裸のようなむさ苦しい格好の男たちが溢れていると知れば、さぞかし彼は絶句することだろう。
まあいい。腰布とブローチをつけ直し、ニコはあらためてディセルの前に立った。
「お待たせしました」
「……寝間着とたいして変わらんじゃないか。本当におまえはいつでもみすぼらしいな」
「すみませんね」
しかし胸元のブローチに目を留め、ディセルは少し口の端を緩めた。ニコは慣れた手つきでそれを上向け、思い出したように言いそびれていたお礼を述べる。
「ああこれ、ありがとうございました」
「……フン、まあまあだな。いつも身につけているのか?」
「ハイ、肌身離さず」
「そ、そうか!」
「貴重品は常に身につけておかなければ。部屋には置いておけないんですよ、施錠できませんので」
「何っ?!」
右手でブローチを、左手で腰布を触って見せるニコ。有り金はすべてここに包んで入れ、寝ているときにまで体に巻きつけているのだ。部屋に鍵が無いことに驚き、入口扉をまじまじと眺めていたディセルだったが、どうにか気を取り直すべく咳払いをした。
「……コホン。で、気に入って、は、いるのか?」
「え?」
「ブローチだ!」
「ええ、まあ」
「そうかそうか!」
「いざというときには高く売れそうですし」
「売るなーーーっ!!!」
相変わらずの怒鳴り声がやかましい。屋敷でもこうやってしょっちゅう誰彼構わず怒声を浴びせていたものだ。ほんの数十日前のことなのに、もう懐かしいような気さえする。
集落の者たちは皆、ディセルにやや怯えているようであった。後ろを向き続けている馭者たちと違って、彼らは興味を押さえられずまたいつの間にか部屋の中へ視線を戻している。
「……で? 何か用ですか?」
ニコは再度同じ質問を投げた。今日は昼から仕事がある。あまり面倒なことは言い出さないでもらえると助かるのだが。
「……ニコ!」
「ハイ?」
「やはりオレはおまえと結婚することにしたぞニコ!!」
「ハイ?」
◇ ◇ ◇




