07.真に受けなくて良かった
気まずくぎこちなく、それでいてどこかふわふわと生温い空気を漂わせて、2人はしばし黙って歩を進めた。
ディセルが納得していない様子は見て取れる。そしてニコは自分自身もまた、説明のつきづらい謎の思念に支配されそうになっていた。
ディセルの言う「好き」は、おそらく便利で都合が良く、たまたまそこにいたというだけの存在に向けられたものだと、さすがに身の程は分かっている。それでも幾人もの秀麗なΩと比較したうえでの発言だということを反芻するにつれ、じわじわと心に汗が浮き出してきてしまう。
「…………ニコ」
「少し暑いですねディセル様」
「そうか?」
「暑いですよ」
まるで愛おしいものを見るかのようにこちらへ顔を向けるディセルに対し、額にも若干の汗を滲ませるニコ。
ディセルが嫌いなわけではない。散々振り回され困らされ面倒ばかりかけられているものの、一切の情が湧かないほどニコは冷徹な人間でもない。やさしいところも、案外真面目に仕事をしているところも知っている。不器用ながら本人なりに努力してきている姿も。
だが、『運命のΩ』を見つけること、そうすればまた元通りの暮らしに戻れること、それらを指標としてこの2年行動していたニコにとっては、突然その根幹を揺るがすようなことを言われても、頭がついて行かないのだ。
けれどもディセルの宣言通り、またしても次のΩも気に入らなければ?
どんなΩよりも、隣で短い歩幅で伴歩するこのちんちくりんβを、まだ「好き」だと言い張られてしまったら?
どうしよう。なんて暑い日なんだろう今日は。ニコはジャケットの袖で額を拭った。
◇ ◇ ◇
しかしながら、道中のそんな熱っぽいニコの憂慮は、馬鹿馬鹿しいほどの杞憂に終わった。
東方エリアの中でもかなりの郊外までやってきたニコとディセルは、1人のΩの前で、息をすることも忘れてただ佇んでしまうこととなる。
特にディセルだ。目を見開き瞬きの瞬間すら惜しみ、眼前の男に吸い寄せられるように1歩、覚束ない足取りで近づくだけで精一杯。ニコでなくとも、ゴトリと動いた心の音がハッキリと聞こえるほどであった。
それほどに、信じられないほどに、このΩは美しかった。そして何もかも見透かしたような独特の空気を漂わせていた。こんな人間がこの田舎に、いやこの世界に、果たして存在していたのかと呆気にとられてしまう。
「あ……あの、幼少期に、東方を出てローゼンディア領を訪れたことは……」
しどろもどろにニコが尋ねるや否や、彼はニッコリと月明かりのような神秘的な微笑みを湛えた。どんな宝石よりも彼の目の光は深く、どんな花よりも彼の表情は嫋やかであった。
「ええ、行きました。まだ子供でしたが。確かそのとき、お屋敷に住んでおられるという貴きご身分の御方にお会いしました」
そうして彼はコロコロと鈴が鳴るように笑った。エリアの外から豪族がΩを探しに来ているという噂は、この数日で東方中に広まっていたらしい。
「お待ちしておりました。あなたがお探しのΩは、僕でしょう?」
自信に満ち、こちらを挑発するように、彼は妖艶なほどの余裕であっという間にこの場を掌握してしまった。ニコもディセルも彼の凄みに完全に飲まれて固まっている。
「…………ニ、ニコ……っ」
かろうじてか細い声でディセルが、助けを求めるかのようにニコを呼んだ。ハッとして我に返りニコは顔を上げる。しかし声を発した本人は未だ目の前のΩから目を離せず、こちらを振り返ることも無く震えている。
αとΩの因縁を見せつけられたようだった。
ディセルの本能が、αとしての雄性が、どうしようも無く彼を求めているのだと分かった。『運命のΩ』なんて、と内心鼻で笑っていたニコだったが、今目の前で繰り広げられている光景が仮に運命でなかったとしたら、他に一体何と表現すべきなのだろう。
おめでとうございます、という言葉をニコは喉の出口付近で詰まらせた。大願成就、ディセルの長年の想いは今、結実したというのに。
ニコは再び自身の足先を見つめた。傍目にはただ頭を下げる謙虚な従者に見えているだろう。
違う。2人を目の中に映していたくなかっただけだ。
ほら、真に受けなくて良かっただろう?
αがβを「好き」だなんて、この世にあるはずが無いのだから。
幼い頃から、手に入らないもののほうが多かった。貧しい生まれ、平凡な容姿。多少物覚えが良かろうが、αまたはΩに仕えるだけの人生だ。
いやそれでも、悪くないことだって幾つもあったのかもしれない。特にこの数日は、身分を忘れてついうっかり大笑いなんてしてしまうほど、主との町歩きは存外楽しかった。
良い、思い出だ。
ニコはでき得る限りの空気を吸い込み、肺を大きく膨らませたあと、ゆっくりと吐き出しながら微笑んだ。
「ディセル様、私の任務は完了いたしました」
◇ ◇ ◇
その後のことは正直、今となっては記憶が曖昧である。第3夫人の許しを得て、ディセルは『運命のΩ』を帯同させて早々にローゼンディア領へと引き上げた。それはΩ自身の望んだことでもあった。
もっと準備やら手続きやら、さらには両家における挨拶やら段取りやら、少なくともそれなりの時間をかけたほうが良いのではないかとニコは至極まっとうな意見を述べたつもりだったのだが、Ω曰くには、すぐにでも嫁ぎ先へ馴染みたかったのだそうだ。目が眩むほどの笑顔でそんなことを言われてしまったら、逆らえるはずも無い。
彼の名はシュネーといった。年はディセルよりも1つ下。幼少期、家族旅行中にローゼンディア領を訪れて以降は、蝶よ花よと大切に箱入りで育てられてきたらしい。少し世間知らずなところもまた、彼の魅力をさらに増してしまうのだからもう誰にも抗えない。
「またお会いしたいと、僕もずっと思い続けていたのです」
「そ……、そうか……。へ、へへ」
シュネーの殺し文句とでも言うべき台詞に赤くなったディセルは、いよいよ無様なほど頬の筋肉を緩ませていた。もう少しキリッとしていてもらえないものだろうか、元は整っているのだから。だが、そんな個人的な思い入れなど口に出すべきことでもない。ニコはあの日以来、俯きがちに過ごしていた。
屋敷を去る準備を手早く済ませ、父や兄たちにシュネーをお披露目してはヘラヘラするディセルを、ニコは冷めた目で時折確認するのみであった。
それでも、ローゼンディア家出入りの宝石商から声をかけられたときには驚いた。
「ニコさんにお渡ししておくようにと、先日ディセル様よりご指示がございましたので」
それは例の赤い石が2つあしらわれた、ブローチであった。ピアスやネックレスではなく、次は肌に触れないように作り直させるというようなことをディセルが言っていたのは覚えている。宝石商からは胸元のリボンタイの上につけるようにと助言されたのだが、馬鹿だなあ。この屋敷を出れば、タイなど普段ニコの身分で身につけるはずも無いではないか。
そもそも、何故赤い石なのかもよく分からない。赤は、体が小さく地味で華やかさの欠片も無いニコにはおおよそ似合わない色だ。むしろディセルにこそ合うと思うのだけれど。
「…………ま、退職金代わりだな」
ニコは小さく呟いて、ひとまずリボンタイの真ん中にそれを装着した。重くはない。肌にも触れない。以前のように直接手渡してもらえたならば感想の1つも伝えられたかもしれないが、ディセルはまるで操られでもしているかのようにシュネーの側を離れようとしないのだから、ニコはもう苦笑いするしか無かった。
ねえ、α様。
あなたの軽口のせいで、あなたがたαとΩの戯れのせいで、善良なβがどれだけ迷惑すると思っているのですか。
誰も見ていない中で、ニコは2年と少しを暮らしたローゼンディアの屋敷へ深くお辞儀を捧げ、赤い石と共にそれに背を向けて決別の前進を開始した。
◇ ◇ ◇




