10.フェロモンとは
ディセルの目は気の毒なほどに泳いでいた。だがこれは当然の質問だろう。
「シュネー様はどちらです? 正式にご結婚なさったお噂はまだ聞こえてきておりませんが、もう子作りくらいは済ませておられるのでしょう?」
「なっ……!!」
するとディセルの頬は一気に赤く染まり、彼は大きく両腕両足を動かしながらその場で藻掻き始めてしまった。
「げ、下品なことを言うな!! 結婚もしないのにそんなことをするはずが無いだろう!!」
おや、なんとおぼこい。まるで生娘だ。
不器用なダンスのように床を蹴り空を殴り激昂して荒ぶる様子をひとしきり愉快に眺めて、ニコは「どうどう」とディセルの腕を撫でてやった。黙って立っていれば兄ハインツにも決して劣らぬほどの容姿を持ちながら、どうしてこうも中身は面白いのだろうか。
「失礼しました。ですがご婚約くらいは……」
「していない!!」
「まだ? ディセル様、あなた意外と意気地が……」
「そうじゃない!!」
言いかけるニコの言葉を次々と遮って、ディセルは上からニコの両肩に手を置いた。顔を近づけ、眉をしかめ、苦々しく鼻の頭に皺を寄せながら。
「……自信が、無いんだ」
「えっ? セックスですか?」
赤みの引きかけていたディセルの顔が、再び鬼灯の如く真っ赤に色づいて弾け飛ぶように火を噴いた。
「ちっ……ちちち、違あーーう!! どうしておまえはそう即物的なんだ!! 下町に戻って慎みを忘れたのか!!」
「違うんですか? 男としてお相手を満足させる自信が無いのかと」
「そ、そうじゃない!! シュネーが本当にオレの『運命のΩ』なのか自信が無いという話だ!!」
「ああ」
ディセルとは対照的に顔色1つ変えずにニコは、いつものように口に手をやり斜め右上を見上げて思案を始めた。
αとΩの言う『運命の番』というものを、βが本当の意味で理解することはできない。本能で引き合うと言われても、そんな経験は無いし本能よりも理性が前に出てしまうのがβの性だ。
だが、シュネーと初めて会ったあのとき、ディセルの本能は明らかに反応しているように見えた。そしてシュネーは幼い頃、ローゼンディア領で屋敷の者と顔を合わせたことまで記憶していたのだ。間違えようが無いではないか。
「運命だと思いますよ。運命運命」
「軽い! どうでも良さそうに言うな!」
実際どうでも良いんですよ。……とまでは口に出さないが。
だってあなたはこちらを振り返りもせず、彼だけをただ見つめ続けていたじゃないですか。
……なんてことは、もっと言えない。
ディセルがしっかりとニコと目を合わせたのは、実はあの日以来今日が初めてだ。どうせ覚えてやしないだろうが。ニコは俯いて大きく長く深呼吸をした。
ディセルの話を要約すると、つまりこうだ。
シュネーのΩのフェロモンは、想像を絶するものであったそうだ。あんな凄まじい香りに抗えるαがこの世にいようはずも無い、とディセルは何度も繰り返した。強い酒に酔わされ前後不覚になったところへ思い切り頭を殴られたような、それほどに平静を保っていられなくなるのだと。なんとなくいいにおいがするなあ程度にはニコも感じていたが、フェロモンとはそこまでのものなのか。
「ですが、要はそれが『運命』ってことじゃないんですか?」
「違う!! シュネーのフェロモンはほとんどのαに効くんだ、オレだけじゃなく!!」
「はあ」
ローゼンディア家には、ディセルやハインツ以外にも何人ものαがいる。弟妹たちや現当主の父親もそうだ。そのすべてのαが、シュネーに対して瞬時に骨抜きになってしまったというのだから恐ろしい話だ。魔性過ぎる。
「……オレは……、フェロモンだけに振り回されたくない。オレ自身の意思で、オレの本当の気持ちで結婚を決めたい。そう思うと……、無性にニコに会いたくなった」
ディセルはいつぞやと同じ熱い目をニコへ向け、まるで詩でも詠むかのように甘く告げた。真っ直ぐな鼻筋もたっぷりと重い睫毛も、さらに心地よく耳をくすぐるその声も、うっかり気を抜いていると惚れ惚れしてしまいそうになる。
だが、ニコの心には晩秋の冷たい風が吹き抜けていた。畏れ多い、とほんの短い謙遜を返すつもりが、止めど無く溢れ滑舌良く饒舌にそして延々と、息継ぎを入れることも無く口を稼働しまくってしまったのだ。
「いや運命イコールフェロモンでしょうがそれを私は2年も探し続けさせられていたんでしょうがそもそもあれから1ヶ月半も経っているんですよその間Ωのフェロモンに夢中になってヘラヘラ尻尾を振りまくっていたくせに今さら聞こえの良い言葉で誤魔化せると思わないでくださいふざけんなよ?」
……長過ぎた。そして最後、余計な悪言も出てしまった。
案の定ディセルは涙目になり、ブルブルと拳を震わせて立ち尽くしていた。
◇ ◇ ◇
例の獅子の飾りのついたソファに両足を立てて座り、膝の間に顔を埋めてディセルはすっかり機嫌を損ねて膨れていた。完全に駄々っ子だ。放っておいて帰ろうと思う気持ちが半分、笑いを堪えながらもう少し観察していたい気持ちが半分。だが結局ニコは、ディセルを宥めるために床に膝をついた。
「えーと、すみません。……言い過ぎましたか?」
「言い過ぎのうえに口が悪過ぎる!! 無礼が過ぎるぞおまえ!!」
「しかしもうディセル様の言うことを聞く義理も無いですし」
「えっ?!」
「とっくにさようならしましたよね」
「えっ!!」
考えてみれば今は無給なのだ。おまけにもう昼からの仕事には間に合いそうにない。あとで今日の客に違約金を支払わなければならないことに加え、信用商売でやってきたこれまでを考えると非常に気が滅入ってしまう。近い将来ブローチを売るしか無くなるかもしれない。貧乏を憂うニコに、ディセルは青ざめた顔で訴えた。
「ど……、どこにも行くなニコ!! オレの側を離れるな! おまえがいないとオレは……!」
「ぐっ」
ジャケット越しにニコの腕を掴み、捨て犬のような目でこちらを見つめてくるディセル。犬好きの心中をギュンと鷲掴みにされたような息苦しさがつい込み上げてしまう。
横暴で横柄で短気で浅はかで、だけど顔だけは良いα。声も良かったか。しかし元雇い主だから、というだけの理由では片付けられない感情が芽生え始めてきている自分に、ニコは懸命に首を振った。
「どうか『運命のΩ』様とご結婚なさいませディセル様。私の2年超にも及ぶ任務を無駄にしないでください。あなたがお好きなのは、砂糖漬けの花びらのごとく香しいΩ。私はみすぼらしく汗臭い平民β」
「だがそれでもオレは、ニコが好きだと伝えたはずだ!!」
「だがそれでも私は、あなたがシュネー様にのぼせあがって股間を押さえている姿を見てんですよ」
「やややめろそういう話はっ……!! だから! それは! あの殺人級のフェロモンのせいで!」
赤面して慌てるディセルがおかしくて、ついわざと下ネタを挟んでしまうニコ。反省する気は無い。だって無給どころか現在通算で赤字なのだから。
けれどもそんな飄々とするニコに痺れを切らしたのか、ディセルは足を下ろし姿勢を正し前のめりに、ニコの手を自身の長い両手の指で包み込んだ。指先のほのかな熱だけでこちらの体温まで上昇してしまいそうになる。
「オレはおまえが好きだ、ニコ。何度でも言うぞ。オレと結婚しろ」
赤みがかって艶めく髪が一筋、さらりとディセルの額に零れた。深い瞳の色の奥に、つまらない平凡なありふれたβの自分が反射して映っている。
ご覧ください、なんてあなたに似合わない男なんでしょう。
こちとらフェロモンどころか汗と皮脂のにおいしか放てません。
口も悪いし慎みも無い、下品な生まれです。
そして男βには、あなたの子供は産めないんですよ。
ニコはたくさんの断りを頭に浮かべては目を伏せた。「玉の輿だ」「性別は関係無い」なんて下町の連中は浮かれていたけれど、当のディセルが何年もずっと誰よりも性別に囚われて、いかにΩを求め続けてきたかをニコはよく知っている。
「……ディセル様」
やはり自分はここをもう1度去るべきだ。どんなに風呂が快適だろうと、下町の自由さには代えられない。
何と言葉で説けば良いのか、ニコが呼吸を置いていたときだ。ディセルの部屋の扉が、小さなノック音を響かせた。その途端、ディセルは己れの顔面へ平手を打つほどに勢い良く鼻と口を押さえた。
「シュネーだ!!」
◇ ◇ ◇




