11.お返しいただきます
中腰のまま立ち上がり、ディセルは顔を手のひらで隠したまま気の毒なほど狼狽していた。ソファの後ろへ隠れようとしたりニコを盾にしようとしたり。αのイメージが損なわれるにも程がある。仕方ないので、ニコが扉を開けて訪問者を迎え入れた。深く頭を下げ左胸を押さえて敬礼しながら。
「お久しぶりですね、ニコ」
野を飛び回る小鳥のさえずりに似た、シュネーの澄んだ声が聞こえた。顔を上げると間近には、美の化身のような目も眩むほどの微笑みがある。浴室の天井画の女神よりも女神らしい。そしてなるほど、意識して鼻から空気を吸い込むと、えもいわれぬ香りに脳がくすぐられるのがβのニコにも分かった。ローゼンディア家御用達の香油よりも甘やかな、これが天然のフェロモンか。
結局ディセルはソファの獅子の影に半身を隠し、いや、大きな図体は少しも隠れてはいなかったけれど、なるべく息をしないようにハフハフと鼻が詰まったような声で牽制の声をあげた。
「ふぇ……部屋には来ぅなと言ったらろ!」
「ぐっ」
舌足らずなディセルの声に思わずまた胸がギュンと鳴ってしまい、敬礼の仕草のままニコは心臓に爪を立てた。何だろう、堂々とαらしくしていて欲しいという思いとは裏腹に、不格好なディセルの姿が時折妙に胸を刺してくる。
「僕はニコに会いに来たんです。来訪中と耳にしましたので」
笑顔でニコのほうを見たままシュネーは答えた。ディセルの無様な姿には目もくれず。
ムッとしてニコは、シュネーを無意識に睨みつけてしまった。仮にもあなたの夫となるαでしょう、失敬ではないですか、と言いたい本音を唇を噛むことで辛うじて耐える。
だがシュネーはさらに目を細め口角を上げ、さも面白そうにニコの両頬に手を添えた。
「フフ、本当だ。カワイイですねニコ。ディセル様のおっしゃっていた通りだ」
「ギャアアアーーーーッ!!!」
開ききった瞳孔でとてつもない悲鳴をあげたのは、ニコではない。ディセルだ。
躓きつつ床に手をつきもつれる足でニコに駆け寄りながら、ディセルは死に物狂いの形相でニコの貧相な体を、樽でも担ぎ上げるかのように素早くシュネーから遠ざけた。そして涙目でこちらに剣幕を向ける。
「照れてるんじゃないニコ!! 赤くなるな!! 惚れるな気を確かに持て!!」
言われて初めて頬が熱くなっていたことに気づくニコ。これが魔性のΩの力か、これが本能か。勿論惚れたりするわけは無く何の気も無いはずのβですら、思わず持って行かれそうになってしまった、分別だか魂だか何かを。
「怖っ……」
呟くニコに、ディセルは「だから言ったじゃないか!!」と喚き散らした。その様子を、見せ物でも楽しんでいるかのようにご機嫌に眺めているシュネー。
「シュ、シュネー様、ご機嫌麗しゅう……」
「ウフフ」
ディセルの両手によって斜めに抱え上げられているニコは、そのままの姿勢で何とか目線だけを上へ向けて、型通りの挨拶を今頃になって済ませた。シュネーはまだ笑い続けている。
しかし鼻口から手を離してしまったことにハッとしてディセルは、再度慌てて己れの顔を押さえ直した。必然的にニコは床へドスンと落ちる。
「ギャッ」
「うわああすまんニコ!!」
「アーッハハハハ!!」
至宝級の美形が大口を開けて大笑いする様もまた、圧巻であった。頭から落ちたニコの額を力の限り撫でつけようとするディセルの手を払いのけながら、ニコはグッと腹の底に力を込めた。そうしなければ美の圧に太刀打ちできそうになかったからだ。
「……シュネー様、私に何か御用でしたか?」
無駄に色香を振り撒いて、シュネーはティーテーブルを挟んだ向かいのソファを指差した。
「座っても?」
「駄目だ!!」
「どうぞ」
ディセルの拒否は軽く無視して、ニコは対の獅子の装飾の施されたソファに手を向けて頭を下げた。
「ニコぉ!!」
下がりきった眉で抗議するディセルにも、同じようにソファに腰をかけるよう促す。渋々ディセルは、手で鼻を押さえつつ定位置に着席した。シュネーのほうを見ようともせず、わざとらしく首を直角に横へ曲げている。
この1ヶ月半に、2人の間に一体何があったのだろう。子作り、いや婚約にこぎつけるどころか、ディセルのほうはすっかり険悪な態度にすら思えるのだが。
「ニコ、君には謝らなければなりません」
「え?」
シュネーはしおらしく首を傾け、ほうっと切なげに吐息を漏らして柔らかそうな唇に指を置いた。いちいちなまめかしいのが非常にやりづらい。ディセルに至ってはもはや、そんな彼に惑わされまいと目を閉じてしまっている。
「ディセル様の結婚相手としてこの屋敷へ連れて来てもらったというのに、どうやら僕はディセル様に嫌われてしまったみたいで……」
「嫌ってなどいませんよ」
「嫌っているわけではない……って勝手に先に答えるなニコ!」
目を閉じたままディセルは、ニコの立っているであろう方向に見当をつけて腕をブンブンと振っているが、少し向きがズレている。何だかポンコツさに磨きがかかってやしないか? 笑ってしまいそうになるので勘弁して欲しい。
そんな婚約者(仮)は軽く受け流し、シュネーはおもむろにニコへ膝を向けて座り直した。
獲物を矢で射殺すような眼光で、それでいて野生動物側の無邪気な殺意の両面を具備したようなゾッとする表情で見つめられ、ニコはその場に縫い止められてしまった。
「ですがお礼も言わなければなりません」
「……え」
「ありがとうニコ。僕はあのカビ臭い東方の家から抜け出せるなら、理由なんて何でも良かった」
何だこれは。ニコは身震いをした。
女神にさえ見えていた目の前のこの男は、ひょっとして悪魔だったのだろうか? どちらにせよ絶世の美しさに変わりは無いのだから、その判別はβには荷が重い。
間抜けなのは、戦慄するニコのすぐ隣でディセルがまだ、事態を少しも把握できずに目を閉じたまま腕をパタパタと上下させていることだった。ほぼ生まれたての赤ん坊の動きじゃないかこんなもん。鼻で息をすまいと口をぽっかり開けているところも実に馬鹿馬鹿しい。
「……えーと、シュネー様。詳細をお願いいたします」
◇ ◇ ◇
「エッへへへへ」
とぼけて茶化すような笑い声までバリエーションに含まれていたのかと、ニコは逆に嘆息してしまった。ふざけてチラリと覗かせた真っ赤な舌がまた淫靡だ。
シュネーは悪魔さながらの告解を今、ニコに対して詳らかにした。どちらかと言うと小悪魔だろうか。悪びれもせず悪戯のバレた子供のように。
20数年前、ディセルが出会ったのはシュネーではなかった。
それはおそらく共にローゼンディア領を訪れていた姉であったのだろうと、シュネーは白々しく首を傾けた。姉から聞いたことのあるその思い出話を、シュネーはさも自身の経験のように告げてあの日、ディセルの手を取ったのだそうだ。
それもこれも、東方というド田舎から脱出したかったというだけの理由で。
「あ、ちなみに姉は物心ついたときから思い合っていた幼馴染みのαとずいぶん前に結婚しています。子も現在4人おります」
「…………」
言葉も無く呆然としているのは、隣で聞いていたディセルだ。鼻を押さえることも目を閉じることも忘れて、ただポカンとソファに沈んでしまっている。無理も無い。長年の思い人が既に4人の子持ちであることがこのたび判明したのだ。そんなディセルにはお構い無しで、シュネーはさらに続けた。
「都会の有力豪族様との結婚だなんて、僕にとっては願っても無いことでした。ですが肝心のディセル様は僕のフェロモンに必死に抗って手を出してくださらないし、聞けば実は好きな相手がいるなんておっしゃるし」
ぷう、と頬を膨らませてシュネーはニコをジロリと睨んだ。なんたるキュート、小悪魔極まる。
コホンと咳払いをしつつ煩悩を払ってニコは、腰を90度に深く深く折り畳んだ。
「それでもシュネー様、あなたがディセル様を愛してくださるなら、私はお2人のご結婚のために尽くしたいと存じます」
「……ニッ、ニコ!!」
到底納得できないディセルは激しく取り乱していたが、とうに退職した身でこちらは「尽くす」とまで言及したのだ。
これは覚悟であり、最後の賭けだ。
すると真意を汲んだシュネーが、背筋を戻したニコへ向け挑発的に口もとを引き上げた。負けるもんか。こちとらフェロモンの効かないβだぞ。
「特に愛してない、……と言ったら?」
「お返しいただきます」
◇ ◇ ◇




