12.ファーストキス
分の悪い睨み合いが数秒、部屋の空気を重く張り詰めさせた。ニコにしてみれば、そろそろ日が落ちる頃かと思うほどに長かったのだけれど。
だがシュネーはフッと緊張感を解いて吹き出した。
「アハハハハニコ! カワイイだけではなく、なんて勇ましい! ディセル様は、本当に良い相手に巡り会えましたね」
ふと以前、ハインツの第3夫人ファルファラに、「ディセル様は、なんと優秀な従者を得られましたことでしょう」と称されたことを思い出した。ニコへの査定がそのままディセルへの評価へスライドするのはどうも気に食わないと、当時実は腹の内で不満に思っていた。
しかし今、少しだけうれしく感じてしまっているのが我ながら解せない。
「……うらやましいな」
シュネーはほんの数ミリ眉尻を下げ、片目だけを眇めて自嘲気味に笑った。
ハッとしてニコは息を呑む。
ほとんど馴染みの無い土地へ突如単身で渡り、女神とて、悪魔とて、本当は不安だったのではないだろうか。本心では、ディセルだけが頼りだったのではないだろうか。
だがシュネーは、ニコにそれ以上何かを悟らせる猶予を与えようとはしなかった。ましてや同情されるなんてまっぴらだとでも言うように、再び目に野生を宿らせる。
「まあでもディセル様ってご次男ですし。どうせなら僕、家の実権を握れる立場が欲しいんですよね」
それは無垢な野心であった。しかし不思議と不快でも無く憎む気にもなれないのだから、本当にこのΩは魔性だ。
このあと、次期当主ハインツのもとへでも出向くつもりなのだろうか。ディセルの話では、シュネーのフェロモンは屋敷内のほぼすべてのαを魅了済みらしいから、次こそは案外容易く第4夫人の座を射止めることができるのかもしれない。
◇ ◇ ◇
「…………ニコ」
シュネーが立ち去ったあとのシンとした室内で、ニコはディセルの穏やかな声に名を呼ばれた。今さらながら、おかしなことを口走ってしまったような気がする。おおよそ不相応で不敬な、こっ恥ずかしい台詞を。
「……あーあーディセル様、『運命のΩ』様に捨てられたという噂がたちまち世間に広がってしまうのではないですか? 知りませんよ?」
わざと軽口を叩いてニコはやれやれと肩を竦めて見せた。東方にまで出向いてようやく連れ帰ったΩと結局結婚しませんでした、だなんて不名誉なこと、ローゼンディア家の面目にも関わる。まあ現実には『運命のΩ』では無かったわけだが。
けれどもこの結果をもたらしたのは、紛れも無くニコだ。誇りを持って取り組み確信を得て完了させたはずの2年にも及ぶ任務を、自分の手で台無しにしてしまった。作り笑いを中途半端に残したまま、ニコは下を向いた。
「ニコ」
ディセルの声は相も変わらず耳に心地好く響く。
「ニコ、オレと結婚しろ」
横暴さもやはり、変わらない。
「……言い方……」
「ん? 何だ? 結婚してくださいとでも跪かれたいのか?」
「いえ、敬語なんて使われる身分では……」
「だったらニコ、結婚したい。オレはおまえと」
命令形のあとは希望形か。「結婚しろ」「結婚したい」、あとは「結婚することにした」だったか。どれも総じて微妙だ。かといって何と言われたら納得できるのかなんて答えは、ニコの中にも無い。
ニコの耳は、先端まで真っ赤に変色してしまっていた。こんなことは初めてだ。どんなに強い酒をあおってもこうまで熱くなったことは無かった。
反対にディセルのほうは、先ほどまでの捨て犬であり赤ん坊であったαの威厳形無しの立ち居振る舞いなど、まるで無かったかのようにしれっと涼しい顔で立っている。
いや、違うな。焦らず騒がずただそこにいるだけなら、いつだっていい男なんだ、このαは。
中身が救いようの無いあほ坊だと言うだけで。
よりによってβと結婚するのかよ。
用意した逃げ道を何度も潰しやがって。
赤いままじっと動かないニコを、ディセルは長い腕でやさしく包み込むように抱き締めた。髪にキスをされるのはどうにも慣れないが、ディセルが嬉しそうなのでしたいようにさせてやる。
「……やっとおとなしくなったな」
あなたがそれを言うか? ドタバタと部屋中をのたうち回っていたのはどっちだ。
「ニコ、好きだ。βでも何でも、オレはおまえがいい」
肩の上から背中に回されたディセルの逞しい腕に、ニコはそっと指を引っかけた。爪の先が震えてしまう。こんなこと、許されるのだろうか。
ニコはボソボソと、2人にしか聞こえないような声量で苦しげに漏らした。
「わ……たし、は、子供が産めません……」
「そうだな。誰にでもできないことはある。オレにもある、……幾つも」
「……まあ、それはそうですね」
「うるさい!」
「便利に……、また世話を焼かせたいだけでは?」
「結婚したら身分も対等だ。そうなればおまえはオレの従者ではなくなる」
「実は今も違うんですよ」
「えっ! そ、そうだったか?!」
「……それに私は、自由な下町での暮らしも人探しの仕事も、案外好きなのです」
「では屋敷と下町の両方で暮らせばいい。オレもそうする。おまえの仕事を手伝ってやってもいいぞ!」
「…………フ、フフフッ」
ディセルの腕の中にすっぽりと収まったまま、無防備に体重まで預けて、ニコは思わず笑い出してしまった。頬にディセルの胸の熱や鼓動が伝わってくる。
温室育ちのお坊ちゃんが、綿埃の隣で眠れるはずが無いではないか。あの至高の風呂が無いどころか、湯浴みすらままならない日々なんて想像できないんだろうな。仕事だって東方では散々邪魔ばかりしていたくせに、ちゃんちゃらおかしい。
だがディセルは、まるで壊れ物を扱うかのような力加減でニコの背中や後頭部を撫で、真下へ向けて白く美しい歯列を覗かせた。嬉しくて、楽しくて、……愛しくて、もうどうしようもないとでもいう顔をして。
「ハハ! ニコが笑った顔、やはりオレはとても好きだ」
「…………私も、です。ディセル様が笑うと胸が温かくなります」
ディセルのキレイな瞳にはまたしても、冴えないβが映り込んでいた。だが、今度はまあ、悪くはないんじゃないか?
そのβは、瞳の中で幸せそうに微笑んでいた。
ディセルの長い睫毛がゆっくりと伏せられる。本当はもっとずっと見ていたかったのだけれど、ニコも倣って目を閉じた。
ディセルの熱く柔らかい唇が、ニコの薄く乾いた唇に重なった。
全身が痺れるようだ。いつの間にかしっかりと、ニコは彼の背中に両腕を回してしまっていた。遠慮なんてもう知るか。身長差のせいでその背はかなり丸く曲げられていたけれど、ニコのほうも負けじと爪先立ちで上を向き、ディセルの唇に食らいついてやった。次第に部屋には唾液の水音が反響し始める。
2人のファーストキスは、深く熱くいつまでたっても終わること無く、ただ時間と心を融かし続けていた。
◇ ◇ ◇
「…………では、私は下町へ戻りますので」
「何でだあああぁーーー!!!」
ディセルの絶叫が敷地中に轟いたのを軽く笑い飛ばして帰宅してから、既に数日が過ぎた。
宝石やら花束やら服やら何やらを、毎日持参してはプロポーズを繰り返すディセルを適当にあしらい、夕方には屋敷に帰らせる日々。
本物のあほだなあ。
こちとらとっくに、あなたのものなんですよ。
相手が名家のαであろうがどこにでもいるβであろうが、結婚するとなると平民なりに準備も義理立ても色々とあるのだ。今や天涯孤独のニコはそれらをすべて1人でこなさなければならない。抱えていた人探しの仕事にひとしきりの区切りをつけ、世話になった集落の人々へのお礼や挨拶も済ませ、どうにか身辺を整える。そしてまたしても何日かぶりの湯浴みでようやく、ニコは溜まっていた汗臭さをさっぱりと流し終えた。
毎日「臭っ!」と繰り返しながらニコの髪のにおいを嗅ぎに来ていたディセルは、臭くなくなった髪の毛の束をどこか不服そうに摘まみあげている。
「では行きましょうディセル様」
「……? どこへ?」
「私たちの新居では?」
「…………っ!!」
目を輝かせ頬を染め、ディセルは喜びを隠しもせず打ち震えて足踏みをした。こういう、ニコとは違って打算無く惜しみ無く感情を表してくれるところも好きだと思う。贈り物の一部は売り払われ結婚の支度金へと形を変えたことは知りもせず、ディセルは満面の笑みでニコへ両手を広げた。
「結婚だニコ!!」
「あなたを幸せにしてみせますよ」
「オレの台詞だ!!」
下町には拍手喝采が溢れていた。野次や冷やかしも同じくらい多かったけれど、それもまた温かい。
彼らは単にお祭り好きなのだ。ただにぎやかに面白おかしく騒ぎ立てる機会をいつでも待っているだけ。「ニコ! 元気でな!」「幸せにね!」「捨てられたらまた戻って来いよ!」無責任に口々に叫んでは、名残惜しそうに大きく手を振ってくれていた。
◇ ◇ ◇




