第六章 スタックしていたのは俺じゃない
カチッ。
壁の機械時計が、再び目盛りを一つ進んだ。
次の停滞衝撃まで、あと12秒。
ミアは《黎明の楔》を胸の前で構えた。
柄の近くに金色の炎が灯り、剣脊をゆっくりと昇っていく。
彼女は、この剣の能力を俺に説明していない。
だが、これから何をするつもりなのかは分かっていた。
《黎明障壁》。
持続時間は0.5秒。
クールタイムは300秒。
ゲームだった頃なら、スキルアイコンを押すだけで、決められたモーションの直後に障壁が展開された。
だが、ここにはスキルアイコンがない。
発動までの手順を代わりに済ませてくれるシステムアシストもなかった。
ミアは呼吸を整え、剣先をわずかに下げる。
炎はそのまま切っ先へ向かうのではなく、金色の紋様をなぞるように、少しずつ剣脊を進んでいった。
「あと8秒」
俺が告げても、ミアは答えなかった。
灰青色の瞳は、動き始めた振り子だけを見つめている。
後ろで束ねた淡い金色の髪は汗に濡れ、ほどけた数本が頬に張りついていた。灰白色のマントには鐘楼の埃が積もり、背中に描かれた金色の鐘紋もくすんでいる。
それでも、剣を握る両手は動かなかった。
「6秒」
下方の歯車が回転を速める。
赤いロックピンは機構の中で震え続け、完全に飛び出すことも、元の位置へ引っ込むこともできずにいた。
腕の中でアルカが不安そうに翼を動かす。
ルゥも尾を持ち上げた。
銀色の界索の一端が俺の手首へ巻きつき、もう一端が背後の石壁へ突き刺さる。
「3秒」
金色の炎が、ようやく切っ先へ到達した。
「2――」
「黙って」
ミアが鋭く言った。
大きく息を吸う。
切っ先に集まっていた炎が反転し、剣脊を駆け下りて護手へ流れ込んだ。
そういうことか。
ゲームで省略されていたのは、単なる発動モーションではない。
持ち主が炎を制御し、一巡させるまでの手順そのものだったのだ。
残り1秒。
ミアが剣を持ち上げる。
淡い金色の障壁が、俺たちの前に展開された。
次の瞬間、足元から鐘の音が響いた。
ゴォン――!
空気を通して届いた音ではなかった。
骨と内臓の間で、直接破裂したような衝撃だった。
宙に止まっていた水滴が一斉に歪む。
壁に並ぶ三つの機械時計が、それぞれ別の方向へ針を回し、静止していた歯車が一瞬のうちに何十回も噛み合った。
停滞衝撃が下から押し寄せる。
金色の障壁が大きくへこんだ。
ミアの靴底が床を滑り、半メートル近く押し戻される。結んだ髪が衝撃にあおられ、銀色の籠手から細かな金属音が響いた。
障壁に最初の亀裂が走る。
続いて、二本目。
三本目。
金色の光が砕け散った。
衝撃は障壁によって左右へ分断され、俺たちの脇を通り過ぎて背後の壁へ叩きつけられた。
大量の石片が飛び散る。
俺は背を向け、アルカをかばった。
ルゥの界索が激しく張り詰め、手首が引きちぎられそうになる。
振動がようやく収まったとき、ミアはまだ立っていた。
怖くないわけではない。
剣を握る指は震え、呼吸も先ほどまでの調子を失っている。
それでも、退かなかった。
《黎明の楔》のそばに、半透明の文字が浮かび上がる。
【《黎明障壁》が破壊されました】
【スキルがクールタイムに入りました】
【残り時間:299.8秒】
数字は減らなかった。
【警告:現在のエリアでは時間流速に異常が発生しています】
【スキルのクールタイムが一時停止しました】
やはりそうか。
鐘楼の時間が正常に戻らない限り、《黎明障壁》のクールタイムも終わらない。
二度目はない。
金色の障壁は消えた。
だが、剣脊には小さな火種が一つだけ残っている。
それは刃の上を、ゆっくりと滑っていた。
何を意味するのか、俺は知っている。
火種が消える前に攻撃すれば、障壁を砕いた一撃の一部が、次の攻撃へ上乗せされる。
残された時間は2秒。
しかし、ミアはそのことを知らない。
説明している時間もなかった。
停滞衝撃を防いだ直後、用途すら分からない仕掛けへ斬りかかるなど、ルーネ家に伝わる《黎明の楔》の使い方とは正反対だ。
今ここでロックピンを攻撃しろと叫んでも、俺が正気を失ったと思われるだけだろう。
1秒。
刃に残る火種が弱まる。
2秒。
最後の金色が消えた。
《黎明の楔》は、元の色へ戻った。
反撃の機会は、そのまま失われた。
「出口は?」
ミアが尋ねた。
俺は階段があったはずの場所を見る。
石壁は消えていない。
「戻ってない」
「次の衝撃まで、どのくらい?」
壁の機械時計へ目を向ける。
針が、ゆっくりと次の目盛りへ近づいていた。
「12秒もない」
ミアは剣の柄を握り直した。
光を失った《黎明の楔》は、もう障壁を展開できない。
「落ちてくる物は私が防ぐ。出口を探して」
「少し時間をくれ」
「そんなもの、ほとんど残っていないわ」
「分かってる」
俺はメールボックスを開いた。
【未受取メール:5,236件】
数千件のメールが視界を埋め尽くす。
一つずつ読んでいる時間はない。
以前見つけた絞り込み機能を使い、検索欄へ入力する。
スタック。
【メールを検索しています】
【該当件数:127件】
多すぎる。
すぐに条件を追加した。
【未受取の添付ファイルがあるメールのみ表示】
【該当件数:3件】
頭上から、金属のちぎれる音が聞こえた。
「右!」
声を上げたときには、ミアはもう動いていた。
梁から外れた錆びた鎖が、俺たちの頭上へ落ちてくる。
ミアが振り返りざまに剣を振るった。
金色の刃と鉄の鎖がぶつかる。
ギィン!
鉄輪が中央から断ち切られ、彼女の左右へ落下した。
スキルではない。
追加ダメージもない。
《黎明の楔》そのものが十分に鋭く、持ち主が斬るべき場所を理解していただけだ。
ミアは俺とアルカの前に立っていた。
埃に汚れたマントが動きに合わせて広がり、背中の金色の鐘紋が見え隠れする。
重装騎士という言葉から想像するより、彼女の体はずっと細い。銀色の籠手からのぞく手首も、決して太くはなかった。
それでも、先ほどから一つの石片も彼女を越えて俺には届いていない。
「見つかった?」
「まだだ!」
残ったメールは三件。
一つ目は、ダンジョンリセット券。
二つ目は、キャラクターの外見表示に関する不具合補償。
三つ目は、Ver.6.3から届いたメールだった。
【キャラクターおよびクエスト対象が移動不能になる現象について】
メールを開く。
> 一部エリアにおいて、キャラクター、随行ユニット、およびクエスト対象が正常に移動できなくなる現象が低確率で発生しているため、全プレイヤーへ常設支援アイテムを配布いたします。
>
> ご利用中の皆様には、ご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。
【添付アイテム:《緊急離脱装置》】
【受け取りますか?】
受け取る。
添付アイテムは、実体を持って手の中へ現れたわけではなかった。
システムのサポート欄へ、新しいアイコンが直接追加される。
【《緊急離脱装置》が登録されました】
【未受取メール:5,235件】
【分類:アカウント常設支援機能】
【使用回数:無制限】
【クールタイム:30分】
【効果:移動不能となった対象を、直近に記録された有効座標へ復帰させる】
【使用可能対象:プレイヤー、アカウント関連ユニット、護送対象、クエスト対象、復帰可能なフィールドギミック】
使い捨てではない。
クールタイムさえ終われば、何度でも使用できる。
問題は、これで全員を脱出させられるかどうかだった。
機械時計から、次の跳躍を知らせる摩擦音が響く。
残り7秒もない。
《緊急離脱装置》を起動した。
【使用可能な対象を検索しています】
【久瀬玲司:使用可能】
【ルゥ:使用可能】
【アルカ:使用可能】
【ミア・ルーネ:アカウント関連対象ではないため使用できません】
やはり。
システムは俺を認識している。
ルゥは霊獣として俺と契約している。
アルカも現在の依頼における護送対象として登録されていた。
だが、ミアは俺のアカウントに属していない。
システムに認められた仲間でもなかった。
俺自身に使えば、ここから出られるかもしれない。
ルゥとアルカも連れていける可能性がある。
ミアだけが残される。
「どうしたの?」
俺の表情に気づき、ミアが尋ねた。
「この方法だと、ミアを連れていけない」
「なら、使わなくていい」
それが何なのかも、なぜ自分だけ対象外なのかも尋ねなかった。
ミアは再び剣を構える。
「あなたたちだけでも出られるなら、アルカを連れて行って」
「自分がどうなるか分かってるのか?」
「分かってる」
答えるのが早すぎた。
考える時間すら必要ないらしい。
機械時計の針が、次の目盛りに触れようとしている。
残り5秒。
そのとき、対象一覧の下に新たな警告が現れた。
【付近に座標異常が発生している対象を検出しました】
【西側廃鐘楼・時刻調整用ロックピン】
【対象分類:復帰可能なフィールドギミック】
【現在の状態:座標異常】
【システム判定:スタック】
俺は目を見開いた。
スタックしていたのは、俺たちだけではない。
いや。
システムの判定上、本当にスタックしていたのは、俺たちですらなかった。
赤いロックピンは、本来二つの位置を往復する仕掛けなのだろう。
完全に引っ込んだ状態。
あるいは、完全に飛び出した状態。
だが今は、時間異常によってその中間に固定されている。
この世界にとっては、古代鐘楼の異常動作。
Ver.6.3以降のシステムにとっては、無効な座標で停止しているクエスト用の仕掛けにすぎない。
「方法が見つかった」
「全員で出られるの?」
「分からない」
「……」
「でも、少なくともミアだけを置いてはいかない」
残り4秒。
時刻調整用ロックピンを選択する。
【対象:《西側廃鐘楼・時刻調整用ロックピン》】
【対象を直近に記録された有効座標へ復帰させます】
【実行しますか?】
実行。
【《緊急離脱装置》を起動しました】
【位置補正に3秒必要です】
【実行中は移動できません】
3秒。
淡い青色の光が、俺の足元へ広がった。
両足を床に縫いつけられたように、半歩も動けなくなる。
「何をしたの?」
「あの仕掛けをスタック状態から戻してる!」
「仕掛けを?」
「説明はあとだ!」
頭上から歯車が落ちてきた。
直径は半メートル近く、縁には錆びた歯が並んでいる。
ミアが前へ出た。
刃で重さを正面から受け止めようとはしない。
体を半歩ずらし、剣脊を歯車の側面へ叩きつけた。
軌道を変えた歯車が彼女の肩当てをかすめる。
耳障りな摩擦音とともに、銀色の肩当てから火花が散った。
振り返った拍子に、淡い金色の髪が弧を描く。
ほんの一瞬。
飛び散った火花に照らされた、彼女の睫毛まではっきり見えた。
今考えることではない。
【位置補正完了まで:2.0秒】
次の停滞衝撃まで、3秒も残っていない。
ルゥが俺の頭上へ飛び上がった。
一本目の界索が俺の体を固定する。
二本目がアルカへ巻きつく。
三本目はミアの腰へ伸び、彼女と俺たちをつないだ。
【位置補正完了まで:1.0秒】
ミアは腰の界索へ一度目を向けたが、振りほどこうとはしなかった。
俺の前に立ち、もう障壁を展開できない《黎明の楔》を構える。
《緊急離脱装置》が失敗したなら、剣と自分の体だけで次の衝撃を受け止めるつもりなのだ。
【位置補正が完了しました】
鐘楼の中央から、重い金属音が響いた。
ガコン!
赤いロックピンの震えが止まる。
次の瞬間、目に見えない力に引かれるように、ピンが外側へ動いた。
少し。
さらにもう少し。
ロックピンが完全に飛び出した。
【対象を直近の有効座標へ復帰させました】
【《緊急離脱装置》がクールタイムに入りました】
【残り時間:30:00】
鐘楼内の機械が、すべて同時に停止した。
次の目盛りへ届きかけていた針も、わずかな隙間を残して止まる。
覚悟していた停滞衝撃は来なかった。
代わりに、新しい表示が現れた。
【時刻調整用ロックピンが整備位置へ移動しました】
【西側廃鐘楼が緊急整備状態へ移行します】
【停滞衝撃を一時停止しました】
【緊急整備状態の残り時間:5.0秒】
5秒だけ。
ロックピンが本来の位置へ戻ったことで、鐘楼そのものが整備作業の開始と判断したらしい。
歯車の中央に隙間が開く。
ロックピンの奥から、赤い制動レバーがゆっくりとせり上がった。
ミアもそれを見つけた。
「主鐘の制動レバー」
「知ってるのか?」
「今の教会で使われている鐘塔にも、似たものがある!」
【4.3秒】
ミアが駆け出した。
正常な時間が流れ始める。
宙に止まっていた水滴と埃が、一斉に落下した。灰白色のマントが彼女の背後で広がり、埃に汚れた金色の鐘紋が揺れる。
【3.7秒】
変形した金属板が、制動レバーの前を塞いでいた。
ミアが《黎明の楔》を振るう。
一撃目が、金属板の亀裂を広げた。
【3.1秒】
二撃目が、まったく同じ場所へ落ちる。
金属板が中央から割れた。
《黎明の楔》は、何のスキルも使っていない。
普通の初心者用武器を大きく上回る基礎攻撃力だけで、本来なら工具を使って外すはずの金属板を断ち切ったのだ。
【2.4秒】
ミアが制動レバーをつかむ。
動かない。
「下へ押すんだ!」
ミアは姿勢を変え、両手でレバーを握り直した。
全体重をかけて押し下げる。
【1.8秒】
制動レバーがゆっくりと動いた。
周囲の歯車が再び震え始める。
【1.2秒】
切れた鎖が、ミアの足首へ絡みついた。
体勢を崩し、片膝を床につく。
「ミア!」
彼女は振り返らなかった。
《黎明の楔》が手を離れ、隣の木板へ突き刺さる。
空いた手で鎖をつかみ、足首を強引に引き抜いた。
銀色の脚甲に、深い擦り傷が残る。
【0.7秒】
ミアが立ち上がった。
結び目からほどけた淡い金色の髪が、何本も目の前へ垂れている。
歯を食いしばり、もう一度レバーへ体重をかけた。
【0.3秒】
制動レバーが最後の抵抗を越える。
【0.1秒】
ガチャン。
振り子が中央へ戻った。
【緊急制動が完了しました】
【西側廃鐘楼の時律機構が停止しました】
【異常な時間流速を解除します】
壁の機械時計が一斉に止まった。
今度は、進むことのできない瞬間に閉じ込められたのではない。
機械として、正しく停止したのだ。
階段を覆っていた石壁が透け始める。
本来そこにあった階段が、再び姿を現した。
「成功した?」
ミアが制動レバーから手を離す。
「少なくとも、仕掛けは止まった」
次の瞬間、頭上から無数の破砕音が響いた。
戻ったのは、時間の流れだけではない。
長い停滞の中で、本来なら落下し、崩れ、朽ちていたはずの物が、一斉に動き始めた。
「走れ!」
ミアは木板に刺さっていた《黎明の楔》を引き抜いた。
最初の石片が頭上から落ちる。
剣で打ち払い、軌道を変えた。
俺はアルカを抱え直し、復活した階段へ走る。
ルゥが俺たちの間を飛び、三本の界索で全員をつないでいた。
階段が崩れていく。
一段下りるたび、背後の板が折れた。
太い梁が上から落下する。
ミアは振り返って剣を振るい、梁を支えていた腐った縄を断ち切った。
軌道の変わった梁が、階段の外側にある壁へ突き刺さる。
だが、別の歯車が足元へ転がってきた。
避ける時間はない。
俺は粗末な木の棒を構えた。
歯車が木の棒へ激突する。
バキッ!
攻撃力+1の武器が、中央から折れた。
残った衝撃で壁へ叩きつけられ、胸の奥から息が漏れる。
少なくとも、武器として最後の役目は果たした。
二つに折れた木の棒は階段の隙間から落ち、眼下の埃へ消えていった。
「動ける?」
「大丈夫だ」
「なら止まらないで」
実にミアらしい。
俺たちは、鐘楼へ入るときに使った小窓まで戻った。
窓枠を支える煉瓦には、無数の亀裂が走っている。
ルゥが尾を持ち上げた。
最後の界索が窓を通り抜け、外の岩壁へ突き刺さる。
【《界索牽引》がアンカーを確立しました】
【距離:17.8メートル】
今のルゥが届かせられる、ほぼ限界の距離だ。
「先に出て」
ミアが言った。
「そっちは?」
「私が最後」
言い争っている時間はなかった。
背後の階段が、まとめて崩れ始めている。
俺はアルカを抱えたまま窓を越え、銀色の界索をつかんだ。
外壁から突き出た煉瓦へ足をかけ、下へ移動する。
ルゥもふらつきながら隣を飛んでいた。
両足がようやく斜面へ届いたとき、上から轟音が響いた。
すぐに顔を上げる。
ミアが、崩れ落ちる窓から飛び出した。
灰白色のマントが背中に広がり、淡い金色の髪はほとんどほどけている。
片手で界索をつかみ、もう片方の手で《黎明の楔》を外壁の隙間へ突き刺した。
刃が石壁を削り、金色の火花を散らす。
落下が止まった。
俺は界索をつかみ、全力で後ろへ引いた。
ルゥも尾を持ち上げ、かすれた声を絞り出す。
「キィ――!」
ミアは界索を支えに岩壁へ足をかけ、ようやく地上へ降り立った。
俺たちが鐘楼から離れた直後、背後から重い崩落音が響いた。
文字盤の周囲から、大量の煉瓦が剥がれ落ちる。
塔は先ほどよりも深く傾いた。
それでも、完全には倒れなかった。
長い見張りを終えながら、なお倒れることを拒む老人のようだった。
界索から光が失われる。
ルゥが空中から落ちた。
俺は両手で受け止める。
「よく頑張った」
「キィ……」
手のひらへ伏せたまま、翼を畳む力さえ残っていない。
ミアが俺からアルカを受け取った。
鐘羽鳥は怯えていたが、それ以上怪我をした様子はなかった。
ミアの胸元へ身を寄せ、小さく鳴く。
「ピィ」
俺たちは、生きて外へ出られた。
近くの岩に背を預ける。
そこで初めて、自分の足がずっと震えていたことに気づいた。
数歩離れた場所に、ミアが立っている。
淡い金色の髪は、結び目から半分以上ほどけていた。何本かが埃に汚れた頬へ張りついている。
銀色の肩当てと脚甲には新しい傷が増え、灰白色のマントも一部が裂けていた。
《黎明の楔》を支えに、呼吸を整えている。
そのときになって初めて、彼女の睫毛が髪と同じくらい淡い色をしていることに気づいた。
また、考えるべきではないことを考えている。
俺は視線を外した。
「さっきのは何?」
ミアが尋ねる。
「《緊急離脱装置》」
「離脱するためのものを、鐘楼の仕掛けに使ったの?」
「あの文字が、ロックピンはスタックしていると判断した」
「実際、引っかかっていたわ」
「だから成功した」
ミアはしばらく黙った。
「何が起こるか、最初から知っていたの?」
「知らなかった」
「それなのに使った?」
「もう一つの選択肢は、ルゥとアルカだけを連れて逃げて、ミアを中へ残すことだった」
彼女が俺を見る。
灰青色の瞳には、まだ警戒が残っている。
だが鐘楼へ入る前とは、何かが少しだけ違っていた。
「それで、結果の分からないものを、暴走した古代鐘楼に使ったの?」
「用途そのものは明確だった」
「人を窮地から脱出させること?」
「引っかかったものを、正しい位置へ戻すことだ」
ミアは背後の鐘楼を見た。
「あれは、正しい修理方法ではないわ」
「直したとは言ってない」
鐘楼の機構は止まった。
だが、建物そのものは今にも崩れそうになっている。
本来どのような方法で整備するものだったのか。
少なくとも、俺たちのやり方が正解ではなかったことだけは確かだ。
今はまだ、その答えを誰も知らない。
「戻ったら、説明してもらうことがまた一つ増えたわね」
「何回かに分けてもいいか?」
「だめ」
約束されていた話し合いは、ますます長くなりそうだった。
ベルハイムへ戻った頃には、日が沈みかけていた。
アルカは暁鐘教会へ送り届けられた。
ミアが改めて傷の手当てをし、教会の飼育係も命に別状がないことを確認した。
その後、俺たちは冒険者ギルドへ戻り、依頼の経緯を報告した。
受付の職員は、話を聞き終えるまでに三度も同じ内容を確認した。
特に念を押されたのは、鐘楼内部の時間がほとんど止まっていたこと。
そして、離脱用の道具を仕掛けに使ったことだった。
後者について説明できるのは、当然ながら俺だけだ。
その俺自身も、うまく説明できたとは思えない。
ミアの証言がなければ、登録したばかりのレベル2の漂流者がついた、出来の悪い嘘として処理されていただろう。
【通常依頼《行方不明の鐘羽鳥を探せ》を達成しました】
【報酬:銅貨三十枚を獲得しました】
実際に使える銅貨三十枚が、手のひらへ落ちた。
仮想通貨の残高には加算されない。
画面の端に並ぶ数字にも変わらない。
硬貨には重さがあった。
縁が手のひらへ食い込み、わずかに痛い。
この世界へ来てから、初めて手に入れた収入だった。
九枚を数え、ミアへ差し出す。
「返す」
ミアは俺の手に載った銅貨を見た。
「まだ持っていてもいいわ」
「借金と所持金は別だ」
少し迷ったあと、ミアは銅貨を受け取った。
残りは二十一枚。
朝の丸パンなら、七つ買える。
初めての収入は、想像していたほど感動的ではなかった。
それでも、明日また腹が減ったとしても、誰かに金を借りずに済む。
「それと、これを」
受付の職員が、小さな金属製の筒を机へ置いた。
アルカの足環に付いていた伝書筒だ。
「西の詰め所からの返事?」
ミアが尋ねた。
「おそらく違います。封印が、詰め所で使われているものではありません」
筒の表面には、擦り減った鐘の紋章が刻まれていた。
それを見た瞬間、ミアの表情が険しくなる。
「中央鐘塔の整備印よ」
職員が伝書筒を開き、丸められた紙を取り出した。
記された日付は八日前。
アルカが行方不明になった日だ。
内容は、わずか二行だった。
> 中央大鐘の内部に、原因不明の振動を確認。
>
> 点検が完了するまで、主鐘を絶対に作動させないこと。
ギルドの中が静まり返った。
「今夜、主鐘を鳴らす予定は?」
俺が尋ねる。
ミアは首を横に振った。
「主鐘が鳴るのは新年と戦争、それからベルハイムが大規模な襲撃を受けたときだけよ」
「なら、今すぐ問題になることは――」
言い終える前だった。
低い鐘の音がギルドの壁を突き抜け、ベルハイムの中央から響いてきた。
ゴォン――
机の上の銅貨が小さく震える。
ギルドにいた全員が、同時に動きを止めた。
ミアがゆっくりと振り返り、窓の外を見る。
「この時間に、主鐘を鳴らす者はいないはずよ」
遠くで、二度目の鐘が鳴ろうとしていた。
少しずつ世界観が広がってきました。
設定を考えるというのは、本当に難しいものですね。細かな部分の整合性まで気にしすぎると、かえって身動きが取れなくなってしまうこともあります。
それでも、作品をより良いものにするためには、妥協せず少しずつ磨き上げていくことが大切だと思っています。
これからも精一杯頑張りますので、引き続き応援していただけるとうれしいです!




