第五章 八日間と十数分
【通常依頼《行方不明の鐘羽鳥を探せ》を受注しました】
【依頼目標:鐘羽鳥「アルカ」をベルハイムへ連れ帰る】
【捜索地点:西側の廃鐘楼、およびその周辺】
【報酬:銅貨三十枚】
【失敗ペナルティ:なし】
「銅貨三十枚」
冒険者ギルドを出る前に、ミアは依頼書に記された金額をもう一度確認した。
「報酬を受け取ったら、先に九枚返して」
「覚えてる」
「ならいいわ」
ギルドの印を押された依頼書を折り畳み、服の内側へしまう。
俺が、大量にあるにもかかわらず、見ることしかできず使うことのできない通貨を持っていることは、すでにミアも知っている。
ただし、それが九千四百万を超えていることまでは教えていない。その金貨がどこから来たのかも説明していなかった。
あの数字が以前の俺にどれほどの安心感を与えてくれたとしても、今の俺はパン一個を買うために彼女から金を借りなければならない。
使い道を見つけるまでは、ステータス画面を飾る数字と大差なかった。
「ミアも来るのか?」
「アルカは暁鐘教会で飼っている鐘羽鳥よ」
「それで、自分も捜しに行く?」
「これまでの捜索にも参加していたから」
ミアは、俺の持っている粗末な木の棒へ目を向けた。
「それに、木の棒一本しか持っていないレベル2の漂流者を、一人で廃鐘楼へ行かせる気はないわ」
攻撃力+1。
少なくともこの木の棒は、システムから武器として認められている。
だからといって、安心できる要素は何ひとつなかった。
肩に止まっていたルゥが顔を上げる。
「キィ」
「お前のことじゃない」
「キィ」
ルゥは無事なほうの翼で、俺の頬を軽く叩いた。
俺たちはギルドのある広場を離れ、ベルハイム西側の坂道を上っていった。
「アルカだと見分けられる特徴は?」
「右脚に、七番と刻まれた教会の足環を着けているわ」
ミアは少し間を置いた。
「小さい頃から、鳥舎の狭い隙間へ入り込むのが好きな子だったの。一度、翼を金網に挟んで、風切羽をひどく傷めたことがある」
自分の右腕の外側を示しながら、彼女は続けた。
「何日も私が薬を塗り替えた。傷が治ってからも、生え替わった羽の先が少しだけ内側へ曲がるの」
俺は、すでに登録されている図鑑を呼び出した。
【鐘羽鳥】
【レベル:3】
【基礎攻撃力:5】
【危険度:極低】
ベルハイムへ入ったとき、冒険者ギルドの前でこの鳥を目にしている。
灰白色の羽毛と、手紙を入れるための細い筒を取り付けた足。
暁鐘教会と冒険者ギルドは鐘羽鳥を飼育し、近距離の伝令に使っていた。
あのとき、システムも鐘羽鳥の基礎情報を図鑑へ登録している。
ただし、図鑑が記録したのはひとつの生物種だ。
ベルハイムで飼われている一羽一羽ではない。
どれがアルカなのかも、七番の足環を着けた個体が今どこにいるのかも教えてはくれなかった。
こういうことに関しては、ミアの知識のほうがステータス画面よりずっと役に立つ。
「アルカは八日前、街の西にある詰め所へ手紙を届けた」
ミアが説明を続ける。
「詰め所の人たちも、飛び立ったときに怪我がなかったことを確認している。向かった方角もベルハイムだったそうよ」
「それきり行方不明か」
「ええ」
俺は、掲示板から剥がしたばかりの依頼書に目を落とした。
ギルドの印を押されるまでは、何枚もの新しい依頼書に覆われていた紙だ。端はすでにわずかに黄ばんでいる。
「この依頼が貼り出されたのは八日前?」
「行方不明になった翌日よ」
「なら、七日も貼られたままだったのか」
「ええ」
「誰も引き受けなかった?」
「報酬が安い。それに、アルカが今も鐘楼にいるとは限らないもの」
詰め所の人間は、飛び立ったアルカが西の丘へ進路を変えるのを目撃していた。
教会の者たちがその経路を捜索し、廃鐘楼の近くでアルカのものと思われる羽を見つけた。
だから依頼書には、最初から西側の廃鐘楼が捜索範囲として記されていたのだ。
「教会の人たちは中を捜さなかったのか?」
「正面の入口は崩れた石で塞がれていたし、ほかの入口も見つからなかった。外壁を一周して調べたけれど、分かったのはアルカがあの辺りへ来たらしいということだけ」
ミアは坂道の先を見た。
「鐘楼の中へ飛び込んだのかもしれないし、上空を通り過ぎただけかもしれない。誰にも確かめられなかったのよ」
廃鐘楼までの道は歩きにくい。
たとえ中へ入れたとしても、何かが見つかる保証はない。
銅貨三十枚では、経験のある冒険者が丸一日を費やす理由にはならなかった。
「でも、パン一個も買えない新人にはちょうどいい」
ミアはこちらを一度見たが、何も答えなかった。
どうやら俺の自虐に付き合うつもりはないらしい。
ベルハイム西側の通りは、中央広場よりも狭かった。
坂に沿って家々が段状に並び、屋根と屋根の間には洗濯物を干すための紐が張られている。
時折、灰白色の鐘羽鳥が頭上を横切った。
そのたびにミアは足を止め、飛んでいく鳥を確認する。
足環が見えなくても、飛び方や尾羽の形だけでアルカではないと判断できるらしい。
「鐘羽鳥の世話もしているのか?」
「見習い鐘騎士は、交代で鳥舎の掃除もするの」
それだけ答えると、ミアは再び歩き始めた。
鐘騎士の日常といえば、剣術を鍛え、教会を守り、街の地下に潜む邪悪な魔物を退治するものだと思っていた。
どうやら、鳥の糞を片づける仕事も含まれているらしい。
ゲームでは一度も描かれなかった部分だ。
最後の民家を通り過ぎると、整えられていた石畳は、雑草に覆われた坂道へ変わった。
西側の廃鐘楼は、その坂の先に建っていた。
塔の一部は山肌へ沈み込み、灰色の煉瓦は風雨に削られている。本来なら文字盤があったはずの場所には巨大な円形の穴だけが残り、目をえぐられた眼窩のように黒く口を開けていた。
俺は足を止めた。
この塔を知っている。
正確には、その外観を見たことがあった。
かつての『エンドレルム・プロトコル』でも、ベルハイムの西門から外へ出れば、遠くの丘に傾いた鐘楼が見えた。
ただの背景だった。
入口も、クエストも、調べられる場所もない。
サービス開始当初、地形バグを利用して近くの崖を登ろうとしたプレイヤーもいたが、最後には透明な壁に阻まれた。
運営は後にその不具合を修正し、ついでに足場にできた岩まで全部削ってしまった。
鐘楼の中に何があるのかは、誰も知らなかった。
その塔が、今は目の前にある。
外壁の亀裂も、傾いた塔の先端も、円形の穴の脇にある色の濃い煉瓦も、記憶の中にある背景モデルとほとんど変わらない。
違うのは、俺たちを阻む透明な壁が存在しないことだけだった。
「また何か思い出したの?」
俺の反応にミアが気づいた。
「この塔は、記憶にあるものとほとんど同じだ」
「街へ入ったときは、ベルハイムが記憶と違うと言っていたわね」
「街の中は違った。でも、この塔は変わっていない」
ミアも傾いた鐘楼を見上げる。
「以前、ここへ来たことがあるの?」
「ない」
「でも、覚えているのでしょう?」
「ベルハイムには何度も来た。けど、この塔の下に立ったことは一度もない」
ミアが眉をひそめた。
「なぜ?」
「俺の記憶では、この鐘楼へ通じる道そのものがなかったからだ」
「私たちが歩いてきた道は?」
「だから、記憶と違うと言っている」
ミアは雑草に覆われた坂道へ目を落とし、もう一度こちらを見た。
「あなたの言う記憶は、どこまで本当なの?」
「それを俺も確かめているところだ」
安心させられる答えではなかった。
ミアはそれ以上追及せず、鐘楼の前へ向かい、煉瓦の隙間に生えた草を調べ始めた。
ただ、それからは俺との距離をわずかに広げた。
右手も、いつでも剣を抜ける位置から離れない。
ほどなくして、彼女は草の中から一本の灰白色の羽を拾い上げた。
根元には細い黒い模様があり、先端はわずかに内側へ曲がっている。傷は治っているものの、その痕は今も残っていた。
「アルカの羽よ」
「分かるのか?」
ミアは指先で、羽の先端をそっと撫でた。
「さっき話した羽だから」
彼女の指が止まる。
「薬を塗り替えるたびに、何度も嘴で突かれた。見間違えないわ」
俺は羽に触れた。
半透明の文字が視界に浮かび上がる。
【登録済み生物《鐘羽鳥》の痕跡を検出しました】
【個体情報:未登録】
【対象個体を特定できません】
図鑑は、この羽が鐘羽鳥のものだと判定できる。
しかし、アルカの羽だとは証明できない。
システムにとっては、どこかの鐘羽鳥が残した痕跡にすぎないのだ。
ミアが知っているのは、生物としての鐘羽鳥ではない。
アルカという一羽の鳥だった。
「今も、あなたにしか見えないものが現れたの?」
突然、ミアが尋ねた。
俺は顔を上げた。
彼女は羽ではなく、俺の目を観察している。
「ああ」
「何が書かれていたの?」
「鐘羽鳥の羽だとは分かる。でも、どの個体のものかまでは判別できない」
「ほかには?」
「何もない」
ミアは、それが本当か見極めるように俺を見つめた。
数秒後、俺の手から羽を受け取り、腰の小袋へしまう。
「戻ったら、きちんと説明してもらうわ」
相談ではない。
すでに決まったことらしい。
俺に拒否権はなさそうだった。
鐘楼の正面入口は崩れた石で完全に塞がれ、隙間には苔が生えていた。最近動かされた形跡はない。
外壁の根元にも、鳥一羽が入り込めそうな穴は見当たらなかった。
アルカの痕跡はここで途切れている。
ミアは塔の上部に開いた円形の穴を見上げた。
「そこから飛び込んだのかもしれない」
「あそこまで十五メートルはあるぞ」
「だから、ほかの入口を探すの」
俺たちは鐘楼の周囲を一周した。
ほかの入口は見つからなかった。
ミアが二度目に正面入口へ戻ったとき、ルゥが俺の肩から飛び立った。
傷ついた翼はまだ完全には開かない。ふらつきながら浮かび上がり、銀白色の尾を持ち上げる。
その先端は、塔の側面にある、板で塞がれた小窓へ向いていた。
「キィ……」
食べ物を見つけたときの喜んだ声とは違う。
ごく弱い何かを確かめようとしているようだった。
次の瞬間、尾の先から銀色の界索が放たれた。
界索は板と板の間にある、ほとんど見えない隙間を通り抜け、その向こうへ消えた。
銀色の光が張り詰め、ルゥの小さな体も前へ引かれる。
ミアがすぐに手を伸ばし、ルゥを下から支えた。
「あそこに何があるの?」
ルゥは首を傾げる。
「キィ」
人の言葉で答えることはできないらしい。
俺の視界に新しい文字が現れた。
【《界索牽引》がアンカーを確立しました】
【距離:13.7メートル】
アンカーは鐘楼の内部にある。
「窓の向こうに、界索を固定できるものがある」
「また、あの文字が教えたの?」
「今回はそうだ」
ミアはすぐには動かなかった。
銀色の界索をつかんで何度か強く引き、さらにルゥに一度アンカーを変更させる。
界索が外れず、向こう側の支えも十分に頑丈だと確かめてから、ようやく外壁の足場を探し始めた。
「私が先に上る」
「俺を下に残していいのか?」
「だから、上から見張るのよ」
もっともだった。
ミアは外壁から突き出た煉瓦へ足をかけ、界索を使って体勢を保ちながら登っていく。
ほとんど音を立てず、間もなく小窓へ辿り着いた。
すぐには中へ入らない。
鞘で腐った板を外し、内部を念入りに確認する。待ち伏せがないと判断してから、窓枠を越えた。
「上がって」
窓から顔を出して言った。
俺の番は、それほど簡単にはいかなかった。
地上から十三メートル以上ある。
俺はまだレベル2だ。異世界へ来たからといって、別人のように強くなったわけでもない。
どうにか窓枠を越えた頃には、両腕が震えていた。
ミアは数歩離れた場所から、黙ってこちらを見ている。
手を貸すことも、何か言うこともなかった。
何か言われるより、かえって気まずい。
鐘楼の内部は、外から見るより広かった。
壊れた木製の階段が内壁に沿って上へ続き、中央には錆びた鎖が何本も垂れ下がっている。
床には分厚い埃が積もっていたが、鼠や虫が動いた痕跡はない。
静かすぎた。
廃墟にあるはずの静けさではない。
本来なら存在しているはずの音を、何者かに無理やり奪われたあとの空白だった。
ミアが二歩ほど進み、不意に止まる。
俺に声を出さないよう手で示し、梁の下を指差した。
水滴が一粒、宙に浮いていた。
床までの距離は半メートルもない。
それなのに、落ちようとしない。
視線を上げる。
水滴は梁から直接染み出しているわけではなかった。
さらに上には何粒もの水が、ほとんど等しい間隔を保ったまま浮かんでいる。
落下途中の水だけを、その場へ縫い止めたように。
少し離れた場所では、梁から剥がれた木片も空中で静止していた。
片方を下へ向け、回転途中の姿勢を保っている。
ミアが鞘の先で、一番下の水滴に触れた。
水滴はすぐに弾け、鞘を濡らす。
だが、上にある水滴は落ちてこなかった。
壁から、ごく小さな音が聞こえた。
カチッ。
外装が剥がれ落ちた機械時計の針が、目盛り一つ分だけ跳ねた。
同じ瞬間、宙にある水滴が一斉に下へ移動する。
木片もわずかに回転し、周囲の埃が少しだけ落ちた。
そして、すべてが再び止まった。
水滴は空中へ取り残される。
木片も回転をやめる。
時計の針も動かない。
「物が固定されているんじゃない」
俺は壁の機械時計を見つめた。
「この辺りの時間そのものが、たまにしか進んでいないんだ」
ミアは答えなかった。
俺たちはそのまま待った。
カチッ。
時計の針がもう一度跳ねる。
水滴と木片、埃も同じ瞬間だけ落下を再開し、すぐにまた止まった。
二度の音の間隔は、およそ12秒。
だが、鐘楼の中にある物にとって、その12秒のあいだに進む時間は一瞬にも満たないのかもしれない。
俺たちは上へ向かった。
12秒ごとに、壁の機械時計が小さな音を立てる。
その瞬間だけ、周囲の物もわずかに動いた。
上へ行くほど、一度に進む時間は短くなっていく。
二階へ近づいた頃には、水滴がまだ目に見える距離を落ちていた。
三階に着く頃には、階段から剥がれた木片が三度の音を経ても、半分すら回転していない。
死んだ虫が、翼を広げた瞬間のまま空中に浮かんでいた。
壁の隙間から伸びた蔓は、根元が枯れて黄色く変色しているのに、先端だけが鮮やかな緑を保っている。
一本の植物が、同時に異なる季節を過ごしているようだった。
三階へ到着したところで、ミアが手を上げた。
前方から、ごく弱い呼吸音が聞こえる。
壊れた歯車の向こうで、何かが震えていた。
ミアは足音を立てず、歯車を回り込む。
隅に一羽の灰白色の鳥がうずくまっていた。
胸元には振り子に似た黒い模様。
右脚には、七番と刻まれた青銅の足環が着いている。
右の翼の外側にある風切羽は少し内側へ曲がり、その先には見覚えのある傷痕が残っていた。
周囲にはまだ新しい羽が何本か落ちている。
足環には、小さな金属製の伝書筒も取り付けられていた。
「アルカ」
ミアはすぐにその場へしゃがみ込んだ。
鐘羽鳥は彼女の声を聞き、ゆっくり顔を上げる。
「ピィ……」
弱々しいが、声は出せている。
ミアのことも分かっているようだった。
彼女はすぐにはアルカへ触れなかった。
まず周囲の床を調べ、腰から小さな青銅の鉤を取り出す。
それを使い、翼を挟んでいる金属棒を一本ずつ慎重に外していった。
俺が近づこうとすると、ミアは手を上げて止めた。
「この子の周りにある埃には触れないで」
「何か見つけたのか?」
「何も見つけられないからよ」
アルカの周囲で静止している埃を見つめる。
「だから、下手に触るべきではないわ」
最後の金属棒が外れると、ミアは布でアルカを包み、その場から抱き上げた。
アルカが隅から離れた瞬間、周囲に浮かんでいた埃が一斉に床へ落ちた。
狭い範囲だけ、時間が戻った。
ミアはすぐにアルカの翼を調べた。
傷は深くない。
化膿しておらず、長時間放置されたことで傷んだ様子もなかった。
羽は乱れているが、ひどく脱水しているようにも見えない。
ミアは腰の小袋から、平たい容器を取り出した。
中に入っているのは、淡い黄色の軟膏だ。
風棲軟膏。
以前、ルゥの翼を治療したときにも使っていた薬だった。
ミアはアルカの翼の付け根へ軟膏を塗り、乾燥させた穀物を何粒か手のひらへ載せる。
初めのうち、アルカは反応しなかった。
しばらくすると、頭を下げて二粒だけ啄んだ。
ミアは目に見えて安堵した。
しかしアルカの腹を軽く押し、首元の羽をかき分けると、その表情はすぐに困惑へ変わった。
「何か問題が?」
「この程度で済んでいるはずがない」
「どういう意味だ?」
「アルカが行方不明になってから、もう八日よ」
腕の中の鐘羽鳥を見下ろす。
「八日間、水も飲まず、何も食べていなかったのなら、自分で餌を食べられるはずがない。傷だって、こんな状態のままでは済まない」
「実際には、どのくらいここにいたと思う?」
ミアはしばらく黙った。
「体の状態だけで判断するなら、十数分程度」
ベルハイムでは、すでに八日が過ぎている。
それなのに、アルカが経験したのは十数分だけ。
羽がまだ新しく、傷が悪化していないのも当然だった。
アルカは忽然と消えたのではない。
時間がほとんど進まない場所に閉じ込められていたのだ。
「先にここを出るわ」
ミアがアルカを抱き上げる。
俺も頷いた。
この鐘楼に何が隠されているにせよ、今の俺たちが調査を続けるべきものではない。
少なくとも、俺がまだレベル2で、武器も粗末な木の棒しかないうちは。
来た道を戻る。
階段へ着いたところで、先を歩いていたミアが急に止まった。
そこにあったはずの階段が消えている。
崩れたわけではない。
何かに破壊されたわけでもない。
下の階へ続いていた場所には、完全な石壁だけが存在していた。
分厚い埃に覆われ、何十年も前からそこにあったように見える。
「道を間違えた?」
俺は後ろを確認した。
アルカが閉じ込められていた歯車は、すぐ後ろにある。
間違えていない。
ミアはアルカを持っていた布袋へ入れ、頭だけを外へ出した。
そして、腰の剣を抜く。
刃が鞘から離れると同時に、剣脊を淡い金色の光が走った。
《黎明の楔》。
その剣は今も俺のアカウントには反応せず、ミアを現在の所持者として認めている。
ルゥが突然飛び上がった。
消えた階段ではなく、鐘楼の中央から垂れ下がる錆びた鎖を見ている。
そのうちの一本が動き始めていた。
カチッ。
壁の機械時計が、再び目盛りを一つ進む。
だが、今回動いたのは針だけではなかった。
鐘楼全体が小さく震えた。
大小無数の歯車が、壁の奥でゆっくりと回転し始める。
時計が音を立てるたび、その中心にある赤錆びた留め金が一瞬だけ外へ突き出した。
そして、すぐに内部へ戻っていく。
同時に、空中で止まっていた水滴が歪んだ。
ルゥが甲高い声を上げる。
「キィ――!」
銀色の界索が放たれた。
一端は俺の手首に巻きつき、もう一端は背後の壁へ突き刺さる。
ほとんど同時に、目に見えない力が鐘楼の下から駆け上がってきた。
風はない。
音もない。
それなのに、体の内側から別々の方向へ引き裂かれるような感覚が走った。
視界の中でミアの姿が二つに分かれ、次の瞬間には無理やり重なり合う。
布袋の中でアルカが翼をばたつかせた。
鳴き声が不自然に鋭く、長く引き延ばされる。
そして、すべてが元へ戻った。
俺は床へ膝をつき、荒い息を繰り返した。
胃の中が激しく揺れている。
界索はまだ手首に巻きついていたが、銀色の光は先ほどより明らかに弱くなっていた。
ミアも剣で体を支えている。
顔色は青い。
「今のは何?」
「この鐘楼が、俺たちの時間まで止めようとした」
少なくとも、今の俺にはそうとしか説明できなかった。
壁の隅から一本の亀裂が伸びていく。
今の衝撃だけで、その幅は倍近くに広がっていた。
この鐘楼は、何度も耐えられない。
俺は中央を見上げた。
鎖の奥では、歯車がまだゆっくり回り続けている。
赤錆びた留め金が外へ出ていたのは、機械時計が動いてから2秒にも満たなかった。
次の音まで、あと12秒。
そして、今の衝撃はまだ一度目だ。
「次は私が防ぐ」
ミアが立ち上がった。
アルカを俺へ預け、《黎明の楔》を胸の前で構える。
剣先はわずかに下を向いていた。
「その銀色の子にアルカを守らせて。あなたは出口を探して」
「そっちはどうする?」
「すぐに追いつく」
声に迷いはなかった。
一筋の金色の炎が柄の近くに灯り、剣脊をゆっくりと昇っていく。
俺はその光を知っている。
《黎明障壁》。
効果時間は0.5秒。
クールタイムは300秒。
ここで一度使えば、ミアは二度目を発動できない。
それでも、俺は何も言わなかった。
ミアは《黎明の楔》の能力を俺に説明していない。
その俺が、持ち主である彼女以上に武器を理解しているような態度を取れば、さらに疑われるだけだ。
それに、彼女の選択は間違っていない。
障壁で致命的な攻撃を防ぎ、守るべき相手を連れて撤退する。
ルーネ家に三代にわたって伝えられてきた使い方。
そして、ミアが知る唯一の答えだ。
けれど十二年前。
暇を持て余したプレイヤーたちが訓練場のスライムを囲み、120円で販売されたこの初心者用武器を、午後いっぱいかけて検証したことがある。
その結果、装備説明にすら明記されていない事実が見つかった。
《黎明の楔》が本当に危険な瞬間は、障壁が展開される0.5秒ではない。
障壁が消えたあとの、2秒間だった。
二日も更新をお休みしてしまい、本当に申し訳ありません。やっぱり人間、「ちゃんと続けられています」なんて口にするものではありませんね……。
とはいえ、幸いなことに、まだそれほど多くの方に読まれているわけでもないので、焦らずじっくり作品を磨いていけそうです。
世界観が広がっていくにつれて、考えなければならないことも増えてきました。もともとは、もう少しわかりやすく気軽に読めるお話にするつもりだったのですが、設定をあれこれ考えるのが思いのほか楽しくて……。
もう少し上手に書けるようになったら、いつか挿絵も増やしていきたいですね。そうすれば、皆さんにもミアがどんな姿をしているのか、もっとわかりやすくお見せできますし。ははは。
そして現実では、来月の家賃のことも考えなければなりません。
誰かに愛されたいです(泣)。




