第四章 数字では買えないパン
「まずは冒険者ギルドへ行くわよ」
そう言って、ミアはベルハイムの大通りを歩き始めた。
俺もその後ろをついていく。
そして、三軒目の店を通り過ぎるところで足を止めた。
焼きたての丸パンが、木製の棚に並べられている。
表面には小さな亀裂が入り、金色に焼けた縁からは、まだ湯気が立っていた。店員が埃よけの白い布を持ち上げた瞬間、小麦とバターの香りが混ざった温かな空気が流れてくる。
俺の腹が、もう一度音を立てた。
しかも、さっきより大きい。
ミアが振り返る。
「昨日、何も食べていないの?」
「食べた」
「いつ?」
「ここへ来る前だ」
「それは、いつの話?」
記憶をたどる。
午前3時にアップデート。
その前に、コンビニのおにぎりを一つ食べた。
「この世界の時間で考えると、俺にも分からない」
ミアは数秒間、俺の顔を見つめた。
それからパン屋の前へ行き、銅貨を2枚置く。
「二つください」
店員は棚から丸パンを二つ取り、紙で包んだ。
ミアが、そのうち一つを俺へ差し出す。
「これも借金か?」
「当然よ」
丸パンを受け取る。
【食料《丸パン》を発見しました】
【品質:ノーマル】
【食用効果:空腹を緩和します】
【現在の世界における参考価格:銅貨1枚】
システムは親切にも、俺の借金がいくら増えたのかまで教えてくれた。
入城料が銅貨3枚。
丸パンが1枚。
合計4枚。
この世界で初めて背負った借金は、レベルよりも速く増えている。
俺は丸パンを小さく千切った。
ルゥがすぐに肩の上で身体を起こす。
「お前も食べるのか?」
「キィ」
「先に確認するぞ」
画面が丸パンの情報を読み取った。
【対象:界索虫・幼体】
【食物適合率:64%】
【少量の摂取では、明確な悪影響は発生しません】
パン屑を差し出す。
ルゥは前脚の二本で抱え、少しずつ齧り始めた。
「その子がパンを食べられるかどうかも分かるの?」
ミアが尋ねた。
「適合率だけなら見える」
「昨日の薬と同じ?」
「だいたい同じだ」
ミアは何かを考えるようにルゥを見たが、それ以上は追及しなかった。
俺も丸パンを一口齧る。
外側は硬い。
だが、中は思っていたよりも柔らかかった。
ゲーム内の料理にあったような能力上昇はない。
これから30分間、経験値の獲得量が10%増えたり、移動速度が上昇したりもしない。
ただの、そこそこ美味しいパンだ。
それでも、十数時間何も食べていない人間には十分だった。
丸パンを食べながら、通貨画面を開く。
【ゲーム内ゴールド:94,751,820】
【有料通貨:黒晶238,500個】
一億近いゴールド。
二十三万八千五百個の黒晶。
まだゲームの中にいたなら、一般的な消耗品の値段を気にする必要などない。
《通貨交換》を選択してみた。
【現在、ショップはオフラインです】
【通貨交換機能を利用できません】
【ゲーム内ゴールドと直接対応する現地通貨を検出できません】
【ゲーム内ゴールドは実体化できません】
「やっぱり駄目か」
「何が駄目なの?」
「使えないゲーム内通貨なら、一億ゴールド近く持っている」
ミアの足が止まった。
「熱でもあるの?」
「ない」
「なら、木の棒しか持っていない状態で、強盗に狙われそうなことを言わないほうがいいわ」
「どうせ奪えない」
「やっぱり熱があるように聞こえるけれど」
ミアは、それ以上俺を相手にしなかった。
俺も通貨画面を閉じる。
アカウント上には、巨大な数字が残っている。
だが、銅貨1枚の丸パンさえ買えない。
これが、数値インフレの行き着いた先なのかもしれない。
数字だけが残っている。
意味は、もうない。
中央広場を通りかかったとき、ベルハイムの朝の鐘が再び鳴った。
カァン――。
灰鐘遺跡の音とは違う。
重くもない。
攻撃が始まることもない。
通りを歩く人々は逃げ出さず、荷物を運び、店を開き、あるいは鐘楼へ向けて短く頭を下げていた。
だが、ルゥは大きく身体を震わせた。
食べかけのパン屑を落とし、一瞬で俺の襟元へ潜り込む。
「ただの鐘だ」
「キィ……」
「昨日のせいで鐘が苦手になったのは、俺だけじゃなかったか」
ミアが、襟元から半分だけ顔を出すルゥを見た。
「長い訓練を受けた使役獣には見えないわね」
「使役獣?」
「人間に飼育されて、仕事や戦闘を手伝う動物や魔物のことよ。知らないの?」
ちょうど、冒険者ギルドの隣にある中庭を通りかかった。
木製の柵の向こうでは、鷹ほどの大きさを持つ白い鳥が、何羽も横木に止まっている。
胸元には銅色の羽毛が生えており、歩くたびに小さな金属音を鳴らしていた。
ギルド職員の一人が、そのうち一羽の翅を調べている。
鳥の脚には、手紙を入れるための細い筒が結びつけられていた。
【生物《鐘羽鳥》を発見しました】
【レベル:3】
【基礎攻撃力:5】
【危険度:極めて低い】
【生物図鑑が更新されました】
ミアが白い鳥たちを指す。
「暁鐘教会と冒険者ギルドは、鐘羽鳥を飼育しているの。天候さえ良ければ、馬で手紙を運ぶよりも速いわ」
「だから、飛行する魔物用の薬を持っていたのか?」
「昨日、北側林地へ行ったのも、風棲軟膏の材料を集めるためよ」
ミアが俺を見る。
「人は動物を育てるし、傷ついた使役獣を治療するわ。何か不思議なことでもあるの?」
「いや。俺が勘違いしていただけだ」
そこでようやく、ごく単純なことに気づいた。
この世界にVer.5.0のペットシステムが存在しないからといって、人々が動物を飼育できないわけではない。
鐘羽鳥には餌を与え、訓練し、怪我をすれば治療しなければならない。
ペット欄へ収納することもできない。
レベル、スキル、絆を直接確認する画面もない。
驚けば逃げる。
怪我をしても、待機時間が終わるだけで自動的に回復することはない。
後から実装されたペットシステムは、これらの生命を何もない場所から生み出したわけではなかった。
本来なら長い時間が必要になる複雑な関係を、プレイヤーが理解できる数字とボタンへ整理したものだ。
ミアは、俺の肩にいるルゥへ目を向けた。
「でも、その界索虫は訓練を受けていないように見える。どうして、あなたについてくるの?」
「俺が一度助けて、こいつも俺を一度助けた」
「それで、この子があなたについていくと決めたの?」
「たぶん」
「言葉が分かるの?」
「分からない」
「それなのに、どうしてそう言い切れるの?」
「こいつが離れようとしたとき、俺は止めていないからだ」
その言葉を証明するように、ルゥの六本の細い脚が俺の襟を強く掴んだ。
ミアはしばらくルゥを見つめたが、それ以上は尋ねなかった。
俺たちは冒険者ギルドへ入った。
ゲームのベルハイム支部は、三つの機能窓口だけが用意された小さな建物だった。
依頼受注。
パーティー募集。
素材交換。
プレイヤーが中に滞在する時間は、普通なら1分にも満たない。
だが、現実に存在するギルドは、倉庫、酒場、事務所、訓練場が一つになった巨大な施設だった。
広間は人で溢れている。
革鎧を着た冒険者たちが掲示板を囲み、商人は帳簿を抱えてギルド職員と荷物の損失について言い争っていた。
隅では地図を売る者もいれば、魔物素材を買い取る者もいる。
反対側の長机では、依頼を終えたばかりらしい冒険者たちが酒を飲んでいた。
まだ朝だというのに、麦酒、革、汗、焼いた肉の匂いが混ざり合っている。
ついさっき丸パンを食べたばかりだ。
それでも焼肉の匂いを嗅いだ俺の胃は、正直に反応した。
「先に身分登録をするわよ」
ミアが最も右側にある窓口へ向かった。
受付にいたのは、茶色い髪を後ろでまとめた中年の女性だった。
ミアとは顔見知りらしい。
「今日は風棲草を採りに行く日じゃなかったの?」
「採集は終わりました。それから、灰鐘の森から出てきた身元不明者を連れてきました」
「後半のほうが、ずっと面倒に聞こえるわね」
受付の女性がミアの後ろから俺を見る。
続いて、ルゥに気づいた。
「魔物まで連れてきたの?」
「連れてきたわけじゃない」
俺は訂正した。
「名前もある。ルゥだ」
ルゥが肩の上で身体を起こす。
「キィ」
受付の女性の眉がわずかに動いた。
「あなたの使役獣?」
「今のところは、仲間だ」
「飼育許可証は?」
「ない」
「服従訓練の記録は?」
「それもない」
「危険性の評価は?」
俺は画面を開いた。
【戦闘能力:0】
「戦闘能力はゼロだ」
受付の女性がミアを見る。
「その数値、信用できるの?」
「城門で鑑定した彼自身の基礎攻撃力が9でした」
ミアが答えた。
「なので、わざと低い数字を言う習慣はないと思います」
俺の尊厳をまったく守っていない証明方法だった。
だが、効果はある。
受付の女性が指先で机を叩いた。
「指示には従う?」
「ルゥ」
俺は机を指す。
「降りろ」
ルゥが腕を伝い、机の上へ降りた。
「一回、回ってみろ」
ルゥが身体を傾ける。
「その……何でもいいから、とにかく一回回ってくれ」
ルゥは本当に、その場で一回転した。
そのあと顔を上げ、報酬を待つように俺を見た。
残っていた丸パンを少し千切り、差し出す。
受付の女性はしばらく黙っていた。
「少なくとも、今すぐ危険になる魔物には見えないわね。ギルドの物を壊したり、他の人を襲ったりした場合は、あなたが弁償すること」
「分かった」
新しい通知が表示された。
【現所在地の規則を登録しました】
【界索虫が公共物へ与えた損害は、プレイヤーの債務として記録されます】
「どうして、そんなことまでわざわざ記録するんだ……」
「何か言った?」
「何でもない」
受付の女性が書類を取り出す。
「名前」
「久瀬玲司」
「年齢」
「二十七」
「職業」
「漂流者」
「出身地」
「不明」
彼女のペンが止まった。
「記憶喪失?」
「たぶん」
「どうして、たぶんなの?」
「自分のことは覚えている。ただ、出身地をどう説明すればいいのか分からない」
受付の女性がミアを見る。
ミアが小さく頷いた。
「私も確認しました。今は、そう登録するしかありません」
「保証人は?」
ミアの表情がわずかに変わる。
「私は、彼を街へ連れてきただけです」
「正式な身分証がなく、出身地も確認できない。ギルドの仮身分証を申請するなら、最低一人は現地の保証人が必要よ」
受付の女性が、書類をミアへ差し出した。
「ここに名前を書いて」
ミアが俺を見る。
俺もミアを見る。
「銅貨はできるだけ早く返す」
「もう銅貨4枚だけの問題ではないわ」
「今度はいくらだ?」
「仮登録料は銅貨5枚よ」
受付の女性が答えた。
俺は、もう一度ミアを見る。
ミアは目を閉じ、ゆっくりと息を吸った。
「いつか、私がお金を払わなくてもいい問題を持ってきてくれる?」
「努力はする」
「まったく自信があるように聞こえないわね」
それでもミアは保証人の欄に名前を書き、銅貨を5枚置いた。
俺の借金は9枚になった。
【現地債務記録が更新されました】
【債権者:ミア・ルーネ】
【債務額:銅貨9枚】
システムは自動的に帳簿まで作っていた。
こういうことに限って、仕事が速い。
受付の女性は書類を片づけ、紋章のない薄灰色の木札を取り出した。
「仮登録の有効期間は7日間。その間に低危険度の依頼を三件達成すれば、正式な木級の冒険者証へ切り替えられるわ」
【仮身分証を獲得しました】
【冒険者ギルドへの仮登録が完了しました】
【現在の冒険者等級:未定】
「この人が受けられる依頼はありますか?」
ミアが尋ねた。
受付の女性は、城門から送られた鑑定記録を取り出す。
「レベル2。基礎攻撃力9。装備は基礎攻撃力1の木の棒」
もう一度、俺を見る。
「荷運びをするにも、力が足りないかもしれないわね」
「試すことはできる」
「倉庫の穀物袋は一袋40キロあるけれど」
「それなら、やめておく」
「下水道の清掃は?」
「何がいる?」
「溝鼠、毒虫。たまにスライム」
「次」
「街の外で薬草採取」
「鎧顎狼は出るのか?」
「運が悪ければ」
「その次」
受付の女性が腕を組んだ。
「報酬が高くて、戦闘がなくて、体力も必要ない依頼を探しているの?」
「できれば、朝食も付いていると助かる」
「それは依頼ではなく慈善よ」
広間の中央にある掲示板を指す。
「自分で探しなさい」
俺は掲示板へ向かった。
百枚以上の紙が貼りつけられている。
落とし物の捜索。
商隊の護衛。
薬草採取。
魔物の駆除。
屋根の修理。
急に休んだ店員の代わりに、酒樽を運ぶ仕事。
どの紙も、本当に困っている誰かが書いたものだ。
何度も内容を修正した跡が残っているものもある。
俺が掲示板を見ると、画面が自動的に情報を読み取り始めた。
【実行可能な依頼を検出しました】
【依頼をクエスト形式へ変換しています……】
掲示板の内容が、見慣れた形式へ整理される。
【通常依頼:南部倉庫の荷物運搬】
【推奨基礎体力:15】
【報酬:銅貨8枚】
【通常依頼:第三排水路の清掃】
【推奨レベル:3】
【敵対生物が出現する可能性があります】
【報酬:銅貨25枚】
【通常依頼:止血草の採取】
【推奨レベル:1】
【推定所要時間:3時間】
【報酬:銅貨12枚】
システムが、何もないところからクエストを作ったわけではない。
掲示板に存在する現実の依頼を、俺が理解しやすい形式へ変換しただけだ。
さらに下へ視線を移す。
ほとんどの依頼は、報酬が低すぎるか、危険が大きすぎる。
そして、掲示板の一番下に貼られた紙が目に入った。
少し黄ばんでいる。
上から新しい紙を重ねられ、長い間誰にも見向きされていなかったらしい。
【特殊依頼:行方不明の鐘羽鳥を捜索する】
【依頼内容:鐘羽鳥の捜索】
【最終目撃地点:西側旧鐘楼】
【失踪期間:8日】
【報酬:銅貨30枚】
【追加報酬:達成状況に応じて決定】
【推奨レベル:明確な指定なし】
【戦闘条件:なし】
戦闘条件はない。
報酬は銅貨30枚。
ミアに借りた9枚を返しても、21枚残る。
「これだ」
俺は依頼書を掲示板から外した。
内容を見たミアの表情が変わる。
「アルカは、まだ見つかっていなかったの?」
「知っているのか?」
「暁鐘教会で飼育している鐘羽鳥よ。街の西にある村へ手紙を運んでいたの」
ミアが依頼書を受け取る。
「8日前、帰る途中で行方が分からなくなった。最後に目撃されたのは、西側の旧鐘楼へ飛び込むところよ」
「どうして誰も引き受けなかったんだ?」
「旧鐘楼の階段が崩れているの。内部に魔物はいないけれど、普通の人間は最上階まで登れない」
ミアは俺の肩にいるルゥを見た。
俺もルゥを見る。
《界索牽引》の最大距離は18メートル。
最大ストック数は4。
魔物はいない。
ただ、階段が崩れた建物。
少なくとも依頼書を信じるなら、下水道へ入るよりは安全だ。
画面も判断を表示する。
【依頼達成に利用可能な移動能力を検出しました】
【推定成功率:78%】
【危険度評価:低】
「引き受ける」
俺は依頼書を持って受付へ戻った。
受付の女性は内容を確認し、紙の下にギルドの印章を押した。
【依頼《行方不明の鐘羽鳥》を受注しました】
【クエスト目的:鐘羽鳥を発見する】
【クエスト報酬:銅貨30枚】
【失敗時ペナルティ:なし】
【現在の同行者:ミア・ルーネ】
最後の一行を見る。
「待て」
ミアが俺の表情に気づいた。
「また画面が出たの?」
「お前が同行者として登録されている」
「アルカは暁鐘教会の鐘羽鳥よ。私も行くに決まっているでしょう」
「教会へ戻って報告するんじゃなかったのか?」
「アルカを見つけることも、報告の一部よ」
ミアは俺の手から依頼書を抜き取った。
「それに、今の私はあなたの保証人でもある。仮身分証を受け取ったばかりのあなたが旧鐘楼へ入り、残っている部分まで壊したら、責任を取らされるのは私なのよ」
「自分から建物を壊したことはない」
「昨日は界索虫に岩壁へ叩き込まれて、今日は木の棒だけを持って灰鐘の森から出てきた」
「どちらも俺が自分からやったことじゃない」
「だから心配しているの」
ミアがギルドの出口へ向かう。
ルゥは俺の頭へ飛び移り、再び《界索牽引》を使えることが嬉しいのか、銀色の尾を揺らしていた。
俺も二人のあとを追う。
この世界で受けた最初の依頼は、魔物の討伐でも、街の危機を救うものでもない。
廃墟になった鐘楼へ行き、行方不明の伝書鳥を捜すだけだ。
報酬は銅貨30枚。
ゲームの中なら、依頼文を最後まで読まずに受注していたかもしれない。
だが今は、この報酬に、借金を返せるかどうかがかかっている。
次の食事を買えるか。
今夜眠る場所を確保できるか。
そのすべてが、銅貨30枚にかかっていた。
俺は、受け取ったばかりの仮登録用木札を握る。
「行こう」
まずは、この世界へ来てから最初の収入を手に入れよう。
今日も応援してくださり、本当にありがとうございます!
今日も引き続き創作に励んでいます。三日坊主にもならず、まずは一日、しっかり続けることができました。感謝、感激です!
燃え尽きることなく、これからも創作を続けていけますように。
は、は、は。




