第三章 俺が120円で買った剣には、もう持ち主がいた
目を覚ましたとき、石扉の向こうはすっかり明るくなっていた。
朝の光が斜めに《鐘待ちの間》へ差し込み、水に濡れた床へ白い長方形を描いている。
俺は見覚えのない石造りの天井を、数秒間見つめていた。
身体は消えていない。
視界に浮かぶ半透明の画面も、まだ存在している。
昨夜の出来事は、一晩眠ったからといって夢には戻らなかった。
【プレイヤー:久瀬玲司】
【レベル:2】
【職業:漂流者】
【HP:43/43】
【基礎攻撃力:9】
少なくとも、レベルアップによって回復した傷が再び開くことはなかった。
肩も、脇腹も、背中も痛まない。
捻った足首も、問題なく動かせる。
昨夜何があったのかを証明しているのは、破れた服と皮膚にこびりついた血、それから石の欠片で切れた靴底くらいだった。
脚の上で、小さなものが動く。
ルゥが俺の上着の下で丸くなっていた。
六本の細い脚で布を掴み、長い銀色の尾を身体へ巻きつけている。
固定した翅が、ときどき小さく震えた。
あまりよく眠れていないらしい。
俺は上着をそっと持ち上げた。
「朝だぞ」
「キィ……」
ルゥは、さらに深く頭を引っ込めた。
「お前も起きたくないのか」
その気持ちはよく分かる。
できることなら、俺もまだ横になっていたかった。
問題は、《鐘待ちの間》に食べ物がないことだ。
泉の水で喉の渇きはしのげる。
だが、腹は満たせない。
昨夜ゲームへログインする前に食べたのは、コンビニのおにぎり一つだけだった。
今では、胃の中が空になりすぎて痛い。
マップを開く。
【現在地:灰鐘遺跡・鐘待ちの間】
【目的地:ベルハイム】
【直線距離:17.4キロメートル】
表示されているのは方角だけ。
森の中の道、川、傾斜、出現する可能性のある魔物。
そのすべてが、未探索を示す灰色に覆われていた。
ゲームなら、歩いて3分もかからない距離だ。
今は、おそらく数時間歩かなければならない。
続いて、アイテム欄を開く。
【初級HPポーション:残量83%】
【灰鐘の欠片:1】
【界庭コアの欠片:1/3】
【黒晶:238,500個】
黒晶は、転移した直後より100個増えている。
だが、食べることもできなければ、ショップで何かを買うこともできない。
《灰鐘の欠片》の説明は、数行しかなかった。
【灰鐘の欠片】
【分類:古代構造体素材】
【品質:レア】
【鍛冶・錬金・界庭建築に使用できます】
【武器として直接使用することは推奨されません】
手のひらほどの灰色の石片を、アイテム欄から取り出した。
縁は確かに鋭い。
縄を切ったり、枝を削ったりする程度なら役に立つだろう。
だが、これを武器にして鎧顎狼と戦えば、俺の死に方にわずかな抵抗の痕跡が加わるだけだ。
《黎明の楔》の灰色のアイコンへ目を向ける。
【共鳴方向:ベルハイム】
【原型の状態:完全】
【現在の状態:装備中】
【現在の所有者:識別不能】
誰かが使っている。
俺が120円で買った最初の課金装備は、この世界ですでに誰かの武器になっていた。
「とにかく、まずはそいつに会ってみるか」
アカウント記録に残された所有権が、この世界でどんな効果を持つのかは分からない。
実際に《黎明の楔》へ触れた瞬間、システムが現在の持ち主から剣を奪う可能性もある。
もしそうなれば、むしろ話は余計に面倒になる。
画面を閉じ、ルゥにかけていた上着を持ち上げた。
「出発するぞ」
「キィ……」
ルゥが気の進まない様子で翅を広げる。
飛び上がった直後、身体が負傷している側へ大きく傾いた。
昨夜HPポーションで処置した傷は悪化していないが、翅を固定していた布が少し緩んでいる。
「無理に飛ばなくていい」
手を差し出す。
ルゥは手のひらへ降り、袖を伝って肩まで登った。
同時に、ペット画面が表示される。
【界索虫・幼体】
【レベル:2】
【戦闘能力:0】
【絆:頼れる存在】
【状態:軽傷】
【《界索牽引》最大ストック数:4】
【現在のストック数:4】
一晩休んだことで、牽引のストックはすべて回復していた。
だが、これを移動手段として使うつもりはない。
最大ストック数が4に増えていても、《界索牽引》だけで17.4キロメートルを移動するのは不可能だ。
何より、ルゥの翅はまだ治っていない。
俺は《鐘待ちの間》の出口へ向かった。
外には、下へ続く石段がある。
灰鐘の門番は、今も広場の中央で跪いていた。
六本の腕を胸の前で重ね、三対の目を閉じている。
昨夜の戦闘で生まれた亀裂が地面に残っていなければ、あの10分間が本当にあったのか疑っていたかもしれない。
五つ目の石鐘の前で足を止める。
灰鐘の門番に殴られた石鐘は、元の場所からずれていた。
その裏側には、昨夜身を隠した隙間が残っている。
乾いた血もこびりついていた。
俺の血だ。
【特殊クエスト《灰鐘の試練》:完了】
【再挑戦:現在利用できません】
「永遠に開放されなくていいぞ」
灰鐘の門番から返事はない。
俺は回廊を抜け、石段を上った。
突き当たりの岩壁は、灰白色の光の膜へ変わっている。
手のひらで触れた瞬間、通知が表示された。
【安全区域から退出します】
【外部区域には敵対生物が存在する可能性があります】
【続行しますか?】
もちろん、出たくはない。
だが、ここに残り続ければ、そのうち飢えて死ぬ。
「続行する」
身体が冷たい光の膜を抜けた。
森の匂いが押し寄せる。
木々の間から朝日が差し込んでいた。
昨夜俺を追っていた鎧顎狼の姿はない。
狼の爪に掘り返された土と、折れた枝だけが残っている。
俺はすぐには歩き出さなかった。
最初に風向きを確認する。
次に、地面の足跡を見る。
ゲームの魔物には、決められた巡回経路がある。
この世界の獣が座標に沿って同じ場所を往復するとは思えない。
だが、臭いも、糞も、足跡も残す。
少なくとも、痕跡を自動的に消す透明化能力までは実装されていないらしい。
生物図鑑が視界に表示された。
【鎧顎狼の足跡を発見しました】
【図鑑情報が更新されました】
【鎧顎狼は主に夜間活動します】
【日中は巣穴、または暗所へ戻ります】
【新規情報:広い嗅覚範囲を持ちます】
「思っていたより使えるな、この機能」
ルゥが肩の上で身体を起こし、尾を南東へ向けた。
マップ上のベルハイムも同じ方角にある。
俺は地面から丈夫そうな枝を拾い、《灰鐘の欠片》で余分な枝を削り落とした。
【簡易棍棒を獲得しました】
【基礎攻撃力:1】
【耐久度:6/6】
装備すると、攻撃力の表示が変化した。
【基礎攻撃力:9+1】
合計10。
ようやく二桁だ。
それでも、基礎攻撃力31の鎧顎狼には勝てない。
棍棒を握り、慎重に森の外へ向かう。
最初の1時間、戦闘は起きなかった。
それは喜ぶべきことだろう。
だが、歩くこと自体が想像していたよりも大変だった。
マップに表示される直線は、道ではない。
目の前に急斜面があれば、迂回しなければならない。
川を渡れなければ、流れに沿って浅い場所を探す必要がある。
ゲームでは地面の飾りだった茨も、今は本当にズボンへ引っかかった。
2キロメートルも進まないうちに、靴の中は泥と細かい石でいっぱいになった。
ルゥは、ときどき上空へ飛んで方角を確認する。
それ以外の時間は、体力を温存するために肩へ伏せていた。
鎧顎狼が残した臭いの痕跡を二か所避けた。
手のひらほどの大きさしかない、四つ耳の灰色兎の群れも発見した。
システムが表示した名前は、風聴兎。
レベル1。
基礎攻撃力2。
危険度は極めて低い。
俺は数秒間、その群れを見つめた。
一羽でも倒せば、少なくとも今日の食事は確保できる。
風聴兎たちも俺に気づいた。
四つの耳が同時に立ち上がる。
ルゥが肩の上で身体を起こした。
俺は棍棒を握り直す。
しばらく、互いに見つめ合った。
先に動いたのは兎たちだった。
灰色の身体が草むらへ消えていく。
俺は追わなかった。
魔物に対して急に余計な同情心が芽生えたわけではない。
今の体力で見知らぬ茂みへ追いかければ、子供を守る成体か、兎を狙って待ち伏せしている別の魔物に遭遇する可能性が高い。
空腹に負けて低レベルの魔物を追い、隠れていた高レベルの魔物に食われる。
攻略掲示板なら、《基本的な危機管理能力の欠如》に分類される死に方だ。
【マップ探索率:0.3%】
【生物図鑑に《風聴兎》を登録しました】
【少量の探索経験値を獲得しました】
レベルは上がらない。
兎を見つけた程度で、朝食を買えるだけの金貨が手に入ることもなかった。
この世界は相変わらず、残念なほど合理的だ。
さらに30分ほど進むと、前方に何度も車輪が通った跡を見つけた。
人の手で作られた道。
道の両側には、腐りかけた木の杭も並んでいる。
その一本には、朝の鐘をかたどった紋章が刻まれていた。
マップが更新される。
【街道《ベルハイム旧巡礼路》を発見しました】
【街道に沿って進むことでベルハイムへ到達できます】
少なくとも、森の中で方角を判断し続ける必要はなくなった。
安堵した直後、ルゥの尾がまっすぐに立った。
「どうした?」
「キィ」
ルゥは街道の向こう側を見ている。
やがて、俺にも音が聞こえた。
獣の唸り声ではない。
金属同士が触れ合う、小さな音。
誰かが近づいている。
俺は反射的に木の陰へ下がり、棍棒を握った。
相手が盗賊なら、今の戦闘力では、持ち物を差し出す機会さえ与えられないかもしれない。
足音が次第に近づく。
しばらくして、一人の人影が街道の曲がり角から現れた。
俺と同じくらいか、少し年下に見える女性だった。
淡い金色の髪を、動きやすい位置で一つに束ねている。
外套は短く、色は灰白色。
胸元には、ベルハイムの暁鐘を表す紋章が刺繍されていた。
背中には、薬草で満たされた革袋。
腰には、一本の金色の長剣。
その剣を見た瞬間、画面が自動的に開いた。
【課金装備に対応する原型を検出しました】
【対象:《黎明の楔》】
【距離:12.7メートル】
俺の足が止まる。
呼吸することさえ忘れかけた。
その剣は、ゲームで見た《黎明の楔》と完全に同じではなかった。
鞘には、何度も修復された跡が残っている。
柄には、古くなった白い革紐が巻かれていた。
鍔の中央に嵌め込まれた金色の宝石も、光を失いかけている。
課金パックから受け取ったばかりの、強化レベル1の装備ではない。
この世界で、長い時間を過ごしてきた剣だ。
相手も俺に気づいた。
街道の中央で足を止める。
すぐに剣を抜くことはなかったが、右手はすでに柄へ置かれている。
「木の陰から出てきなさい」
落ち着いた声だった。
「もう見えているわ」
言葉は理解できた。
翻訳画面は表示されない。
聞き覚えのない発音でもなかった。
ゲーム内でフルボイスだった人物たちと、同じように聞こえる。
俺は棍棒を下げたまま、ゆっくりと木の陰から出た。
女性は最初に、破れた服を見た。
次に、泥だらけの靴。
最後に、肩にいるルゥへ視線を向ける。
警戒していた表情が、わずかに変化した。
「界索虫?」
「知っているのか?」
「先に私の質問へ答えて」
剣の柄から手を離さない。
「なぜ灰鐘の森の奥から出てきたの?」
答えるのが難しい質問だった。
午前3時にゲームの更新で森へ転移し、狼に追われて灰鐘遺跡へ入り、誰もクリアできなかった試練を受けてきた。
そんなことを言えば、俺が説明を終えるより先に剣を抜かれるだろう。
「迷った」
女性は無言で俺を見た。
「迷った人間は、灰鐘の森の奥から出てこないわ」
「かなり本格的に迷ったらしい」
さらに疑わしそうな顔をされた。
自分でも、まったく説得力がないと思う。
「少なくとも、敵意はない」
「街へ近づこうとする不審者は、全員そう言うわ」
「なら、何と言えばいい?」
「名前と出身地。それから、森へ入った目的」
「久瀬玲司。出身地は……」
一度言葉を止める。
日本と言っても意味はない。
異世界から来たと言えば、さらに意味がなくなる。
「今は証明できない」
女性の指が、剣の柄へかかる。
空気が張り詰めた。
そのとき、ルゥが俺の肩から飛び立った。
負傷した翅では、うまく姿勢を保てない。
身体が片側へ傾き、そのまま地面へ落ちかけた。
俺は両手で受け止めた。
女性の視線が、翅に巻かれた布へ向けられる。
「怪我をしているの?」
「昨日からだ」
「何で処置したの?」
「HP……いや、生命薬だ」
危うくゲーム内の名称をそのまま口にするところだった。
だが、女性は不自然には思わなかったらしい。
「生命薬を界索虫に?」
「種族適合率が23%しかなかった。だから飲ませず、傷を洗っただけだ」
女性が、初めて明確に驚いた表情を見せた。
「薬の種族適合率が分かるの?」
「大まかな数値が見えるだけだ」
曖昧に答える。
女性の視線が、もう一度俺へ戻った。
今度は警戒だけでなく、観察するような色も混じっている。
彼女は剣の柄から手を離し、腰の小袋から平たい木箱を取り出した。
「翅を見せて」
俺はすぐにはルゥを渡さなかった。
迷いに気づいた女性が、先に木箱を開く。
中には、淡い黄色の軟膏が入っていた。
「飛行する魔物の外傷に使う薬よ。甲殻を傷める成分も、麻痺毒も入っていない」
画面が軟膏の情報を読み取る。
【風棲軟膏】
【品質:ノーマル】
【適用対象:鳥類・昆虫類・一部小型魔物】
【対象種族適合率:81%】
毒性は検出されない。
俺はルゥを手のひらへ乗せた。
「頼む」
女性が近づく。
距離が縮まるたびに、《黎明の楔》のアイコンが点滅した。
【距離:5.2メートル】
【距離:3.1メートル】
【現在の所持者を識別しています……】
女性はルゥの翅から布を外した。
裂けた部分を見ると、少し眉を寄せる。
「傷は浅くない。包帯の巻き方もひどいわね」
「虫の翅に包帯を巻いたのは初めてだ」
「見れば分かる」
「それでも二回噛まれた」
「噛む元気が残っていたなら、悪いことではないわ」
ルゥが反応する。
「キィ」
女性は細い木片で軟膏を取り、翅の付け根へ塗った。
ルゥがすぐに暴れ始める。
俺は二本の指で身体を軽く押さえた。
「少し我慢しろ」
「キィ!」
「昨日、俺を壁へ叩きつけたときは、そんなに優しくなかっただろ」
女性が顔を上げ、俺を見た。
「この子に壁へ叩きつけられたの?」
「長い話になる」
「あまり自慢できる話には聞こえないけれど」
「俺も自慢するつもりはない」
軟膏を塗り終えると、女性は細く柔らかな布を取り出し、翅を固定し直した。
【界索虫の状態が更新されました】
【軽傷→回復中】
ルゥが試しに翅を動かす。
今度は、身体がすぐに片側へ傾くことはなかった。
女性の周囲を半周飛び、俺の肩へ戻ってくる。
「キィ」
「礼を言ってる」
「分かるの?」
「分からない」
俺は答えた。
「ただ、こいつが礼を言うときは、だいたいこういう態度になる」
女性は木箱を閉じた。
「ミア・ルーネ」
「何が?」
「私の名前」
彼女は立ち上がった。
「ベルハイム暁鐘教会所属の見習い鐘騎士。ベルハイムへ入りたいなら、私と一緒に来なさい」
画面が、ようやく識別を終えた。
【ミア・ルーネ】
【レベル:12】
【職業:見習い鐘騎士】
【基礎攻撃力:86】
【現在の関係:警戒】
【《黎明の楔》の原型所持者】
間違いない。
俺が120円で買った剣は、ミアの腰にある。
そして、今の所持者の基礎攻撃力は、俺の九倍以上。
《剣を抜かぬ攻略者》の称号効果を加えても、棍棒一本で戦った結果が大きく変わるとは思えなかった。
「さっきから、私の剣ばかり見ているわね」
ミアが突然言った。
「そうか?」
「私が姿を見せてから、もう十二回見た」
数えていたのか。
「少し見覚えがあっただけだ」
ミアの手が、再び剣の柄へ置かれる。
「どこで見たの?」
画面の中。
十二年前の120円パック。
倉庫の一番下に並んだ、環境から外れた装備の中。
どれを答えても、挑発にしか聞こえない。
「よく似た剣と間違えたのかもしれない」
「同じ型の剣は存在しないわ」
ミアは俺の目を見た。
「この剣は《黎明の楔》。ルーネ家が三代にわたって守ってきたものよ」
三代。
俺は何も言えなかった。
ゲームの《黎明の楔》は、サービス開始時の初回購入特典にすぎない。
俺にとっての歴史は、十二年前に支払った120円から始まっている。
だが、この世界では、一つの家族が三代にわたって受け継いできた。
ミアが背を向ける。
「行きましょう。日が完全に昇るまでは、森の霧もそれほど濃くならない」
それ以上、彼女は質問しなかった。
だが俺は、安心するべきなのか、さらに頭を抱えるべきなのか分からない。
新しい通知が表示された。
【課金装備《黎明の楔》に対応する原型へ接触しました】
【所有権の認証が完了しました】
【アカウント所有者:久瀬玲司】
【現在の所持者:ミア・ルーネ】
【所有権の競合を検出しました】
俺は足を止めた。
その下に、新しい選択肢が展開される。
【利用可能な処理方法】
【一、現在の所持者による自発的な譲渡】
【二、原型の承認を得て所有権を継承】
【三、購入所有権を消費し、現在の帰属を強制上書き】
【警告:強制上書きは、原型の記憶および既存の契約を損傷する可能性があります】
俺の手は、三つ目の選択肢の前で止まった。
押せば、《黎明の楔》は俺の武器になるかもしれない。
戦う必要はない。
金を支払う必要もない。
ミアの許可さえ必要ない。
十二年前の購入履歴だけで、三代にわたって受け継がれてきたものを奪える。
「どうしたの?」
ミアが振り返った。
「何でもない」
俺は選択肢を閉じた。
ミアはまだこちらを見ている。
「本当に?」
「見たくないときに限って表示される、ひどく迷惑な画面が出てきただけだ」
「画面?」
「一番見たくないときに現れるものだと思ってくれ」
理解してはいないだろう。
それでもミアは、それ以上尋ねなかった。
俺たちは旧巡礼路に沿って、ベルハイムへ向かった。
森を抜けると、視界が一気に開ける。
遠くに、城壁で囲まれた建物の集まりが見えた。
最も高い場所に建っているのは、白い鐘楼。
朝日が鐘楼の頂上へ落ち、巨大な鐘を金色に染めている。
ベルハイム。
ゲームでは、数えきれないほど通過した街だ。
クエストを受ける。
素材を納品する。
装備を鑑定する。
アップデートで転移機能が追加されてからは、新手エリア全体を飛ばすために利用するだけの場所になった。
だが、それが本当に遠くへ現れたとき、俺は足を止めていた。
城壁は、ゲーム画面で見たものの数倍高い。
城外には畑と風車が広がり、家々も点在している。
荷物を積んだ馬車が街道をゆっくりと進み、城門の前には検査を待つ人々の列ができていた。
ゲームのマップでは数区画しかなかった初心者都市が、現実では数えきれない建物を内側に抱えている。
ミアが、立ち止まった俺に気づいた。
「ベルハイムへ来たことがないの?」
「来たことはある」
数えきれないほど。
「記憶にある姿と、少し違うだけだ」
「やっぱり記憶を失っているの?」
「今のところ、その説明が一番便利かもしれない」
ミアが眉を寄せる。
「記憶喪失は、説明を便利にするために発症する病気ではないわ」
「分かってる」
「分かっている顔には見えないけれど」
俺たちは列の最後尾へ並んだ。
ルゥが肩から頭を出し、周囲を興味深そうに見回している。
何人かがルゥに気づき、驚いた表情を見せた。
それでも、魔物を見たように武器を抜く者はいない。
俺たちの順番が来る。
門を守る兵士は、最初にミアへ軽く頭を下げた。
「ルーネさん。今日は随分早いお帰りですね」
「北側林地の風棲草は採集し終えました。それから、この人を旧巡礼路の近くで見つけました。身分を証明するものを持っていません」
兵士が俺を見る。
破れた服。
泥だらけの木の棒。
そして、肩に乗った界索虫。
その表情は、すぐに分かりやすい疑いへ変わった。
「名前は?」
「久瀬玲司」
「職業」
「漂流者」
「出身地」
「分からない」
兵士がミアを見る。
「本人は、記憶喪失かもしれないと言っています」
ミアが補足した。
「かもしれない?」
「本人があまり真剣ではないので」
「おい」
兵士はため息をつき、腰からルーンの刻まれた銅鏡を取り出した。
「手を置け」
鑑定用の道具だ。
言われたとおり、手のひらを鏡面へ置く。
淡い青色の光が、手から全身へ向かって走った。
銅鏡の表面に、数行の文字が浮かぶ。
【レベル:2】
【職業:漂流者】
【基礎攻撃力:9】
【犯罪記録:なし】
【所属:なし】
兵士は《基礎攻撃力:9》を数秒間見つめた。
続いて、俺が持つ棍棒へ目を向ける。
「それだけで、灰鐘の森から出てきたのか?」
「正確に言えば、ほとんど逃げていただけだ」
「その数字には相応しい戦い方だな」
正論だった。
反論できない。
銅鏡に表示されたのは、基礎能力だけだった。
称号も、ペットシステムも表示されていない。
鑑定結果の画面は、まるでVer.1.0当時のキャラクター画面そのものだった。
俺の面板に保存されている十二バージョン分の機能は、通常の鑑定術では確認できないらしい。
少なくとも、今のところは。
兵士が銅鏡をしまう。
「仮入城料は銅貨3枚だ」
銅貨は持っていない。
アカウントにあるのは、238,500個の黒晶だけだ。
ゲームでは、黒晶一つでも大量の金貨へ交換できた。
だが、今はショップへ接続できず、通貨交換機能も開放されていない。
俺はミアを見た。
ミアも俺を見る。
「まさか、銅貨3枚も持っていないの?」
「見ることしかできなくて、使えないのに、数字だけは安心できるほど大量にある通貨なら持っている」
「つまり、持っていないのね」
「持ってない」
ミアは財布から銅貨を3枚取り出し、兵士の前へ置いた。
「貸しにしておくわ」
「返す」
「そうして」
兵士が道を空けた。
俺はミアに続いて城門を通る。
新しい通知が表示された。
【都市を発見しました】
【マップ情報を更新しています】
【冒険者ギルドを登録しました】
【鍛冶屋を登録しました】
【中央広場を登録しました】
【暁鐘教会を登録しました】
【多数の未登録クエストを検出しました】
視界の端に、十個以上の感嘆符が一斉に現れた。
俺はすぐにすべて閉じた。
ミアが振り返る。
「今度は何を見ているの?」
「別の種類の、迷惑な画面だ」
「よくそういうものが見えるの?」
「今日からは、さらに増える気がする」
街路の両側では、すでに店が開き始めていた。
少し先から、焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。
俺の腹が、すぐに反応した。
ミアにもはっきり聞こえたらしい。
彼女は俺を見てから、肩のルゥへ目を向けた。
「まずは冒険者ギルドへ行くわよ」
「暁鐘教会じゃないのか?」
「身分不明の人間が、私の家の剣を十二回も見ていたのよ。そんな人を、いきなり教会へ連れていくと思う?」
正しい判断だ。
「ギルドなら仮の身分証を発行できるし、最低ランクの依頼も紹介してもらえる。まずは宿代と食費くらい、自分で稼ぎなさい」
「借りた銅貨3枚もだな」
「覚えているなら結構よ」
ミアが再び歩き始める。
腰の《黎明の楔》が、歩調に合わせて小さく揺れた。
所有権を示す通知は、まだ視界の隅に残っている。
【現在の所持者:ミア・ルーネ】
【アカウント所有者:久瀬玲司】
二つの名前が、同じ場所へ並んでいた。
どちらか一方が、自動的に消えることはない。
システムの上では、あの剣は俺のものだ。
この世界では、ミアと、その家族のものだ。
俺が120円で買ったものは、もうメールから受け取るだけのアイテムではなかった。
過去を持っている。
現在の持ち主がいる。
もしかすると、次に誰を持ち主とするのか、自分で選ぶ権利さえあるのかもしれない。
俺はミアのあとを追った。
少なくとも、それを確かめるまでは、《強制上書き》を押すつもりはない。
三代にわたって受け継がれた家宝を、身分証もなく、出会ったばかりで、しかも銅貨3枚を借りている男へ、自分から譲ってもらう。
それが可能かどうかについては――
灰鐘の門番を攻略するより、難しいかもしれなかった。




