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バージョン・ブレイカー ~俺のステータスだけが十二バージョン先にある~  作者: ひろい海


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3/7

第三章 俺が120円で買った剣には、もう持ち主がいた

目を覚ましたとき、石扉の向こうはすっかり明るくなっていた。


朝の光が斜めに《鐘待ちの間》へ差し込み、水に濡れた床へ白い長方形を描いている。


俺は見覚えのない石造りの天井を、数秒間見つめていた。


身体は消えていない。


視界に浮かぶ半透明の画面も、まだ存在している。


昨夜の出来事は、一晩眠ったからといって夢には戻らなかった。


【プレイヤー:久瀬玲司】


【レベル:2】


【職業:漂流者】


【HP:43/43】


【基礎攻撃力:9】


少なくとも、レベルアップによって回復した傷が再び開くことはなかった。


肩も、脇腹も、背中も痛まない。


捻った足首も、問題なく動かせる。


昨夜何があったのかを証明しているのは、破れた服と皮膚にこびりついた血、それから石の欠片で切れた靴底くらいだった。


脚の上で、小さなものが動く。


ルゥが俺の上着の下で丸くなっていた。


六本の細い脚で布を掴み、長い銀色の尾を身体へ巻きつけている。


固定した翅が、ときどき小さく震えた。


あまりよく眠れていないらしい。


俺は上着をそっと持ち上げた。


「朝だぞ」


「キィ……」


ルゥは、さらに深く頭を引っ込めた。


「お前も起きたくないのか」


その気持ちはよく分かる。


できることなら、俺もまだ横になっていたかった。


問題は、《鐘待ちの間》に食べ物がないことだ。


泉の水で喉の渇きはしのげる。


だが、腹は満たせない。


昨夜ゲームへログインする前に食べたのは、コンビニのおにぎり一つだけだった。


今では、胃の中が空になりすぎて痛い。


マップを開く。


【現在地:灰鐘遺跡・鐘待ちの間】


【目的地:ベルハイム】


【直線距離:17.4キロメートル】


表示されているのは方角だけ。


森の中の道、川、傾斜、出現する可能性のある魔物。


そのすべてが、未探索を示す灰色に覆われていた。


ゲームなら、歩いて3分もかからない距離だ。


今は、おそらく数時間歩かなければならない。


続いて、アイテム欄を開く。


【初級HPポーション:残量83%】


【灰鐘の欠片:1】


【界庭コアの欠片:1/3】


【黒晶:238,500個】


黒晶は、転移した直後より100個増えている。


だが、食べることもできなければ、ショップで何かを買うこともできない。


《灰鐘の欠片》の説明は、数行しかなかった。


【灰鐘の欠片】


【分類:古代構造体素材】


【品質:レア】


【鍛冶・錬金・界庭建築に使用できます】


【武器として直接使用することは推奨されません】


手のひらほどの灰色の石片を、アイテム欄から取り出した。


縁は確かに鋭い。


縄を切ったり、枝を削ったりする程度なら役に立つだろう。


だが、これを武器にして鎧顎狼と戦えば、俺の死に方にわずかな抵抗の痕跡が加わるだけだ。


《黎明の楔》の灰色のアイコンへ目を向ける。


【共鳴方向:ベルハイム】


【原型の状態:完全】


【現在の状態:装備中】


【現在の所有者:識別不能】


誰かが使っている。


俺が120円で買った最初の課金装備は、この世界ですでに誰かの武器になっていた。


「とにかく、まずはそいつに会ってみるか」


アカウント記録に残された所有権が、この世界でどんな効果を持つのかは分からない。


実際に《黎明の楔》へ触れた瞬間、システムが現在の持ち主から剣を奪う可能性もある。


もしそうなれば、むしろ話は余計に面倒になる。


画面を閉じ、ルゥにかけていた上着を持ち上げた。


「出発するぞ」


「キィ……」


ルゥが気の進まない様子で翅を広げる。


飛び上がった直後、身体が負傷している側へ大きく傾いた。


昨夜HPポーションで処置した傷は悪化していないが、翅を固定していた布が少し緩んでいる。


「無理に飛ばなくていい」


手を差し出す。


ルゥは手のひらへ降り、袖を伝って肩まで登った。


同時に、ペット画面が表示される。


【界索虫・幼体】


【レベル:2】


【戦闘能力:0】


【絆:頼れる存在】


【状態:軽傷】


【《界索牽引》最大ストック数:4】


【現在のストック数:4】


一晩休んだことで、牽引のストックはすべて回復していた。


だが、これを移動手段として使うつもりはない。


最大ストック数が4に増えていても、《界索牽引》だけで17.4キロメートルを移動するのは不可能だ。


何より、ルゥの翅はまだ治っていない。


俺は《鐘待ちの間》の出口へ向かった。


外には、下へ続く石段がある。


灰鐘の門番は、今も広場の中央で跪いていた。


六本の腕を胸の前で重ね、三対の目を閉じている。


昨夜の戦闘で生まれた亀裂が地面に残っていなければ、あの10分間が本当にあったのか疑っていたかもしれない。


五つ目の石鐘の前で足を止める。


灰鐘の門番に殴られた石鐘は、元の場所からずれていた。


その裏側には、昨夜身を隠した隙間が残っている。


乾いた血もこびりついていた。


俺の血だ。


【特殊クエスト《灰鐘の試練》:完了】


【再挑戦:現在利用できません】


「永遠に開放されなくていいぞ」


灰鐘の門番から返事はない。


俺は回廊を抜け、石段を上った。


突き当たりの岩壁は、灰白色の光の膜へ変わっている。


手のひらで触れた瞬間、通知が表示された。


【安全区域から退出します】


【外部区域には敵対生物が存在する可能性があります】


【続行しますか?】


もちろん、出たくはない。


だが、ここに残り続ければ、そのうち飢えて死ぬ。


「続行する」


身体が冷たい光の膜を抜けた。


森の匂いが押し寄せる。


木々の間から朝日が差し込んでいた。


昨夜俺を追っていた鎧顎狼の姿はない。


狼の爪に掘り返された土と、折れた枝だけが残っている。


俺はすぐには歩き出さなかった。


最初に風向きを確認する。


次に、地面の足跡を見る。


ゲームの魔物には、決められた巡回経路がある。


この世界の獣が座標に沿って同じ場所を往復するとは思えない。


だが、臭いも、糞も、足跡も残す。


少なくとも、痕跡を自動的に消す透明化能力までは実装されていないらしい。


生物図鑑が視界に表示された。


【鎧顎狼の足跡を発見しました】


【図鑑情報が更新されました】


【鎧顎狼は主に夜間活動します】


【日中は巣穴、または暗所へ戻ります】


【新規情報:広い嗅覚範囲を持ちます】


「思っていたより使えるな、この機能」


ルゥが肩の上で身体を起こし、尾を南東へ向けた。


マップ上のベルハイムも同じ方角にある。


俺は地面から丈夫そうな枝を拾い、《灰鐘の欠片》で余分な枝を削り落とした。


【簡易棍棒を獲得しました】


【基礎攻撃力:1】


【耐久度:6/6】


装備すると、攻撃力の表示が変化した。


【基礎攻撃力:9+1】


合計10。


ようやく二桁だ。


それでも、基礎攻撃力31の鎧顎狼には勝てない。


棍棒を握り、慎重に森の外へ向かう。


最初の1時間、戦闘は起きなかった。


それは喜ぶべきことだろう。


だが、歩くこと自体が想像していたよりも大変だった。


マップに表示される直線は、道ではない。


目の前に急斜面があれば、迂回しなければならない。


川を渡れなければ、流れに沿って浅い場所を探す必要がある。


ゲームでは地面の飾りだった茨も、今は本当にズボンへ引っかかった。


2キロメートルも進まないうちに、靴の中は泥と細かい石でいっぱいになった。


ルゥは、ときどき上空へ飛んで方角を確認する。


それ以外の時間は、体力を温存するために肩へ伏せていた。


鎧顎狼が残した臭いの痕跡を二か所避けた。


手のひらほどの大きさしかない、四つ耳の灰色兎の群れも発見した。


システムが表示した名前は、風聴兎(ふうちょううさぎ)。


レベル1。


基礎攻撃力2。


危険度は極めて低い。


俺は数秒間、その群れを見つめた。


一羽でも倒せば、少なくとも今日の食事は確保できる。


風聴兎たちも俺に気づいた。


四つの耳が同時に立ち上がる。


ルゥが肩の上で身体を起こした。


俺は棍棒を握り直す。


しばらく、互いに見つめ合った。


先に動いたのは兎たちだった。


灰色の身体が草むらへ消えていく。


俺は追わなかった。


魔物に対して急に余計な同情心が芽生えたわけではない。


今の体力で見知らぬ茂みへ追いかければ、子供を守る成体か、兎を狙って待ち伏せしている別の魔物に遭遇する可能性が高い。


空腹に負けて低レベルの魔物を追い、隠れていた高レベルの魔物に食われる。


攻略掲示板なら、《基本的な危機管理能力の欠如》に分類される死に方だ。


【マップ探索率:0.3%】


【生物図鑑に《風聴兎》を登録しました】


【少量の探索経験値を獲得しました】


レベルは上がらない。


兎を見つけた程度で、朝食を買えるだけの金貨が手に入ることもなかった。


この世界は相変わらず、残念なほど合理的だ。


さらに30分ほど進むと、前方に何度も車輪が通った跡を見つけた。


人の手で作られた道。


道の両側には、腐りかけた木の杭も並んでいる。


その一本には、朝の鐘をかたどった紋章が刻まれていた。


マップが更新される。


【街道《ベルハイム旧巡礼路》を発見しました】


【街道に沿って進むことでベルハイムへ到達できます】


少なくとも、森の中で方角を判断し続ける必要はなくなった。


安堵した直後、ルゥの尾がまっすぐに立った。


「どうした?」


「キィ」


ルゥは街道の向こう側を見ている。


やがて、俺にも音が聞こえた。


獣の唸り声ではない。


金属同士が触れ合う、小さな音。


誰かが近づいている。


俺は反射的に木の陰へ下がり、棍棒を握った。


相手が盗賊なら、今の戦闘力では、持ち物を差し出す機会さえ与えられないかもしれない。


足音が次第に近づく。


しばらくして、一人の人影が街道の曲がり角から現れた。


俺と同じくらいか、少し年下に見える女性だった。


淡い金色の髪を、動きやすい位置で一つに束ねている。


外套は短く、色は灰白色。


胸元には、ベルハイムの暁鐘を表す紋章が刺繍されていた。


背中には、薬草で満たされた革袋。


腰には、一本の金色の長剣。


その剣を見た瞬間、画面が自動的に開いた。


【課金装備に対応する原型を検出しました】


【対象:《黎明の楔》】


【距離:12.7メートル】


俺の足が止まる。


呼吸することさえ忘れかけた。


その剣は、ゲームで見た《黎明の楔》と完全に同じではなかった。


鞘には、何度も修復された跡が残っている。


柄には、古くなった白い革紐が巻かれていた。


鍔の中央に嵌め込まれた金色の宝石も、光を失いかけている。


課金パックから受け取ったばかりの、強化レベル1の装備ではない。


この世界で、長い時間を過ごしてきた剣だ。


相手も俺に気づいた。


街道の中央で足を止める。


すぐに剣を抜くことはなかったが、右手はすでに柄へ置かれている。


「木の陰から出てきなさい」


落ち着いた声だった。


「もう見えているわ」


言葉は理解できた。


翻訳画面は表示されない。


聞き覚えのない発音でもなかった。


ゲーム内でフルボイスだった人物たちと、同じように聞こえる。


俺は棍棒を下げたまま、ゆっくりと木の陰から出た。


女性は最初に、破れた服を見た。


次に、泥だらけの靴。


最後に、肩にいるルゥへ視線を向ける。


警戒していた表情が、わずかに変化した。


「界索虫?」


「知っているのか?」


「先に私の質問へ答えて」


剣の柄から手を離さない。


「なぜ灰鐘の森の奥から出てきたの?」


答えるのが難しい質問だった。


午前3時にゲームの更新で森へ転移し、狼に追われて灰鐘遺跡へ入り、誰もクリアできなかった試練を受けてきた。


そんなことを言えば、俺が説明を終えるより先に剣を抜かれるだろう。


「迷った」


女性は無言で俺を見た。


「迷った人間は、灰鐘の森の奥から出てこないわ」


「かなり本格的に迷ったらしい」


さらに疑わしそうな顔をされた。


自分でも、まったく説得力がないと思う。


「少なくとも、敵意はない」


「街へ近づこうとする不審者は、全員そう言うわ」


「なら、何と言えばいい?」


「名前と出身地。それから、森へ入った目的」


「久瀬玲司。出身地は……」


一度言葉を止める。


日本と言っても意味はない。


異世界から来たと言えば、さらに意味がなくなる。


「今は証明できない」


女性の指が、剣の柄へかかる。


空気が張り詰めた。


そのとき、ルゥが俺の肩から飛び立った。


負傷した翅では、うまく姿勢を保てない。


身体が片側へ傾き、そのまま地面へ落ちかけた。


俺は両手で受け止めた。


女性の視線が、翅に巻かれた布へ向けられる。


「怪我をしているの?」


「昨日からだ」


「何で処置したの?」


「HP……いや、生命薬だ」


危うくゲーム内の名称をそのまま口にするところだった。


だが、女性は不自然には思わなかったらしい。


「生命薬を界索虫に?」


「種族適合率が23%しかなかった。だから飲ませず、傷を洗っただけだ」


女性が、初めて明確に驚いた表情を見せた。


「薬の種族適合率が分かるの?」


「大まかな数値が見えるだけだ」


曖昧に答える。


女性の視線が、もう一度俺へ戻った。


今度は警戒だけでなく、観察するような色も混じっている。


彼女は剣の柄から手を離し、腰の小袋から平たい木箱を取り出した。


「翅を見せて」


俺はすぐにはルゥを渡さなかった。


迷いに気づいた女性が、先に木箱を開く。


中には、淡い黄色の軟膏が入っていた。


「飛行する魔物の外傷に使う薬よ。甲殻を傷める成分も、麻痺毒も入っていない」


画面が軟膏の情報を読み取る。


【風棲軟膏】


【品質:ノーマル】


【適用対象:鳥類・昆虫類・一部小型魔物】


【対象種族適合率:81%】


毒性は検出されない。


俺はルゥを手のひらへ乗せた。


「頼む」


女性が近づく。


距離が縮まるたびに、《黎明の楔》のアイコンが点滅した。


【距離:5.2メートル】


【距離:3.1メートル】


【現在の所持者を識別しています……】


女性はルゥの翅から布を外した。


裂けた部分を見ると、少し眉を寄せる。


「傷は浅くない。包帯の巻き方もひどいわね」


「虫の翅に包帯を巻いたのは初めてだ」


「見れば分かる」


「それでも二回噛まれた」


「噛む元気が残っていたなら、悪いことではないわ」


ルゥが反応する。


「キィ」


女性は細い木片で軟膏を取り、翅の付け根へ塗った。


ルゥがすぐに暴れ始める。


俺は二本の指で身体を軽く押さえた。


「少し我慢しろ」


「キィ!」


「昨日、俺を壁へ叩きつけたときは、そんなに優しくなかっただろ」


女性が顔を上げ、俺を見た。


「この子に壁へ叩きつけられたの?」


「長い話になる」


「あまり自慢できる話には聞こえないけれど」


「俺も自慢するつもりはない」


軟膏を塗り終えると、女性は細く柔らかな布を取り出し、翅を固定し直した。


【界索虫の状態が更新されました】


【軽傷→回復中】


ルゥが試しに翅を動かす。


今度は、身体がすぐに片側へ傾くことはなかった。


女性の周囲を半周飛び、俺の肩へ戻ってくる。


「キィ」


「礼を言ってる」


「分かるの?」


「分からない」


俺は答えた。


「ただ、こいつが礼を言うときは、だいたいこういう態度になる」


女性は木箱を閉じた。


「ミア・ルーネ」


「何が?」


「私の名前」


彼女は立ち上がった。


「ベルハイム暁鐘教会所属の見習い鐘騎士。ベルハイムへ入りたいなら、私と一緒に来なさい」


画面が、ようやく識別を終えた。


【ミア・ルーネ】


【レベル:12】


【職業:見習い鐘騎士】


【基礎攻撃力:86】


【現在の関係:警戒】


【《黎明の楔》の原型所持者】


間違いない。


俺が120円で買った剣は、ミアの腰にある。


そして、今の所持者の基礎攻撃力は、俺の九倍以上。


《剣を抜かぬ攻略者》の称号効果を加えても、棍棒一本で戦った結果が大きく変わるとは思えなかった。


「さっきから、私の剣ばかり見ているわね」


ミアが突然言った。


「そうか?」


「私が姿を見せてから、もう十二回見た」


数えていたのか。


「少し見覚えがあっただけだ」


ミアの手が、再び剣の柄へ置かれる。


「どこで見たの?」


画面の中。


十二年前の120円パック。


倉庫の一番下に並んだ、環境から外れた装備の中。


どれを答えても、挑発にしか聞こえない。


「よく似た剣と間違えたのかもしれない」


「同じ型の剣は存在しないわ」


ミアは俺の目を見た。


「この剣は《黎明の楔》。ルーネ家が三代にわたって守ってきたものよ」


三代。


俺は何も言えなかった。


ゲームの《黎明の楔》は、サービス開始時の初回購入特典にすぎない。


俺にとっての歴史は、十二年前に支払った120円から始まっている。


だが、この世界では、一つの家族が三代にわたって受け継いできた。


ミアが背を向ける。


「行きましょう。日が完全に昇るまでは、森の霧もそれほど濃くならない」


それ以上、彼女は質問しなかった。


だが俺は、安心するべきなのか、さらに頭を抱えるべきなのか分からない。


新しい通知が表示された。


【課金装備《黎明の楔》に対応する原型へ接触しました】


【所有権の認証が完了しました】


【アカウント所有者:久瀬玲司】


【現在の所持者:ミア・ルーネ】


【所有権の競合を検出しました】


俺は足を止めた。


その下に、新しい選択肢が展開される。


【利用可能な処理方法】


【一、現在の所持者による自発的な譲渡】


【二、原型の承認を得て所有権を継承】


【三、購入所有権を消費し、現在の帰属を強制上書き】


【警告:強制上書きは、原型の記憶および既存の契約を損傷する可能性があります】


俺の手は、三つ目の選択肢の前で止まった。


押せば、《黎明の楔》は俺の武器になるかもしれない。


戦う必要はない。


金を支払う必要もない。


ミアの許可さえ必要ない。


十二年前の購入履歴だけで、三代にわたって受け継がれてきたものを奪える。


「どうしたの?」


ミアが振り返った。


「何でもない」


俺は選択肢を閉じた。


ミアはまだこちらを見ている。


「本当に?」


「見たくないときに限って表示される、ひどく迷惑な画面が出てきただけだ」


「画面?」


「一番見たくないときに現れるものだと思ってくれ」


理解してはいないだろう。


それでもミアは、それ以上尋ねなかった。


俺たちは旧巡礼路に沿って、ベルハイムへ向かった。


森を抜けると、視界が一気に開ける。


遠くに、城壁で囲まれた建物の集まりが見えた。


最も高い場所に建っているのは、白い鐘楼。


朝日が鐘楼の頂上へ落ち、巨大な鐘を金色に染めている。


ベルハイム。


ゲームでは、数えきれないほど通過した街だ。


クエストを受ける。


素材を納品する。


装備を鑑定する。


アップデートで転移機能が追加されてからは、新手エリア全体を飛ばすために利用するだけの場所になった。


だが、それが本当に遠くへ現れたとき、俺は足を止めていた。


城壁は、ゲーム画面で見たものの数倍高い。


城外には畑と風車が広がり、家々も点在している。


荷物を積んだ馬車が街道をゆっくりと進み、城門の前には検査を待つ人々の列ができていた。


ゲームのマップでは数区画しかなかった初心者都市が、現実では数えきれない建物を内側に抱えている。


ミアが、立ち止まった俺に気づいた。


「ベルハイムへ来たことがないの?」


「来たことはある」


数えきれないほど。


「記憶にある姿と、少し違うだけだ」


「やっぱり記憶を失っているの?」


「今のところ、その説明が一番便利かもしれない」


ミアが眉を寄せる。


「記憶喪失は、説明を便利にするために発症する病気ではないわ」


「分かってる」


「分かっている顔には見えないけれど」


俺たちは列の最後尾へ並んだ。


ルゥが肩から頭を出し、周囲を興味深そうに見回している。


何人かがルゥに気づき、驚いた表情を見せた。


それでも、魔物を見たように武器を抜く者はいない。


俺たちの順番が来る。


門を守る兵士は、最初にミアへ軽く頭を下げた。


「ルーネさん。今日は随分早いお帰りですね」


「北側林地の風棲草は採集し終えました。それから、この人を旧巡礼路の近くで見つけました。身分を証明するものを持っていません」


兵士が俺を見る。


破れた服。


泥だらけの木の棒。


そして、肩に乗った界索虫。


その表情は、すぐに分かりやすい疑いへ変わった。


「名前は?」


「久瀬玲司」


「職業」


「漂流者」


「出身地」


「分からない」


兵士がミアを見る。


「本人は、記憶喪失かもしれないと言っています」


ミアが補足した。


「かもしれない?」


「本人があまり真剣ではないので」


「おい」


兵士はため息をつき、腰からルーンの刻まれた銅鏡を取り出した。


「手を置け」


鑑定用の道具だ。


言われたとおり、手のひらを鏡面へ置く。


淡い青色の光が、手から全身へ向かって走った。


銅鏡の表面に、数行の文字が浮かぶ。


【レベル:2】


【職業:漂流者】


【基礎攻撃力:9】


【犯罪記録:なし】


【所属:なし】


兵士は《基礎攻撃力:9》を数秒間見つめた。


続いて、俺が持つ棍棒へ目を向ける。


「それだけで、灰鐘の森から出てきたのか?」


「正確に言えば、ほとんど逃げていただけだ」


「その数字には相応しい戦い方だな」


正論だった。


反論できない。


銅鏡に表示されたのは、基礎能力だけだった。


称号も、ペットシステムも表示されていない。


鑑定結果の画面は、まるでVer.1.0当時のキャラクター画面そのものだった。


俺の面板に保存されている十二バージョン分の機能は、通常の鑑定術では確認できないらしい。


少なくとも、今のところは。


兵士が銅鏡をしまう。


「仮入城料は銅貨3枚だ」


銅貨は持っていない。


アカウントにあるのは、238,500個の黒晶だけだ。


ゲームでは、黒晶一つでも大量の金貨へ交換できた。


だが、今はショップへ接続できず、通貨交換機能も開放されていない。


俺はミアを見た。


ミアも俺を見る。


「まさか、銅貨3枚も持っていないの?」


「見ることしかできなくて、使えないのに、数字だけは安心できるほど大量にある通貨なら持っている」


「つまり、持っていないのね」


「持ってない」


ミアは財布から銅貨を3枚取り出し、兵士の前へ置いた。


「貸しにしておくわ」


「返す」


「そうして」


兵士が道を空けた。


俺はミアに続いて城門を通る。


新しい通知が表示された。


【都市《ベルハイム》を発見しました】


【マップ情報を更新しています】


【冒険者ギルドを登録しました】


【鍛冶屋を登録しました】


【中央広場を登録しました】


【暁鐘教会を登録しました】


【多数の未登録クエストを検出しました】


視界の端に、十個以上の感嘆符が一斉に現れた。


俺はすぐにすべて閉じた。


ミアが振り返る。


「今度は何を見ているの?」


「別の種類の、迷惑な画面だ」


「よくそういうものが見えるの?」


「今日からは、さらに増える気がする」


街路の両側では、すでに店が開き始めていた。


少し先から、焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。


俺の腹が、すぐに反応した。


ミアにもはっきり聞こえたらしい。


彼女は俺を見てから、肩のルゥへ目を向けた。


「まずは冒険者ギルドへ行くわよ」


「暁鐘教会じゃないのか?」


「身分不明の人間が、私の家の剣を十二回も見ていたのよ。そんな人を、いきなり教会へ連れていくと思う?」


正しい判断だ。


「ギルドなら仮の身分証を発行できるし、最低ランクの依頼も紹介してもらえる。まずは宿代と食費くらい、自分で稼ぎなさい」


「借りた銅貨3枚もだな」


「覚えているなら結構よ」


ミアが再び歩き始める。


腰の《黎明の楔》が、歩調に合わせて小さく揺れた。


所有権を示す通知は、まだ視界の隅に残っている。


【現在の所持者:ミア・ルーネ】


【アカウント所有者:久瀬玲司】


二つの名前が、同じ場所へ並んでいた。


どちらか一方が、自動的に消えることはない。


システムの上では、あの剣は俺のものだ。


この世界では、ミアと、その家族のものだ。


俺が120円で買ったものは、もうメールから受け取るだけのアイテムではなかった。


過去を持っている。


現在の持ち主がいる。


もしかすると、次に誰を持ち主とするのか、自分で選ぶ権利さえあるのかもしれない。


俺はミアのあとを追った。


少なくとも、それを確かめるまでは、《強制上書き》を押すつもりはない。


三代にわたって受け継がれた家宝を、身分証もなく、出会ったばかりで、しかも銅貨3枚を借りている男へ、自分から譲ってもらう。


それが可能かどうかについては――


灰鐘の門番を攻略するより、難しいかもしれなかった。

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