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バージョン・ブレイカー ~俺のステータスだけが十二バージョン先にある~  作者: ひろい海


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2/7

第二章 鐘が鳴り止むまで

【《灰鐘の試練》残り時間:09:51】


灰鐘の門番が、最初の一歩を踏み出した。


片足が地面へ下ろされただけで、石造りの回廊全体が揺れる。


何年積もっていたのかも分からない埃が、天井からぱらぱらと降ってきた。


巨人は六本の岩腕を左右へ広げる。


三対の赤い目が順番に動き、最後にはすべてが俺を捉えた。


武器はない。


ポーションもない。


残りHPは21。


頼れるものは、出会ってからまだ1分も経っていない虫が生み出す、一本の糸だけだった。


灰鐘の門番が右腕を持ち上げる。


遺跡の奥から、重い鐘の音が響いた。


ゴォン――。


音が消えきるよりも早く、岩腕が地面すれすれを薙ぎ払う。


「ルゥ、左だ!」


肩の上にいた界索虫が、小さく身体を傾けた。


「そっち! 石柱だ!」


理解したかどうかを確かめている時間はない。


俺は回廊の左側を力いっぱい指差した。


ルゥの尾が銀色に光る。


細い霊糸が6メートルほどの距離を飛び、石柱へ張りついた。


ほとんど同時に、灰鐘の門番の腕が目の前まで迫る。


俺は霊糸を掴んだ。


「引け!」


身体が勢いよく地面から離れた。


岩腕が靴底を掠め、そのまま背後の壁へ激突する。


耳を塞ぎたくなるほどの轟音とともに、石壁の半分が内側へ陥没した。蜘蛛の巣のような亀裂が、天井まで一気に広がっていく。


砕けた石が周囲へ飛び散った。


その一つが、俺の額を掠める。


【2ダメージを受けました】


【HP:19/35】


あと0.5秒遅れていたら、減っていたのは2ポイントだけではなかった。


俺も、あの壁と同じ形になっていただろう。


銀色の霊糸が、俺の身体を石柱の周囲へ振り回す。


回転の勢いは想像よりも遥かに強かった。


俺は無造作に投げられた荷物のように、少しも美しくない軌道を空中に描き、最後には肩から地面へ叩きつけられた。


「ぐっ!」


【1ダメージの衝撃を受けました】


【HP:18/35】


「着地! 助けるときは、着地までが大事なんだ!」


ルゥが空中から降りてきて、俺の頭に止まった。


「キィ」


鳴き声を聞く限り、自分が何か間違えたとは少しも思っていないらしい。


界索虫の常識では、対象を無事に引き離し、まだ生きているなら、それだけで救助成功なのかもしれない。


俺は地面へ手をつき、どうにか立ち上がった。


灰鐘の門番は、すぐには追撃してこない。


岩腕を壁へ叩き込んだ姿勢のまま、腕を引き戻している。


その動きに合わせて、右側の胸部装甲がわずかにずれた。


装甲の隙間では、暗赤色の導力環がゆっくりと回転している。


岩槍が降り注ぐ直前にだけ露出する、胸の奥の主核ではない。


以前、画面越しにこのダンジョンへ挑戦していたときも、あの導力環を攻撃したプレイヤーはいた。


ダメージ表示は出る。


だが、ボスのHPはほとんど減らない。


限られた攻撃時間を、まともなダメージにならない部位の検証に使おうとする者は、やがていなくなった。


今の俺の基礎攻撃力は7。


武器さえ持っていない。


何より、目の前のクエストは攻撃を要求していなかった。


【クエスト目的:試練終了まで生存する】


撃破ではない。


ボスのHPを一定値まで減らす必要もない。


10分間、生き残ればいい。


「つまり、最初の第零演算場は、討伐ダンジョンじゃなかったのか」


俺の記憶にあるクエスト目的は、灰鐘の門番の撃破だった。


ボスには攻撃を受けつけない時間が大量に存在する。


それでも、プレイヤーは制限時間内にすべてのHPを削りきらなければならなかった。


後に戦闘力補正まで追加され、最終的には純粋な火力検査へ変わった。


だが、目の前の試練が求めているのは生存だけだ。


少なくとも今は、わずかなダメージを与えるために自分から近づく必要はない。


灰鐘の門番の胸部装甲が閉じる。


巨人は別の腕を持ち上げた。


先ほどと同じ鐘の音が響く。


ゴォン――。


やはり、重く短い音だった。


今度は腕が動き出すまで待たなかった。


「また横薙ぎだ」


先に右側へ移動する。


予想どおり、灰鐘の門番の腕が地面すれすれを薙ぎ払った。


先ほど石柱へ固定した霊糸は、まだ消えていない。


俺は糸を掴んで助走し、張り詰めた瞬間に石柱の側面を蹴った。


残っていた牽引力を利用して、進行方向を変える。


岩腕が足元を通過した。


俺は石柱の側面から空中へ振り出され、地面で一度転がる。


相変わらず、格好のいい動きではない。


それでも今度は、両足から着地できた。


「進歩したな」


「キィ!」


ルゥが空中で一回転する。


俺に返事をしたのか、それとも単純に今の移動を楽しんでいるだけなのかは分からない。


解放されたばかりのペット画面が、視界の端に表示された。


【界索牽引 Lv.1】


【最大距離:18メートル】


【最大ストック数:3】


【残りストック:1】


【回復条件:固定物の上で8秒間待機する】


「残り一回?」


俺はルゥを見上げた。


尾に宿る銀色の光が、明らかに弱くなっている。


森から俺を岩壁の中へ引き込んだときに一回。


先ほど最初の横薙ぎを避けたときに、もう一回。


一度設置した霊糸はしばらく再利用できるが、新しい空間アンカーを作るたびにストックを消費するらしい。


無制限に使える移動スキルではない。


ルゥ自身も疲れる。


「まずは、休める場所を探そう」


俺は演算場を見回した。


画面で見るよりも、遥かに広い。


中央には灰鐘の門番が立つ円形広場。


周囲には、高さの異なる十二本の石柱が並んでいる。


壁には六つの大きな石鐘が刻まれ、その下には、それぞれ輪郭の薄れた浮き彫りが残っていた。


左から二本目の石柱の裏側は、しばらく灰鐘の門番の死角になる。


俺はそこを指差した。


「ルゥ、あの柱の上で休め」


ルゥは指先を追い、石柱の上へ飛んでいった。


スキルアイコンの下に、小さな光のゲージが現れる。


8秒。


あそこで8秒間休めば、牽引を一回分回復できる。


灰鐘の門番の一対の目が、俺へ向けられた。


巨人が三本目の腕を持ち上げる。


今度は、先ほどよりも鋭い鐘の音が鳴った。


カァン――!


地面の石板が光る。


赤い光の筋が巨人の足元から外側へ伸び、枝分かれする木の根のように広場の大半を覆っていく。


この攻撃も知っていた。


以前ゲームで挑戦したとき、光る床の範囲は、プレイヤーの戦闘力と推奨値の差に応じて拡大した。


戦闘力が低いほど、立っていられる場所は少なくなる。


一定値を下回れば、すべての床が赤く染まった。


攻略掲示板で、誰かが質問したことがある。


「全域が危険地帯になった場合、どこに立てばいいんですか?」


運営から返ってきた答えは、こうだった。


「戦闘力を適切に上昇させ、パーティー編成を見直してください」


素晴らしい回答だ。


何も答えていないのと、ほとんど変わらない。


だが今は、赤い光が床全体を覆ってはいない。


しかも、光が伸びる前には、進行方向を示す細い軌跡が見える。


最初は左。


次に右。


もう一度、左へ分岐する。


俺は光の隙間に沿って走った。


背後の石板が次々と破裂し、鋭い岩柱が地面から突き出す。


最も近い一本が、ほとんど背中に触れる距離を通過した。


シャツは裂けたが、身体には刺さらなかった。


【《灰鐘の試練》残り時間:08:32】


まだ1分少ししか経っていない。


それなのに、もう30分以上ここにいるような気がした。


心臓は胸の内側から飛び出しそうなほど速く動いている。


左肩は焼けるように痛み、走り続けた肺も熱を持っていた。


ゲームのキャラクターは、呼吸を忘れない。


緊張で足をもつれさせることもない。


スタミナゲージが半分残っていれば、突然脚から力が抜けることもない。


俺は違う。


灰鐘の門番の腕が地面へ振り下ろされた。


岩の棘が一列になり、俺を追って伸びてくる。


前方へ跳ぶ。


着地した瞬間、右脚から力が抜けた。


身体が大きく傾く。


転ぶ。


銀色の霊糸が、突然腕へ巻きついた。


ルゥが石柱の上から糸を引いている。


その小さな身体の力だけでは、俺を空中へ持ち上げることはできない。


だが、落ちる場所をずらすには十分だった。


岩の棘が腰を掠める。


俺は石柱の裏へ転がり込んだ。


【4ダメージを受けました】


【HP:14/35】


視界の端が赤く染まる。


さらに呼吸が苦しくなった。


ルゥが石柱から飛び降り、俺の膝に止まる。


傷ついた翅は小さく震えていたが、銀色の尾には少しだけ光が戻っていた。


【《界索牽引》残りストック:2】


石柱の上で8秒間待機したため、一回分が回復したらしい。


「よくやった」


指先で、ルゥの頭にそっと触れる。


ルゥは逃げなかった。


【絆にわずかな変化が発生しました】


【面識なし→一時的な仲間】


石柱の反対側から、灰鐘の門番の足音が近づいてくる。


残りHPは14。


掠り傷なら、あと一回くらい耐えられるかもしれない。


正面から攻撃を受ければ、間違いなく死ぬ。


アイテム欄を開く。


中には何も入っていなかった。


そのとき、まだ受け取っていない5,000通以上のメールを思い出した。


メールボックスを開いた瞬間、無数の件名が視界を埋め尽くす。


【サービス開始記念報酬】


【緊急メンテナンス補填】


【メンテナンス延長補填】


【補填内容誤配布に関する補填】


【補填メールを受け取れない不具合に関する補填】


【一周年記念】


【二周年記念】


……


「この会社、いったい何回メンテナンスしたんだ?」


一覧を動かしてみる。


一度に十数通しか移動しない。


この速度では、ポーションを見つける頃には、ボスが200回目の攻撃を終えている。


メール画面の右上に、虫眼鏡のアイコンがあった。


2秒ほど見つめてから、それがVer.10.0で追加された検索機能だと思い出す。


「こんな基本機能を追加するのに、10年もかかったのか」


掲示板、問い合わせフォーム、アンケート。


どれだけのプレイヤーが同じ要望を書き続けて、ようやく実装されたのだろう。


ある意味では、サービス開始から7年や8年が経って、ようやくスキル演出をスキップできるようになったゲームと同じくらい偉大だった。


機能が偉大なのではない。


そこまで耐えたプレイヤーが偉大なのだ。


虫眼鏡に触れる。


操作方法はマウスとはまるで違っていた。


最初は隣の《一括受取》を押してしまった。


慌てて指を離す。


確認画面が表示され、5,000通以上のメールを勝手に受け取らずに済んだ。


二度目は日付の項目に触れた。


三度目で、ようやく検索欄を選択する。


2年間使っていた機能でも、空中に浮かぶ画面へ変われば、すぐに使いこなせるとは限らない。


「検索。HPポーション。送信日時の古い順」


大量のメールが消える。


最後に残ったのは三通だけだった。


【サービス開始初日・緊急メンテナンス補填】


【内容:初級HPポーション×3、黒晶×100】


【受け取りますか?】


「受け取る」


【アイテムの存在形式を確認しています】


【初級HPポーション:対応物質が存在します。実体化可能です】


【黒晶:アカウント残高へ加算しました】


手のひらほどの大きさのガラス瓶が、三本まとめて空中に現れた。


危うく取り落としかける。


一本は地面へ落ちたが、幸い割れなかった。


瓶の中には、まったく食欲をそそらない蛍光色の緑色液体が入っている。


ゲームでは、アイコンをクリックするだけで使用できた。


今は、飲むしかないのだろう。


木製の栓を抜く。


腐った薬草と錆びた鉄を混ぜたような臭いが、鼻を突いた。


「……」


灰鐘の門番の足音が、すぐ近くまで迫っている。


俺は目を閉じ、一瓶を一気に口へ流し込んだ。


味は臭いよりもひどかった。


苦みが鼻の奥まで這い上がり、舌の付け根が一瞬で痺れる。


吐き出したい衝動に耐え、無理やり飲み込んだ。


喉から温かさが広がっていく。


肩と腰の傷が締まり、出血が目に見えて弱まった。


【初級HPポーションを使用しました】


【HPが10回復しました】


【現在HP:24/35】


「ゲームのキャラクターは、よくこんなものを黙って飲めたな……」


残りの二本をポケットへ入れる。


灰鐘の門番の手が、石柱の横から迫った。


俺とルゥが、同時に顔を上げる。


「逃げろ!」


ルゥが新しい霊糸を射出する。


俺の身体が地面から引き離された。


巨人の手が石柱を粉砕する。


巨大な岩の塊が四方へ飛び、さっきまで隠れていた場所が一瞬で瓦礫に変わった。


俺は霊糸に引かれ、別の石柱へ向かって振り出される。


鐘の音が再び鳴った。


カァン、カァン。


二回連続。


以前は、ほとんど意識していなかった組み合わせだ。


灰鐘の門番の二本の腕が、同時に天井へ向けられる。


石壁が崩れ始めた。


「上だ!」


大量の岩が天井から落下する。


俺は反射的に走り出しかけたが、二歩目で無理やり足を止めた。


以前、画面越しにこの攻撃を避けたとき、落石はキャラクターが最初に立っていた場所を追尾した。


早く動きすぎれば、それだけ落下範囲が広がる。


その場に留まる。


1秒。


2秒。


頭上に赤い円が浮かんだ。


「今だ!」


ルゥが先ほど固定した霊糸を使い、俺を石柱の裏へ引く。


岩が直前まで立っていた場所へ落下した。


埃が広場を覆い尽くす。


着地と同時に身を伏せ、両腕で頭を守った。


細かい石の欠片が雨のように背中へ落ちたが、HPは減らなかった。


【《灰鐘の試練》残り時間:06:47】


すでに3分が経過していた。


少しずつ、ここの規則が分かり始めている。


重い鐘の音が鳴れば、巨人は地面すれすれを薙ぎ払う。


鋭い鐘の音が鳴ったあとは、足元が変化する。


二回連続で鳴れば、危険は頭上から来る。


面板が教えてくれた攻略法ではない。


灰鐘の門番は、攻撃を始める前に、十分分かりやすい合図を出していたのだ。


以前、画面越しに挑戦していたときは、スキル音、キャラクターボイス、ダメージ表示、各種通知が重なっていた。


俺は鐘の音を真剣に聞いたことがなかった。


おそらく、他のプレイヤーも同じだった。


それ以上に大きいのは、当時の安全地帯が、今のように完全な形では残されていなかったことだ。


「お前、本当はこういうボスだったのか」


灰鐘の門番は答えない。


古い試練を実行し続ける巨像にすぎない。


だが、十二年間プレイヤーを悩ませてきた問題の答えが、一部だけ見え始めていた。


第零演算場は、本来、火力を確認するためのダンジョンではなかった。


少なくとも、目の前で行われている試練は違う。


挑戦者に求められるのは、観察と移動。


勝てない相手を前に、生き残ること。


限定キャラクターは必要ない。


理論上限を超える戦闘力も必要なかった。


【《灰鐘の試練》残り時間:05:03】


半分が過ぎた。


灰鐘の門番が、突然攻撃を止める。


六本の腕が同時に垂れ下がった。


俺の記憶にはない動きだ。


胸部装甲がゆっくりと開く。


だが、その奥にあったのは、岩槍が降り注ぐ直前にだけ露出する赤い主核ではなかった。


底の見えない暗闇だけが広がっている。


周囲の壁に刻まれた六つの石鐘が、順番に光った。


一つ目。


二つ目。


そして、六つ目。


直後、すべての鐘が同時に鳴り響く。


ゴォン――!


あまりにも重い音だった。


視界が一瞬で暗くなり、見えない巨大な槌で殴られたように、両膝が地面へ落ちる。


【特殊ギミック《灰鐘の審判》が発動しました】


【30秒後、試練場内の全対象へ致死ダメージを与えます】


【このダメージは通常移動では回避できません】


「そんなものまであるのか?」


致死ダメージ。


ポーションを二本飲んでも意味はない。


俺は素早く周囲を見回した。


安全地帯はない。


壁にある六つの石鐘が光り続けている。


それぞれの鐘の下には、輪郭の薄れた浮き彫りが刻まれていた。


一つ目は、跪く人。


二つ目は、盾を掲げる人。


三つ目は、走る人。


四つ目は、縄を掴む人。


五つ目は、鐘を鳴らす人。


六つ目は、開かれた扉。


以前パソコンで挑戦したとき、これらの浮き彫りは、ちょうどパーティー一覧の裏側に隠れていた。


最初の失敗後に表示されるおすすめパックの画面が、残った部分まで覆っていた。


俺は一度も、その全体を見たことがない。


【《灰鐘の審判》発動まで:25秒】


五つ目の浮き彫り。


鐘を鳴らす人。


審判を止めるには、五つ目の鐘を鳴らさなければならない。


問題は、石鐘が地面から20メートル以上離れていることだ。


《界索牽引》の最大距離は18メートル。


どうにか近づけたとしても、基礎攻撃力7の俺では、あの巨大な鐘を動かせない。


【《灰鐘の審判》発動まで:21秒】


俺には鳴らせない。


なら、鳴らせるものを使えばいい。


灰鐘の門番を見る。


巨人の六本の腕が、ゆっくりと持ち上がっていた。


それぞれの腕は、壁にある六つの石鐘と向かい合っている。


「ルゥ、五つ目の鐘だ」


ルゥが、俺の指差す方向を見る。


「俺を引っ張るんじゃない」


五つ目の石鐘の横にある石柱を指し、続いて、石鐘と向かい合う巨人の手首を示した。


「糸を石柱に固定してから、あいつの手首へ回すんだ」


ルゥは動かなかった。


今の指示は、ルゥが理解できる範囲を超えているらしい。


【《灰鐘の審判》発動まで:17秒】


俺は足元の石を掴み、地面に素早く線を描いた。


石柱。


巨人の手首。


そこから、俺の場所へ戻る線。


「こうだ」


ルゥが線の横へ降りた。


銀白色の複眼が、石柱と灰鐘の門番の腕を順番に見る。


「できるか?」


「キィ」


ルゥが飛び立った。


空間アンカーを設置し直すための最後の《界索牽引》が消費される。


霊糸は最初に石柱へ張りつき、そこから銀色の弧を描いて、五つ目の鐘と向かい合う手首へ巻きついた。


【《界索牽引》残りストック:0】


【《灰鐘の審判》発動まで:12秒】


俺は霊糸の反対側を掴んだ。


この糸は、ルゥ自身の力だけで物体を引っ張っているのではない。


二つのアンカーの間で張り詰めれば、ルゥの身体からは想像できない牽引力を生み出す。


角度さえ正しければ――


灰鐘の門番の腕が、振り下ろされ始めた。


俺は全身の力で霊糸を引く。


「もう少し左だ!」


ルゥが石柱に沿って飛び、糸の角度を変えた。


巨人の腕がずれたのは、0.5メートルにも満たない。


だが、それで十分だった。


本来なら地面へ叩きつけられるはずの拳が、五つ目の石鐘へ激突する。


ゴォン――!


それまでとはまったく異なる鐘の音が、遺跡全体を震わせた。


光っていた六つの石鐘が、同時に消える。


灰鐘の門番の胸に広がっていた暗闇も、急速に閉じていった。


【正しい鐘が鳴らされました】


【《灰鐘の審判》を解除しました】


【界索虫が試練ギミックの解除に参加しました】


【絆に変化が発生しました】


【一時的な仲間→頼れる存在】


俺は霊糸を放し、その場へ座り込んだ。


ルゥが空中から落ち、俺の肩へしがみつく。


傷ついた翅は震え続け、銀色の尾もほとんど光を失っていた。


「よくやった」


ルゥを両手ですくい上げる。


今度は、得意げな声を上げなかった。


六本の細い脚をたたみ、静かに手のひらへ伏せる。


【界索虫の体力が不足しています】


【一時的に《界索牽引》を回復できません】


ここから先は、もうルゥの移動能力に頼れない。


【《灰鐘の試練》残り時間:03:16】


あと3分。


灰鐘の門番が動き始める。


攻撃の間隔が変化していた。


最初は一本ずつ動いていた腕が、今度は二本同時に動く。


重い鐘と鋭い鐘が、ほとんど同時に鳴った。


横薙ぎと地面からの岩棘が、一緒に迫る。


ルゥを胸元のポケットへ入れ、頭だけを外へ出す。


俺は走り出した。


右側からは横薙ぎ。


外周には、地面から伸びる岩棘。


外には逃げられない。


前へ行くしかない。


俺は灰鐘の門番へ向かって走った。


近づくほど、横薙ぎが覆う範囲は狭くなる。


岩棘も外側から内側へ広がるため、巨人の足元には一瞬だけ隙間が生まれる。


理屈では、そうなる。


だが、自分を一歩で踏み潰せる巨人の足元へ走るのは、理屈とは別の話だった。


岩の足が振り下ろされる。


俺は巨人の両脚の間を転がり抜けた。


地面が揺れ、衝撃で身体が浮き上がる。


【5ダメージを受けました】


【HP:19/35】


直接踏まれてはいない。


まだ動ける。


鋭い鐘が二度響いた。


天井からの落石。


俺は走りながら、頭上に赤い円が現れるのを待つ。


位置が固定されたあと、一度だけ方向を変えれば――


右足に鋭い痛みが走った。


走り続け、何度も無理な着地を繰り返した負担が、レベル1の身体の限界を超えていた。


足首から力が抜ける。


俺は地面へ倒れた。


頭上の赤い円が、位置の固定を終える。


「まずい……」


ルゥがポケットから這い出す。


尾には、わずかな銀色の光しか残っていなかった。


【界索虫がスキルを強制使用しようとしています】


【警告:永久的な損傷を受ける可能性があります】


「やめろ!」


俺はルゥを掴んだ。


霊糸を使わせれば、俺は避けられるかもしれない。


だが、もともと翅を負傷しているうえに、体力も完全に尽きている。


ゲームのペットなら、ペット欄へ戻して時間を置けば回復する。


目の前のルゥが、同じように回復する保証はない。


こいつは、育て直せるNレアのカードではない。


ルゥを胸元へ庇い、横へ転がった。


岩が落ちる。


攻撃範囲の外側にあった一つが、背中へ直撃した。


世界が一瞬、真っ白になった。


【15ダメージを受けました】


【HP:4/35】


地面にうつ伏せになり、呼吸ができなくなる。


耳には鋭い音だけが残った。


HPは4。


小さな掠り傷でも死ぬ可能性がある。


指はすでに、ポケットに入れたHPポーションへ触れていた。


だが、灰鐘の門番は止まらない。


重い鐘の音が再び響く。


巨人が腕を持ち上げた。


【《灰鐘の試練》残り時間:00:18】


18秒。


横薙ぎが届くまで、およそ3秒。


ポーションを飲むにも時間がかかる。


立ち上がる時間も必要だ。


今の状態では、攻撃範囲の外まで逃げられない。


俺は周囲を見る。


倒れた石柱。


崩れた壁。


そして、灰鐘の門番に殴られ、元の位置からずれた五つ目の石鐘。


石鐘の裏側には、壁の中へ続く細い隙間が開いていた。


巨人の腕は、あそこまで入らない。


距離は、およそ12メートル。


《界索牽引》は使えない。


走るしかない。


【《灰鐘の試練》残り時間:00:14】


ルゥをポケットへ戻し、両手を地面についた。


右足には、ほとんど力が入らない。


立てない。


なら、最初から立とうとしなければいい。


膝をついたまま、一歩前へ進む。


手のひらが砕けた石の縁に触れ、鋭い破片が皮膚へ食い込んだ。


【1ダメージを受けました】


【HP:3/35】


「それでも減るのかよ……」


灰鐘の門番の腕が動き始める。


俺は瓶の栓を抜き、味など気にせず液体を口へ流し込んだ。


半分近くが顔へこぼれた。


【HPが10回復しました】


【HP:13/35】


身体に、わずかな力が戻る。


俺はよろめきながら立ち上がり、壁の隙間へ向かって走った。


【《灰鐘の試練》残り時間:00:09】


横薙ぎが迫る。


8秒。


隙間まで7メートル。


7秒。


あと5メートル。


6秒。


足音と鐘の音と心臓の鼓動が、すべて重なって聞こえる。


5秒。


巨大な影が背中を覆う。


4秒。


俺は前へ飛び込んだ。


3秒。


岩腕が腰を掠める。


【12ダメージを受けました】


【HP:1/35】


衝撃で身体が壁の隙間へ投げ込まれた。


地面へぶつかり、口の中に血の味が広がる。


灰鐘の門番の手は、隙間の外側で止まった。


一本の岩指が、頭上から10センチにも満たない場所にある。


【《灰鐘の試練》残り時間:00:01】


【《灰鐘の試練》残り時間:00:00】


鐘が鳴り止んだ。


遺跡が静寂に包まれる。


灰鐘の門番は、攻撃姿勢のまま動かなかった。


1秒。


2秒。


巨人がゆっくりと腕を引く。


三対の赤い目が、順番に光を失った。


巨大な身体は広場の中央へ戻り、再び片膝をついた。


六本の腕が胸の前で重ねられる。


まるで、最初から一度も動いていなかった古い石像のようだった。


【特殊クエスト《灰鐘の試練》を完了しました】


【灰鐘の門番の試練で10分間生存しました】


【敵対対象を一体も撃破していません】


【灰鐘の門番に与えた有効ダメージ:0】


【評価:特殊】


「最後の一つは、わざわざ書かなくてもいいだろ……」


俺は壁の隙間に倒れたまま、指一本動かせなかった。


残りHPは1。


さっき、もう少し大きな石の欠片に触れていたら、異世界でダンジョンの埃に殺された最初の人間になっていたかもしれない。


ルゥがポケットから這い出し、胸の上まで登ってくる。


「キィ……」


銀色の尾が、俺の顎へ触れた。


「生きてる」


どうにか声を返す。


「お前も、生きてるな」


ルゥが胸の上へ伏せた。


システムが報酬の精算を始める。


【経験値を500獲得しました】


【レベルが上昇しました】


【レベル:1→2】


【基礎攻撃力:7→9】


【最大HP:35→43】


【レベルアップによりHPが全回復しました】


温かさが全身を駆け抜ける。


背中の痛みが急速に弱まり、捻った足首にも感覚が戻った。


肩と手のひらの傷も、目に見える速さで閉じていく。


これほどレベルアップ時の全回復に感謝したことはなかった。


【初めてペットと共同で試練ギミックを達成しました】


【界索虫が経験値を獲得しました】


【界索虫のレベルが上昇しました】


【レベル:1→2】


【ペットスキル《界索牽引》が強化されました】


【最大ストック数:3→4】


【絆:頼れる存在】


【アイテム《灰鐘の欠片》を獲得しました】


【アイテム《界庭コアの欠片》×1を獲得しました】


【称号《剣を抜かぬ攻略者》を獲得しました】


【称号効果:自身より基礎能力値の高い敵に対する最終ダメージが30%上昇します】


最終ダメージ。


この計算方式がゲームへ追加されたのは、Ver.6.0の職業覚醒システムと同時だった。


基礎攻撃力には表示されず、すべてのダメージ計算が終わったあと、独立して乗算される。


あの頃から、まだ理解できる範囲に収まっていたダメージ数値が、一気に膨張し始めた。


もっとも、今の俺は武器すら持っていない。


どれだけのダメージを出せるか考えるのは、まだ先でいい。


称号よりも気になる報酬が、もう一つあった。


【界庭コアの欠片】


【収集進行度:1/3】


【三つ集めることで、完全な界庭コアを作成できます】


【残りの欠片の位置:不明】


第197回攻略では手に入らなかったものが、ようやくアイテム欄に収まっている。


まだ、三分の一だけだが。


灰鐘の門番の背後にある壁が、ゆっくりと開いた。


新しい敵はいない。


次の戦闘へ続く階段でもなかった。


壁の向こうにあったのは、それほど広くない石室だった。


中央では、今も水を湧き出し続ける泉がある。


壁際には二つの石造りの寝台。


隅には、完全には腐っていない干し草まで積まれていた。


【安全区域《鐘待ちの間》を発見しました】


【安全区域では、敵対生物が自動的に出現することはありません】


【《灰鐘の試練》の後続区域は未開放です】


【休息後、遺跡の出口が開放されます】


報酬を手に入れたからといって、すぐに次の戦いを探す気にはなれなかった。


仮に今、完全な界庭コアが次の扉の向こうに置かれたとしても、これ以上進めるとは思えない。


ルゥを抱えて《鐘待ちの間》へ入る。


敵がいないことを確認し、石の寝台のそばへ腰を下ろした。


戦っている間は無理やり押さえ込んでいた疲労が、一気に押し寄せてくる。


服は、まともな形を保っていない。


全身に乾いた血がこびりついていた。


レベルアップは傷を治したが、汚れを落としたり、服を修復したりはしてくれない。


ルゥの状態は、俺よりも悪かった。


裂けた翅は、まだ不自然な方向へ傾いている。


最後に残ったHPポーションを取り出し、指先へ一滴だけ垂らした。


「これは使えるか?」


「キィ?」


「俺にも分からない」


先に画面で確認する。


【初級HPポーション】


【対象種族適合率:23%】


【直接服用した場合、不調を引き起こす可能性があります】


完全に無効というわけではない。


ポーションで翅の傷を洗い、シャツから比較的きれいな布を細く裂いた。


傷ついた部分を慎重に固定する。


その途中で、ルゥに二回噛まれた。


痛くはない。


おそらく、不満を示しているのだろう。


応急処置を終えてから、もう一度メールボックスを開いた。


先ほど受け取ったメールは、すでに灰色へ変わっている。


【サービス開始初日・緊急メンテナンス補填:受取済み】


受取ボタンも消えていた。


残る二通は後のイベントで配布されたメールだった。


どちらにもHPポーションは含まれていたが、現在の世界には実体化に対応する物質が存在しない。


黒晶の残高も確認する。


数字は、先ほどより100増えていた。


ショップは相変わらず決済機能へ接続できない。


月額パスの残り期間は14日。


「一度受け取ったものは、もう戻らないのか……」


まだ断定はできない。


だが、少なくとも、さっきのメンテナンス補填が再び現れる様子はなかった。


俺には、十二年間に積み重なったメール、倉庫、そして有料通貨がある。


だが、それらを補充する方法まで残されているとは限らない。


嬉しい結論ではなかった。


それでも今は、ボスの攻撃を避けながら、どこまで資源を温存するべきか考えなくていい。


メールボックスを閉じた。


《鐘待ちの間》の壁には、輪郭の薄れた絵が刻まれていた。


最も上に描かれているのは、六本の腕を持つ巨人。


その前には、武器を持たない旅人が立っている。


旅人は鐘の音がもたらす災いから逃れ、十度目の鐘が鳴ったあと、通行の許可を与えられていた。


絵の下には、理解できない古代文字が刻まれている。


画面が少しだけ停止したあと、不完全な翻訳を表示した。


『強き者は石の門を砕く。


賢き者は封印を解く。


そして界庭が最初に迎え入れるのは、戦うべきでない時を知る旅人である』


俺は長い間、その文章を見ていた。


以前ゲームで挑戦した第零演算場では、灰鐘の門番を撃破しなければならなかった。


だが、この壁画の旅人は、最初から一度も剣を抜いていない。


試練は攻略不可能だったわけではない。


俺が知っている勝利条件と、目の前の世界に存在する規則が違っていただけだ。


その差がいつ生まれたのか。


誰が規則を変えたのか。


画面は何も教えてくれなかった。


「少なくとも、最初からあんなにひどい出来だったわけじゃないのか」


石の寝台へ背を預ける。


ルゥは、すでに俺の脚の上で眠っていた。


呼吸に合わせて身体が小さく動いている。


六本の細い脚は、今も俺の服を掴んだままだった。


《鐘待ちの間》の反対側で、出口を示す石扉が淡く光り始める。


画面上の地図も同時に広がり、真っ暗だった領域に新しい場所を表示した。


【出口接続地域:ベルハイム郊外】


【現在地からベルハイムまで:17.4キロメートル】


「ベルハイム……」


もちろん、その名前は知っている。


ゲームのVer.1.0で、すべてのプレイヤーが初心者用チュートリアルを終えたあと、最初に到着する街だった。


街の中央には巨大な朝の鐘が吊るされ、日の出とともに鳴り響く。


城門の左側には鍛冶屋。


その先には冒険者ギルドがある。


中央広場には転移碑が置かれ、北側には職業鑑定と転職を担当する暁鐘教会が建っていた。


少なくとも、俺の記憶にある地図ではそうなっている。


灰鐘遺跡からベルハイムへ戻るには、騎乗状態なら40秒。


徒歩でも3分はかからない。


だが、画面に表示された距離は17.4キロメートルだった。


ゲーム内の地図は、実際の距離を大幅に圧縮していたらしい。


マウスを動かすだけで越えられた森も、川も、丘も。


今は、自分の足で歩かなければならない道になっている。


経路を確認していると、アイテム欄の奥から小さな音がした。


実物の武器ではない。


アカウント上の所有権だけを示す、灰色のアイコンだ。


【黎明の楔】


それまで《位置不明》と表示されていた説明が変化している。


【原型から微弱な共鳴を検出しました】


【共鳴方向:ベルハイム】


【距離:正確な測定はできません】


最初に購入した課金装備。


そして、今の時代で原型を発見できる、唯一の武器。


それがベルハイムにある。


さらに詳しい情報を開いた。


新しい検出結果が、ゆっくりと表示される。


【原型の状態:完全】


【現在の状態:装備中】


【現在の所有者:識別不能】


「もう誰かが持っているのか?」


俺はてっきり、《原型を探す》というのは、どこかの遺跡へ行き、宝箱を開けて、自分の武器を回収することだと思っていた。


そう単純な話ではないらしい。


アカウント記録の上では、《黎明の楔》は俺のものだ。


金を払って購入し、システムも俺の所有権を認めている。


だが、この世界に存在する《黎明の楔》には、ここで生まれた由来がある。


すでに、誰かの手にも渡っている。


その人物が《黎明の楔》を自分の武器だと思っているのなら、ゲームアカウントの購入履歴が、いったい何の証明になるのだろう。


所有者の情報を、さらに確認しようとする。


画面が返した答えは同じだった。


【識別不能】


脚の上で、小さなものが動いた。


ルゥが丸くなり、俺の膝の上で眠っている。


布で固定した翅が、ときどき微かに震えた。


六本の細い脚は、眠ったあとに置き去りにされるのを恐れているように、俺の服を掴んだままだった。


起こすつもりにはなれなかった。


レベルアップで傷は治った。


だが、精神まで回復したわけではない。


生き残ることだけを考えていた間は、無理やり身体を動かせた。


静かになった今になって、指が自分の意思とは関係なく震え始めている。


石扉はすでに完全に開いていた。


朝の冷たい風が《鐘待ちの間》へ入り込み、湿った草木の匂いを運んでくる。


出口の向こうでは、遠い空が白み始めていた。


ベルハイムは、あの朝焼けの下にある。


だが、17.4キロメートルの森を、武器も持たず、破れた服のまま、負傷したペットを連れて歩くべきではない。


俺は石の寝台に背を預けた。


残った薬瓶を片づけ、自分の上着をルゥへかける。


少なくとも今は、先へ進めと急かすカウントダウンはない。


目を閉じる前に、もう一度だけ《黎明の楔》のアイコンを見た。


システム上では、あれは俺のものだ。


だが、17キロメートル先では、誰かがその剣を握っている。


最初に購入した課金装備を取り戻すためには、まず確かめなければならない。


システムの言う《所有権》が、この世界でどこまで通用するのかを。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます!

ベルハイムで玲司を待つもの、そして《黎明の楔》を持つ人物とは――?

物語はここから、本当の異世界冒険へと動き始めます。

次回もぜひ楽しみにしていただけると嬉しいです!

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