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バージョン・ブレイカー ~俺のステータスだけが十二バージョン先にある~  作者: ひろい海


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第一章 誰もクリアできなかった初心者ダンジョン

オンラインゲーム『エンドレルム・プロトコル』のサービス開始から、十二年。

いまだに誰一人としてクリアしていないダンジョンが、一つだけ存在する。

しかも、それは初心者エリアにあった。

名称は――《灰鐘遺跡・第零演算場》。

公式推奨レベルは、わずか10。

そして、これまでの最高攻略進行度は99.7%だった。

今、この瞬間までは。

「残り、0.1%……」

俺は画面中央に表示された、もはや一本の細い線にしか見えないボスのHPバーを睨んでいた。

右手はマウスを握り、左の人差し指は数字キーの「4」に置いている。

灰色の巨人が、崩壊した鐘楼の中央で膝をついていた。

本来は六本あった腕のうち、残っているのは一本だけ。

全身を覆っていた岩の鎧もほとんど剥がれ落ち、胸部装甲の奥で赤い光が明滅している。

光が脈打つたび、遺跡全体が小さく揺れた。

鐘楼の上空では、黒灰色の雲が渦を巻いている。

ボスが凶暴化するまで、あと3秒。

俺のキャラクターはレベル10だった。

育成不足だからではない。

むしろ『エンドレルム・プロトコル』における俺のメインキャラクターは、とうの昔にレベル上限へ到達している。

三段階ある職業覚醒も、すべて完了。

アーティファクトの強化ツリー、ペット図鑑、パラゴン星盤、機兵同調率も、普通のプレイヤーが見れば「こいつ、ゲーム以外にすることがないのか」と思う程度には仕上がっていた。

だが、第零演算場へ入ると、すべてのキャラクターが強制的にレベル10へ同期される。

職業覚醒、封印。

アーティファクト成長、封印。

ジェム刻印は、初期の2スロットのみ。

ペット、機兵、星盤、ホーム研究、ギルド技術、シーズン遺産。

そのすべてが無効化される。

外で一撃に「京」だの「垓」だのという単位のダメージを出せるプレイヤーでも、ここへ入れば初期装備で石を殴るしかない。

普通なら、こういう設計は「初心に帰る」と表現できるだろう。

第零演算場の場合、運営がプレイヤーを帰らせようとしている先は、初心ではなく墓場だった。

【警告:現在の戦闘力が推奨戦闘力を下回っています】

【全能力値が37%低下します】

【被ダメージが52%上昇します】

サービス開始当初から炎上し続けた、《戦闘力補正》だ。

攻略掲示板の検証によれば、限定キャラクターを使用しない場合、レベル10で到達できる理論上の最高戦闘力は2,740。

対して、第零演算場の推奨戦闘力は3,000だった。

推奨値に届かなければ、戦闘力の差に応じて追加の弱体化を受ける。

操作技術も、装備構成も、ボスの攻撃パターンに対する理解も、単純かつ暴力的な能力低下の前では意味を失う。

では、この戦闘力補正を無視できる唯一の限定キャラクターは、いつ実装されたのか。

第零演算場の初回開催が終了した、7日後である。

後にVer.10.0の《イベントアーカイブ》へ収録され、いつでも再挑戦できるようになったものの、使用可能なキャラクターは開催当時のものに固定されていた。

つまり、金を払って解決できるようになった頃には、その金で手に入れたキャラクターを連れて入ることができなくなっていた。

課金ゲーム史に残してもいいほど、見事な循環だった。

プレイヤーの腕が悪いわけではない。

金を払う機会さえ、正しい順番では与えられなかっただけだ。

灰色の巨人が、最後の腕を持ち上げる。

「あと2秒」

その背後に、数百本の黒い岩槍が展開された。

安全地帯は存在しない。

回避不能。

通常の無敵時間で抜けることもできない。

レベル10のHPでは、一本でも命中すれば即死する。

だが、岩槍が降り注ぐ直前、ボスの胸部装甲が完全に開き、その奥に隠された核がわずか0.4秒だけ露出する。

ダメージが足りない。

あと少し。

最後の一撃だけでいい。

俺は数字キーの「4」を押した。

画面の中で、俺のキャラクターが長剣を地面へ突き立てる。

刀身に宿っていた弱々しい金色の炎が消え、持続時間わずか0.5秒の円形障壁へ変化した。

長剣の名は、《黎明の楔》。

十二年前、俺が初めて購入した課金装備だ。

もちろん、最後に買った課金装備ではない。

月額パス、シーズンパス、キャラクターパック、限定衣装、専用武器。

それから、90連まで回したのだから今さら止められるわけがない、と自分に言い聞かせて天井まで追加したガチャが何度か。

十二年間の出費を合計すれば、120円の初回購入特典など、その中では最も無罪に近い買い物だった。

俺は、自分を重課金プレイヤーだと思ったことはない。

すべてのキャラクターを完凸させていたわけではないからだ。

月額パスが実装されてからは一度も切らさず、シーズンパスもほぼ毎回購入する。

好きなキャラクターは最低でも一人確保。

特に気に入ったキャラクターなら、たまに凸を進める。

あとは「どうせ毎日遊んでいるから」と、少しだけ便利な育成パックを買う程度。

一か月ごとに見れば、それほど高くはない。

少なくとも、一回ずつ分けて見ている間は。

合計額については、また別の話になる。

もっとも、いくら金を払ったところで、課金装備が永遠に現役でいられるわけではない。

初期バージョンの《黎明の楔》は、初心者が少し楽に進められる程度の武器だった。

Ver.12.0ともなれば、とっくに型落ちしている。

おすすめ装備一覧に名前が載ることすらない。

武器説明も、初期の文字コードに起因する不具合で、意味不明な六つの四角形に変わっていた。

だが、この武器には、ほとんど誰も知らない特性があった。

障壁が破壊された際、その直前に受けたすべてのダメージを記録し、その1%を次の攻撃に加算する。

通常なら、誤差程度の追加ダメージだ。

しかし、第零演算場の岩槍は、一つの攻撃として処理されていなかった。

一本ごとに個別のダメージ判定が行われ、戦闘力補正による被ダメージ増加も、そのたびに呼び出される。

十二年前なら低性能端末を強制終了させていた不具合だ。

そして十二年後の今、そんな仕様を覚えている人間など、ほとんど残っていない。

数百本の岩槍が同時に降り注いだ。

障壁が砕ける。

白い光が画面全体を呑み込んだ。

無数のダメージ表示が重なり、やがてレベル10のダンジョンに存在してはならない数値へ変化する。

【蓄積ダメージ:2,147,483,647】

整数上限。

「成功した」

俺は即座に攻撃キーを押した。

キャラクターが地面から《黎明の楔》を引き抜き、灰色の巨人へ向けて剣を突き出す。

限界まで圧縮された金色の炎が刀身から噴き出した。

炎は崩れた鐘楼を貫き、その先にあるボスの核までも貫通する。

残り0.1%だったHPが、ゼロになった。

世界が静止した。

岩槍が空中で止まる。

灰色の巨人の身体に、無数の亀裂が走った。

【対象の現在HP:0】

俺は喜ばなかった。

マウスから手を離すこともしなかった。

理由は分からない。

ただ、こんなにも素直に終わるはずがないと思った。

HPがゼロで止まっていたのは、わずか0.5秒だった。

直後、表示された数字が変化する。

【対象の現在HP:-1】

【異常な生存状態を検出しました】

【データを修正しています……】

「修正するな」

【データ修正完了】

【対象の現在HP:1】

「修正するなって言っただろ!」

灰色の巨人の肩から、新しい腕が無理やり生えてきた。

拳が一瞬で画面を埋め尽くす。

俺のキャラクターは虫でも叩き潰すように殴り飛ばされ、地面を転がって鐘楼の外へ消えた。

HPがゼロになる。

【挑戦失敗】

【今回の攻略進行度:99.9%】

【再挑戦しますか?】

俺は、その文字をしばらく見つめていた。

そして、ひどく冷静な動作でヘッドホンを外した。

これで197回目。

最も成功に近づいた挑戦。

そして、最後の挑戦だった。

画面右下の時刻は、午前2時57分。

あと3分で、『エンドレルム・プロトコル』はVer.12.0の大型アップデートメンテナンスに入る。

公式発表によれば、これが最後の大型アップデートだった。

十二年間続いたメインストーリーも、マップも、イベントも、すべてが結末を迎える。

膨張し続けたダメージの単位も、「京」「垓」「秭」「穣」を通り越し、ついには数値担当者すら一つずつ説明する気を失った《無量大数》へ到達するらしい。

正式名称は――

Ver.12.0《終境の先へ》。

プレイヤーたちは、もっと単純に《最終バージョン》と呼んでいた。

では、なぜ俺は最終バージョンのアップデート直前に、一か月もかけてサービス開始時の失敗ダンジョンを攻略していたのか。

理由は、その初回クリア報酬にある。

【界庭コア】

公式の説明文は、一行だけ。

『未実装機能のテスト用アイテムです。実際の用途はありません』

このアイテムは、Ver.1.0から存在していた。

Ver.4.0で《界庭ホーム》が正式に実装され、生産研究と個人倉庫が追加された。

Ver.5.0ではペット用の巣。

Ver.7.0ではアーティファクト工房。

Ver.9.0の領地システムでは、個人ホームをギルド都市にまで拡張できるようになった。

Ver.11.0では、機兵の整備格納庫まで追加されている。

プレイヤーの間では、《界庭コア》こそが、それらすべてのホーム機能の原型なのではないかと噂されていた。

だが、誰も手に入れたことがない。

運営は十二年間に何度も、第零演算場のボス能力を引き下げた。

戦闘力補正を調整したこともある。

一時的に凶暴化までの制限時間が削除されたことさえあった。

だが、調整するたびに新しい不具合が発生し、ダンジョンは以前よりも理不尽になっていった。

やがてプレイヤーそのものが減り、誰も気にしなくなった。

俺はキャラクター倉庫を開いた。

数百点の装備が、実装されたバージョンごとに整然と並んでいる。

環境から外れた限定武器。

コラボ期間中にしか手に入らなかった衣装。

重複したキャラクターから得た命軌。

性能が低すぎて使い道はないが、分解できずに残してある記念品。

何度も拡張した倉庫は、それらで埋め尽くされていた。

十二年。

現実の同級生たちは、何度も連絡先を変えた。

職場の人間の名前も、なかなか覚えられない。

攻略掲示板で知り合った古い仲間たちは、一人、また一人とログインしなくなった。

ギルドメンバーのアイコンは、いつの間にかすべて灰色になっていた。

この倉庫だけが、あの頃の順番を残している。

俺は、どの装備をどこで手に入れたのか覚えていた。

いくら払ったのかも。

もっとも、後者については意図的に忘れていることが多かった。

「最後のバージョン、か」

マウスカーソルをログアウトボタンへ移動させる。

その瞬間、メールボックスのアイコンが点滅した。

【新しいシステムメールが届きました】

「このタイミングで補填か?」

あり得ない話ではない。

『エンドレルム・プロトコル』が大型アップデートで補填を配らなければ、プレイヤーのほうが運営の中身ごと入れ替わったのではないかと疑うだろう。

俺はメールボックスを開いた。

件名はない。

送信者も表示されていない。

本文は、わずか一行だった。

――君はすでに、そのバージョンが攻略不可能であると証明した。

眉をひそめる。

運営からのメールには見えない。

かといって、一般プレイヤーが送れる形式でもなかった。

すぐに、二通目が届く。

――ならば、正しいバージョンを試してみないか?

画面右下の時刻が、午前3時へ変わった。

ゲーム画面が静止する。

メンテナンス開始を告げる通知も、強制ログアウトのカウントダウンも表示されない。

キャラクターの背後には灰鐘遺跡が残っているが、空の雲は完全に動きを止めていた。

見覚えのない進行バーが、画面中央に出現する。

【Ver.12.0のインストールが完了しました】

【プレイヤーデータを継承しています……】

【現在のオンラインプレイヤーを検索しています……】

【現在のオンラインプレイヤー数:1】

【全サーバーの未受領補填を再分配しています……】

メールボックス右上の数字が、勢いよく増加した。

47。

315。

1,029。

最終的に、見るだけで整理しなければならないという焦燥感を覚える数字で止まった。

【未受領メール:5,237】

「待て」

【プレイヤーの意識を移行しています】

「何だ、それ」

【移行完了】

画面が完全に暗転した。

反射的に、机の上にあるスマートフォンへ手を伸ばす。

だが、指先は慣れ親しんだ木製の机に触れなかった。

身体が突然、支えを失う。

次の瞬間、背中から地面へ叩きつけられた。

肺の中の空気が押し出される。

湿った土の匂いが鼻へ流れ込み、服越しに枯れ枝が肌へ食い込んだ。

小さな虫が一匹、俺の手の甲を慌てて這っていく感触さえ分かる。

俺はしばらく、その場に倒れたまま動けなかった。

頭上に天井はない。

スリープ状態のモニターが放つ微かな光も、パソコンのファンが回る音もなかった。

夜空が、複雑に重なる枝によって無数の欠片へ切り分けられている。

風が木々の葉を揺らした。

さらに遠くから、獣らしきものの短い唸り声が聞こえる。

「……ふざけるなよ」

喉から絞り出した声は、思っていた以上にかすれていた。

地面に手をつき、身体を起こす。

森だ。

月光が木々の隙間から差し込み、手のひらについた泥を照らしている。

腐葉土の匂い。

ざらついた樹皮。

左肩を枯れ枝で切った痛み。

すべてがあまりにも鮮明で、《夢》という言葉では説明できなかった。

違う。

おかしい。

『エンドレルム・プロトコル』に、VR版は存在しない。

キーボードとマウスで操作する、古い形式のオンラインゲームだ。

「メニュー」

何も起こらない。

「ログアウト」

森は静かなままだった。

「強制ログアウト」

風が梢を揺らす。

反応はない。

もう一度繰り返す。

三度目には、声が震え始めていた。

心臓は激しく動いているのに、呼吸はどんどん浅くなる。

胸の上に何か重いものを載せられたようで、周囲に空気はいくらでもあるはずなのに、うまく吸い込めない。

俺はまだ、パソコンの前で倒れているのか。

これは更新プログラムによって見せられている幻覚なのか。

現実の身体は、まだあの部屋にあるのか。

誰かが見つけて、病院へ運んでくれるのか。

それとも――

現実の俺は、もう死んでいるのか。

俺は左手を強くつねった。

痛みが即座に伝わってくる。

ダメージ表示は出ない。

痛覚が軽減されることもない。

ゲームだからといって、我慢しやすくなるわけでもなかった。

指を離す。

爪が食い込んだ場所に、半月型の赤い跡がゆっくり浮かび上がる。

さらに悪い想像が脳裏をよぎった。

もし、ここにあるものがすべて本物なら。

HPがゼロになったあと、俺には《再挑戦》のボタンが残されているのか。

胃が強く縮む。

木へ手をついて立ち上がろうとしたが、脚に力が入らない。

一歩も進めないまま、再び膝をついた。

これ以上、考えるな。

少なくとも、今は。

いつからか、俺は解決できない問題に直面すると、それを数字へ置き換えるようになった。

敵の攻撃間隔。

スキルの再使用時間。

安全距離。

最短経路。

成功確率。

数字にしたところで、結果が変わるわけではない。

それでも、自分がどうやって負けるのかくらいは分かる。

「まず、確認する」

自分の声が聞こえた。

「場所。身体。それから、使えるもの」

冷静になったわけではない。

完全に取り乱す前に、俺が知っている唯一の行動を始めただけだ。

右手を持ち上げ、空中でゲームメニューを開くときの動作をする。

マウスも、ショートカットキーもない。

だが、メニューを開こうと考えた瞬間、視界の端から青白い光が走った。

光は目の前で広がり、半透明のウィンドウを形成する。

俺は反射的に半歩下がった。

ウィンドウも動き、視界の中央に留まり続ける。

【プレイヤー認証中……】

【プレイヤー:久瀬玲司】

【ゲームID:REIJI】

【レベル:1】

【職業:漂流者】

【HP:35/35】

【基礎攻撃力:7】

名前は俺のものだった。

身体も俺自身のものだ。

拳を握る。

指の長さ。

手のひらに残る古傷。

右手の中指にある、長年筆記具を握ってできた薄い痕。

どれも変わっていない。

ゲームキャラクターの身体になったわけではない。

俺自身の肉体が、何らかの法則によってレベル1の数値へ換算されている。

少なくとも、俺は俺のままだ。

その事実だけで安心できたわけではない。

それでも、呼吸はほんの少しだけ戻った。

新たな通知が表示される。

【実行環境を検出しています】

【ワールドバージョン:Ver.1.0】

【プレイヤークライアント:Ver.12.0】

【12世代分の累積データ差異を検出しました】

【下位互換モードを起動します】

【基本機能の検出が完了しました】

【レベルシステム:実行可能】

【スキルシステム:実行可能】

【装備欄:実行可能】

【アイテム欄:実行可能】

直後、ウィンドウが左右へ大きく拡張した。

十二の大型ノードから構成されたバージョンツリーが、目の前に浮かび上がる。

無数の小さな機能が各ノードから枝分かれし、光の中へ圧縮された都市のように並んでいた。

【Ver.2.0:装備精錬・限界突破・潜在能力再抽選】

【Ver.3.0:ジェム刻印・ルーンスロット・セット共鳴】

【Ver.4.0:界庭ホーム・生産研究・個人倉庫】

【Ver.5.0:ペット契約・生物図鑑・絆オーラ】

【Ver.6.0:上位職・隠し職・職業覚醒・最終ダメージ】

【Ver.7.0:アーティファクト成長・レリックスロット・エッセンスシステム】

【Ver.8.0:パラゴン星盤・超越レベル・血統突破】

【Ver.9.0:ギルド技術・領地補正・パーティー共鳴】

【Ver.10.0:星契召喚・記憶の欠片・キャラクター命軌】

【Ver.11.0:機兵操縦・武装騎乗・ホーム格納庫】

【Ver.12.0:シーズン遺産・バージョン超越・無量階位】

バージョンツリーの下には、どのバージョンにも属していない機能がいくつか浮かんでいた。

【バージョン共通機能:イベントアーカイブ】

【バージョン共通機能:限定称号】

【バージョン共通機能:実績図鑑】

【バージョン共通機能:メール補填】

【検出結果:未来機能のデータは完全な状態で保存されています】

心臓が大きく跳ねた。

「データは完全……」

だからといって、今すぐ使えるとは限らない。

ジェム刻印を開く。

【機能は未初期化です】

【初期化条件:スロットを持つ装備を一つ入手する】

ペット契約。

【機能は未初期化です】

【初期化条件:契約可能な生命体と接触する】

界庭ホーム。

【機能は未初期化です】

【初期化条件:界庭コアを入手する】

アーティファクト、職業覚醒、パラゴン星盤、星契召喚、機兵操縦。

すべての機能は残っている。

だが、そのどれもが何もない場所から力を与えてくれるわけではなかった。

巨大な兵器庫を渡された代わりに、すべての扉を開ける鍵が、この世界のどこかへばらまかれているようなものだ。

システムが、俺のアカウント記録を読み込み始めた。

【購入済みコンテンツ:所有権を確認しています】

【累計課金額:1,864,320円】

反射的にウィンドウを閉じようとした。

間に合わなかった。

【月額パス購入回数:71回】

【シーズンパス購入回数:46回】

【限定キャラクター所有率:83.7%】

【有料コスメ所有数:219】

【有料倉庫拡張:最大】

「そこまで表示する必要はないだろ……」

返事はない。

186万4,320円。

十二年で割れば、一か月あたりの金額はそれほど大きくない。

プレイ時間で換算すれば、1時間あたりの娯楽費は映画を見るよりも安い。

俺は何度も、その理屈で自分を納得させてきた。

累計額がはっきり目の前に表示されると、急に説得力を失ったが。

【有料通貨残高:黒晶238,400個】

【ショップ状態:接続不能】

【課金機能:利用不可】

【月額パス残り有効期間:14日】

【購入済みコンテンツ:所有権を維持】

【現在実体化可能な有料アイテム:1】

一つだけ、武器のアイコンが光った。

簡素な金色の長剣。

【黎明の楔】

【所属バージョン:Ver.1.0】

【所有権認証:完了】

【実体は現在の世界に存在します】

【入手条件:未達成】

「実体が、この世界に……?」

説明欄を開く。

地図はない。

座標もない。

一文だけが表示されていた。

【現在の世界に存在する、対象アイテムの原型を発見してください】

つまり、俺が金を払って手に入れたものは消えていない。

しかし、アイテム欄から直接取り出せるわけでもない。

未来バージョンの武器、機兵、ホーム用家具、キャラクター命軌。

残っているのは、アカウント上の所有権だけ。

この世界で実体化させるには、対応する原型か素材を見つけなければならない。

いい知らせだ。

少なくとも、理論上は。

試しにショップを開いてみた。

見慣れた画面が、本当に表示される。

初心者パック。

レベル到達パック。

期間限定パック。

成長基金。

右上には、腹が立つほど目立つ赤い通知まで残っていた。

【初心者生存支援パック】

【価格:120円】

【内容:鉄の剣×1、初級HPポーション×5、ランダム転移スクロール×1】

俺は2秒間、それを見つめた。

以前なら、まず内容を計算し、攻略掲示板で効率を確認しただろう。

だが、今の俺には武器がない。

回復薬もない。

この森に何がいるのかも分からない。

120円では、まともな食事一回分にもならない。

ほとんど習慣だけで、《購入》を押した。

【決済サーバーへ接続しています……】

【接続失敗】

【利用可能な決済手段を検出できません】

【課金機能は現在利用できません】

「……」

もう一度押す。

【接続失敗】

さらにもう一度。

【購入処理を繰り返さないでください】

俺はその文字を見つめた。

課金できないことに、本物の恐怖を感じたのは初めてだった。

以前なら、決済に失敗しても、限定キャラクターを逃すだけだ。

今は違う。

決済に失敗すれば、俺は本当に剣を持てない。

ショップを閉じる。

システムの検出は、まだ続いていた。

【未来機能は封印されていません】

【現在の世界に対応素材が存在しない場合、性質の近い現地物質を自動識別します】

【警告:未来機能の使用は、現在の世界の発展経路を変化させる可能性があります】

【警告:一部機能はバージョン衝突を引き起こす可能性があります】

【警告:この世界では死亡後の復活を行えません】

視線が、最後の一文で止まった。

課金記録が残っていると知って生まれたわずかな安心が、完全に消える。

復活できない。

死亡時に経験値を失うだけではない。

装備の耐久度が減るだけでもない。

最寄りの町で再出現することもない。

死ねば、終わる。

俺は警告を閉じた。

もう一度開いた。

再表示すれば文章が消えているのではないかと、どこかで期待していた。

だが、警告はそのままだった。

森の奥で、枝の折れる音がした。

ぱきり。

小さな音だった。

それでも、全身が強張るには十分だった。

慌ててバージョンツリーを閉じ、基本ステータスだけを残す。

未来機能はすべて存在する。

削除されていない。

完全に封印されてもいない。

それでも今の俺は、HP35、基礎攻撃力7、武器もなく、復活すらできないレベル1の人間だった。

「……少なくとも、全部封印されたわけじゃない」

ゆっくりと言う。

自分で想像していたよりも、ひどい声だった。

勝利宣言などではない。

溺れている人間が、浮くかどうかも分からない板切れを、ようやく掴んだだけだ。

茂みの向こうで、二本目の枝が折れた。

何かが近づいている。

無理やり立ち上がり、腰へ手を伸ばす。

そこにあったのは、防御力など一切持たない普通のシャツだけだった。

武器はない。

ポーションもない。

帰還スクロールもない。

メールボックスの右上には、真っ赤な数字が残っている。

【未受領メール:5,237】

「補填の中に初心者用武器が入ってなかったら……」

茂みが勢いよく左右へ割れた。

暗闇の中で、暗赤色の双眸が開く。

牛ほどもある巨大な黒狼。

下顎は金属のような甲殻に覆われ、牙の隙間から腐食性の黒い唾液を垂らしていた。

ステータス画面が即座に情報を読み取る。

【鎧顎狼(がいがくろう)】

【レベル:6】

【基礎攻撃力:31】

【危険度:致命的】

俺は、狼の31という攻撃力を見た。

それから、自分の7という数字を見る。

画面の向こうにいる敵なら、まず巡回経路を観察する。

警戒範囲を計算し、側面から迂回すればいい。

だが、本物の狼に睨まれた瞬間、脳裏に浮かんだのは攻撃間隔でも回避経路でもなかった。

――こいつは、俺の喉を噛み切る。

その考えだけが、異様なほど鮮明だった。

鎧顎狼が前脚を低く構える。

後退しようとした俺の脚は、恐怖で半拍遅れた。

狼が飛びかかる直前。

すぐ近くから、か細い鳴き声が聞こえた。

「キィ……」

親指ほどの大きさしかない、銀色の長い尾を持つ虫のような生物が、倒れた枝の下敷きになっていた。

鎧顎狼から逃げようとして、押し潰されたらしい。

六本の細い脚が空しく土を掻き、半透明の翅は片方が破れている。

黒狼が顔を向けた。

より捕まえやすい獲物に気づいたのだ。

先にあの虫を食べるなら、俺は3秒から5秒ほど余分に逃げられる。

逃走を開始するには十分な時間だ。

考えるより先に、計算結果が頭に浮かんでいた。

虫を見捨てる。

それが、現時点で最も生存率の高い選択だ。

俺は一歩後退した。

小さな虫が、そのとき顔を上げた。

名前はない。

言葉もない。

銀白色の複眼に、人間が理解できるような表情が浮かぶとも思えない。

それでも、俺の足は止まった。

この十二年間、俺はゲームの中で多くのものを捨ててきた。

低レア装備。

期限切れの素材。

環境についていけなくなったキャラクター。

育成価値のないペット。

分解画面で確認を押せば、それらは新しいキャラクターをわずかに強くするための資源に変わった。

だが、枝の下でもがいているものは、カードではない。

苦しんでいる。

恐怖を感じている。

鎧顎狼が跳んだ。

罵声を上げるよりも先に、身体が動いていた。

「最悪の選択だ……!」

狼の爪が肩を掠める。

激痛が弾けた。

【11ダメージを受けました】

【HP:24/35】

今度はダメージ表示が出た。

だが、痛みは少しも軽くならない。

地面を転がり、木の根に背中を打ちつける。

片腕がほとんど動かなくなった。

着地した鎧顎狼が素早く向き直り、喉の奥から低い唸り声を上げる。

時間がない。

倒れた枝へ飛びつき、両手で幹を掴んだ。

動かない。

基礎攻撃力7。

俺の身体は、想像以上に役に立たなかった。

背後で、狼が地面を掻く音がする。

歯を食いしばり、肩を枝の下へ押し込んだ。

幹がわずかに持ち上がる。

銀色の尾を持つ虫が必死に這い出そうとした。

だが、後ろ脚の一本が木の棘に引っかかっている。

鎧顎狼が飛びかかった。

口から漏れる腐臭が分かるほど近い。

「早くしろ!」

虫を急かしているのか。

力のない自分自身を急かしているのか。

HPが少しずつ減っている。

傷口から流れた血が、腕を伝って土へ落ちた。

全身の力を使って枝を持ち上げる。

銀尾の虫が、ようやく隙間から転がり出た。

同時に、鎧顎狼の影が俺の背中を覆う。

避けられない。

脳裏に残ったのは、ひどく情けない考えだった。

さっきの120円を、もっと何度も押しておけばよかった。

銀尾の虫が、突然鋭い声を上げた。

「キィ――!」

尾の先から銀色の光が飛び出す。

細長い霊糸が森の中を走り、十数メートル先の木へ張りついた。

反対側が俺の手首へ絡みつき、一気に張り詰める。

視界の中で、バージョンツリーが自動的に展開された。

灰色だったVer.5.0のノードが、初めて光を放つ。

【契約可能な生命体を検出しました】

【対象:界索虫(かいさくちゅう)・幼体】

【レアリティ:N】

【戦闘能力:0】

【現在の状態:負傷・恐怖・感謝】

【Ver.5.0機能《ペット契約》の初期化条件を達成しました】

【捕獲を試みますか?】

「捕獲……?」

震えている小さな虫を見る。

選択肢の下には、後期バージョンで追加された注意書きがあった。

【ペットシステムは、自我を持つ生命体との強制契約を行えません】

【対象が自発的に受諾した場合のみ、契約が成立します】

鎧顎狼が再び跳んだ。

考えている時間はない。

「俺は、お前を一度助けた」

手を伸ばす。

「だから交換だ。お前も一度、俺を助けてくれ」

虫が俺の手の甲へ降りた。

銀白色の複眼が、ほんの一瞬、俺を見つめる。

契約画面が変化した。

【対象から契約受諾の意思を確認しました】

【契約条件成立】

【初めてのペットを獲得しました】

【《界索虫・幼体》がペット欄に登録されました】

【生物図鑑が解放されました】

【絆システムが解放されました】

【初めてのペット獲得により、基礎能力値がわずかに上昇しました】

【ペット共鳴:未解放】

次の瞬間、手首に巻きついた霊糸が強く引かれた。

俺の身体が地面から持ち上がる。

狼の爪が足元を薙いだ。

そのまま木々の間を飛び、何本もの枝をへし折りながら、遠くの岩壁へ一直線に引っ張られていく。

「止まれ! 待て!」

界索虫は、人間を優しく救出する方法など知らないらしい。

岩壁には、肉眼ではほとんど見つけられない亀裂があった。

銀色の虫は翅を畳み、その中へ飛び込んでいく。

手首に巻きついた霊糸は、少しも緩まない。

「俺は、その隙間には入れない!」

警告は遅すぎた。

岩壁が急速に迫る。

反射的に腕で頭を守った。

だが、予想していた衝撃は訪れない。

身体が冷たい膜を突き抜けた。

短い浮遊感。

次の瞬間、石造りの床へ叩きつけられる。

傾斜した通路を十数回転し、最後に冷たい石柱へ背中から激突した。

【落下ダメージを3受けました】

【HP:21/35】

「今の感謝は取り消す……」

床にうつ伏せになったまま、しばらく立ち上がれなかった。

背後の岩壁は、すでに元へ戻っている。

鎧顎狼の咆哮も聞こえない。

ひとまず、安全だ。

界索虫が俺の頭へ降り、得意げな声を上げた。

「キィ」

「自分では、完璧に助けたつもりなのか?」

「キィ」

「次は着地方法も先に教えてくれ」

小さな虫は、銀色の尾で俺の頭を軽く叩いた。

気のせいでなければ、俺の要望を聞き入れるつもりはなさそうだった。

周囲は完全な暗闇だ。

石柱に手をつきながら立ち上がり、基本照明魔法を呼び出す。

レベル1の《漂流者》に攻撃スキルはない。

だが、ほとんど魔力を消費しない生活魔法なら一つだけ使えた。

掌の上に、弱い白光が灯る。

通路の両側で、炎が順番に点火した。

暗闇が退いていく。

古びた石壁。

折れた鐘の振り子。

埃に覆われた六腕の巨人の浮き彫り。

そして、見覚えがありすぎる長い回廊。

十二年間。

俺は画面越しに、ここを197回見てきた。

いや。

攻略動画や検証映像、失敗報告の画像まで含めるなら、197回どころではない。

「ここは……」

古い鐘の音が、回廊の奥から響いた。

ゴォン――。

重い音が石壁を抜け、俺の胸の内側まで震わせる。

青白い通知が表示された。

【ペット専用入口を検出しました】

【この入口は現在のワールドルールでは未開放です】

【互換処理を実行しています……】

【互換処理完了】

【レベル判定を回避しました】

【戦闘力判定を回避しました】

【隠しエリア《灰鐘遺跡内部》へ進入しました】

【ダンジョン《第零演算場》を発見しました】

【現在の進入方法はVer.1.0の対応範囲外です】

【実行可能な試練ルールを検索しています……】

【試練ルールを確認しました】

俺は、その場から動けなかった。

界索虫が頭の上から飛び降り、不思議そうに周囲を回る。

あの狼から逃げている最中より、洞窟へ入って安全になった今のほうが俺の顔色が悪い理由を、こいつは理解していないらしい。

回廊の先にあった十二の炎が、同時に消えた。

暗闇の中から、岩同士が擦れ合う音が聞こえる。

一対の赤い目が開いた。

続いて、二対目。

三対目。

六本の腕が、順番に地面へつく。

画面の中で俺を197回殺した灰色の巨人が、鐘楼の瓦礫から立ち上がった。

ただし、今の俺は《黎明の楔》を持っていない。

ジェムもない。

ポーションもない。

レベル上限まで育てたキャラクターもいない。

再挑戦ボタンも存在しない。

巨人の頭上に、新しい情報が浮かび上がった。

【灰鐘の門番・原典型】

【レベル:???】

【基礎攻撃力:計測不能】

【初回クリア記録:なし】

俺は巨人を見た。

次に、自分のステータスを見る。

【レベル:1】

【基礎攻撃力:7】

【HP:21/35】

唯一の慰めは、つい先ほど解放されたペット欄だけだった。

【現在のペット:界索虫・幼体】

【戦闘能力:0】

【絆:面識なし】

「……」

界索虫が俺の肩へ降りた。

銀色の尾が、楽しそうに揺れている。

俺は数秒間、黙っていた。

「さっき、一度だけ助けてくれとは言ったけどな……」

灰色の巨人が六本の腕を広げた。

遺跡全体が震え始める。

「一番会いたくない相手のところまで、送り届けてくれなくてもよかったんだぞ」

二度目の鐘が鳴った。

ゴォン――。

【特殊クエストが発生しました】

【クエスト名:《灰鐘の試練》】

【目的:試練終了まで生存する】

【制限時間:10分】

【報酬:不明】

【失敗時ペナルティ:死亡】

カウントダウンが始まる。

09:59。

09:58。

《死亡》という二文字を見つめる。

指の震えが止まらなかった。

それでも、俺は深く息を吸い、無理やり顔を上げた。

レベル不明。

攻撃力は計測不能。

正面から戦った場合の勝率は、計算する意味すらない。

だが、クエストの目的は撃破ではなかった。

試練が終わるまで、生き残ること。

それだけだ。

「ルゥ」

こいつに、もともと名前があったのかは分からない。

銀色の尾を揺らす小さな姿を見た瞬間、なぜかその響きが浮かんだ。

界索虫――ルゥが、小さく身体を傾ける。

「もう一度、俺を引っ張れるか?」

尾の先から、銀色の霊糸がゆっくりと伸びた。

カウントダウンは減り続けている。

09:51。

灰色の巨人が、最初の一歩を踏み出した。

俺は霊糸を握り締める。

ここは画面の中ではない。

課金はできない。

復活もできない。

代わりに《再挑戦》を押してくれる人間もいない。

それでも、ルールは残っている。

ルールが存在するなら、必ず利用できる場所がある。

「それじゃあ、始めよう」

十二年間、誰一人として攻略できなかったダンジョンを見据える。

「第198回攻略だ」

はじめまして! ひろい海です。

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます!

今日も、仕事を辞めたうえに家まで追い出されたニートとして、なんとか頑張っています(笑)。

本作は、私にとって初めて書いた小説です。

数値インフレや複雑すぎる育成システムによって、だんだん壊れてしまったゲームたちへの思いから、この物語を書き始めました。

戦闘力の壁も、期間限定パックも、ガチャも、全部運営やゲーム設計側の罠だと分かっている。それなのに、好きなキャラクターや「あと少しで勝てる」という誘惑に負けて、つい課金してしまう……。

そんな自分が、本当に憎い!(笑)

まだまだ未熟なところも多いと思いますが、感想やコメント、いいね、評価、ブックマークなどをいただけると、とても励みになります!

物語や設定についてのご意見、気になった点、「こんなシステムや展開を見てみたい!」というアイデアも、ぜひ聞かせてください。いただいた感想はすべて読んで、今後の執筆の参考にさせていただきます。

これからも『バージョン・ブレイカー』を、どうぞよろしくお願いいたします!

ひろい海でした!

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― 新着の感想 ―
最初は、第1章から設定が洪水のように押し寄せてきて、正直ちょっと圧倒されました(笑)。 でも、そこを乗り越えて読み進めていくうちに、物語がどんどん面白くなってきて、続きがすごく楽しみになりました! …
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