第七章 三日間の仮宿
鐘が鳴った瞬間、冒険者ギルドの中から音が消えた。
受付の職員は羽根ペンを止め、報酬のことで言い争っていた二人の冒険者も同時に窓の方を振り返る。
籠に戻されたばかりのアルカまで羽毛を逆立て、外を見上げていた。
低い振動が壁を抜け、床を伝い、卓上の空のカップをかすかに震わせる。
そして、二度目の鐘が鳴った。
ゴォン――。
最初の一打よりも重い。
ミアの手は、すでに《黎明の楔》の柄にかかっていた。
「今のは、中央の大鐘か?」
「ええ」
「今、鳴るものなのか?」
「鳴るはずがない。どんな理由があっても」
ミアはアルカが運んできた手紙を取り上げた。
そこには、はっきりと書かれている。
中央の大鐘に原因不明の振動あり。点検が完了するまで、決して起動させないこと。
広場から慌ただしい足音が近づいてきた。
灰白色の外套をまとった教会騎士たちが人混みを抜け、ギルドへ入ってくる。
先頭にいたのは、大柄な中年の男だった。
短く切った濃灰色の髪には白いものが目立ち、外套の襟元には黒鉄の鐘をかたどった徽章が留められている。
左耳から首筋にかけて、古い傷痕が走っていた。
「中央鐘塔を封鎖しろ」
男が声を張ることはなかった。
それでも、周囲の騎士たちは即座に動き出す。
「中央区へ通じる三本の通りを閉鎖。西の詰め所にも知らせろ。原因が判明するまで、誰一人として大鐘の機関室へ近づけるな」
「はっ!」
二人の騎士がギルドを飛び出していく。
「もし、三度目が鳴ったら……?」
受付の職員がおそるおそる尋ねた。
男は窓の向こうにそびえる、灰白色の中央鐘塔を見上げた。
「そのときは、通りを何本か塞いだ程度では済まん」
誰も続きを聞こうとはしなかった。
やがて男はミアと、その手に握られた手紙に気づいた。
「ミア」
「グレン様」
ミアが手紙を差し出す。
「行方不明になっていた鐘羽鳥を保護しました。アルカが運んでいた手紙です」
グレンはすぐには手紙を開かなかった。
先に籠の中へ目を落とす。
アルカの翼には新しい包帯が巻かれていた。見知った顔に気づいたらしく、小さく鳴き声を上げる。
「どこで見つけた?」
「西側の廃鐘楼です」
「あそこは十年以上前から閉鎖されている」
「壁の崩れた場所から入り、最上階で見つけました」
「アルカは、どれほど中にいた?」
「十数分ほどです」
グレンが顔を上げた。
「行方が分からなくなってから八日が経っている」
「だからこそ、あの鐘楼には異常があります」
グレンの視線が俺へ移った。
破れた上着から何も下がっていない腰元へ、そして肩にしがみつくルゥへ。
ルゥは俺の首の後ろへ隠れ、半分だけ顔を出した。
「そちらは?」
「レイジです」
ミアがわずかに間を置く。
「廃鐘楼から脱出できたのは、彼の協力があったからです」
グレンは数秒ほど俺を見つめた。
「場所を変えるぞ」
◇
暁鐘教会は、広場の北側に建っていた。
教会というより、堅牢な石造りの砦に近い。正面入口の上にも神像はなく、太陽の紋様に囲まれた一つの鐘が掲げられているだけだった。
内部の廊下には一定の間隔で、縄や歯車、鐘を整備するための器具が置かれていた。
通されたのは、小さな会議室だった。
中央に細長い机が一つ。
グレンは向かい側の椅子に腰を下ろしたが、ミアは扉のそばに立ったままだ。
アルカは教会の者に預けられ、別室で診察を受けている。
「グレン・ハーヴェル」
男はまず自分の名を告げた。
「暁鐘教会の守鐘官だ。これから尋ねることは、冒険者ギルドの依頼とは関係がない」
「分かりました」
「名は?」
「久瀬玲司」
「どこから来た?」
「遠い場所です」
「どれほど遠い?」
「今のところ、戻る方法が見つからない程度には」
「それは距離ではないな」
「俺にとっては、似たようなものです」
グレンはアルカが運んできた手紙を机の上に広げた。
「ミアの話では、お前には他の者に見えない文字が見えるらしいな」
「はい」
「その文字が、鐘楼の異常を教えたのか?」
「一部だけです」
「話せ」
「あの鐘楼の中では、時間が連続して流れていませんでした。一つの部品が誤った位置で止まり、装置全体が元に戻れなくなっていた」
「そこで、見たことのない道具を使った」
「はい」
「その道具が、部品を元の位置へ戻したのか?」
「そう考えてもらって構いません」
「道具はどこにある?」
「今はしまってあります」
「もう一度使えるのか?」
「使えます。ただし、続けては使えません」
「どこで手に入れた?」
「文字と同じ場所です」
グレンの指が、机を一度だけ叩いた。
「お前が戻れなくなったという場所か?」
「はい」
グレンはミアへ視線を移した。
「実際に見たのか?」
「はい」
「その道具が中央の大鐘の異常を引き起こした可能性は?」
「否定できません」
「彼の身元を保証できるか?」
「できません」
「では、お前はこの男を信用しているのか?」
ミアはすぐには答えなかった。
右手は、今も《黎明の楔》の近くに置かれている。
「分かりません」
やがて、ミアはそう答えた。
「彼は知るはずのないことを知っています。隠していることもあります」
グレンは続きを待った。
「ですが、鐘楼の中で、彼には一人で逃げる機会がありました」
「どういう意味だ?」
「あの道具を使えば、自分とルゥ、アルカだけなら脱出できた。私は対象に含まれていませんでした」
「それで?」
「彼は使いませんでした」
ミアの声は静かだった。
「その場に残って、別の方法を選びました」
グレンは傷のない右耳を、わずかにミアの方へ向けた。
「だから信用すると?」
「私が信用するのは、自分の目で見たことだけです」
「それで十分だ」
グレンは再び俺を見た。
「久瀬玲司。中央の大鐘に関する調査が終わるまで、ベルハイムを離れることは許可できない」
「どうしても離れると言ったら?」
「ミアが止める」
俺は扉のそばを見た。
ミアは否定しなかった。
「今のところ、離れるつもりはありません」
「結構」
グレンは手紙を畳んだ。
「教会の鐘羽鳥を救出し、ミアが廃鐘楼から生還する手助けをした。その礼として、三日間の部屋を用意する」
「三日後は?」
「調査が終わっていれば、どこへ行くかはお前の自由だ」
「終わっていなければ?」
「宿代が発生する」
どうやら、どの世界でも無料には期限があるらしい。
「道具と文字については、改めて聞かせてもらう」
「もう少し信用できそうな説明を用意しておきます」
「信用できそうかどうかはどうでもいい」
グレンが席を立つ。
「事実かどうか、それだけだ」
彼が扉へ向かったところで、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。
若い騎士が部屋へ飛び込んでくる。
「守鐘官殿、中央鐘塔の封鎖が完了しました。侵入の形跡はなく、見張りの者も全員無事です」
「起動レバーは?」
「誰も触れていません」
「確認したのか?」
「はい。起動レバーが下りていない状態で、大鐘がひとりでに鳴ったようです」
グレンの表情がわずかに険しくなった。
「何度だ?」
「二度です。それ以降は動いていません」
「監視を続けろ。教会の者も含め、誰にも起動を試させるな」
「はっ!」
若い騎士が退出する。
グレンはアルカの運んできた手紙を手に取った。
「今日はここまでだ。ミア、お前は腕の傷を診てもらえ。レイジは部屋まで案内させる」
グレンが去ったあと、俺はようやくミアが左手で右腕を押さえていることに気づいた。
制服の袖口に、乾いた血がにじんでいる。
「怪我をしていたのか?」
「かすり傷よ」
「いつ?」
「鐘楼が崩れたとき」
「どうして黙ってた?」
「優先するほどの怪我じゃなかったから」
ミアは扉のそばを離れ、俺の横を通り過ぎる。
そこで一度、足を止めた。
「グレン様は、ひとまずあなたを拘束するつもりはないみたい」
「君に礼を言うべきか?」
「言うべきね」
「ありがとう」
ミアは少しだけ意外そうに俺を見た。
「私は、見たことを話しただけよ」
「それでも同じだ」
彼女は答えず、扉を開けて治療室の方へ歩いていった。
◇
部屋まで案内してくれたのは、腰から大量の鍵を下げた女だった。
五十歳ほどだろうか。茶色い髪には白いものが混じり、袖は肘までまくられている。前掛けには小麦粉がついていた。
「エッダだよ」
歩きながら、女は名乗った。
「宿舎と厨房と倉庫、それから廊下に泥を持ち込む若い騎士どもの面倒を見てる」
「最後の一つは、正式な仕事じゃない気がします」
「だから誰も給金を払ってくれないのさ」
教会の裏庭を抜ける。
巡礼者用の宿舎は、三階建ての古い石造りだった。外壁には黄色くなり始めた蔦が這い、入口には洗われるのを待っている泥だらけの長靴が並んでいる。
「三階の一番奥」
エッダは鍵束から真鍮の鍵を一本外し、俺へ渡した。
「三日だけだよ。朝飯は最初の鐘が鳴ったあと。夕飯は日が沈む前。それを過ぎたら何もない」
「お湯は?」
「中庭から自分で運ぶ」
「風呂は?」
「廊下の突き当たり」
彼女の目がルゥへ向いた。
ルゥは俺の肩にしがみつき、エッダの腰で揺れる鍵束をじっと見ている。
「それは何だい?」
「ルゥです」
「名前を聞いたんじゃないよ」
「少し説明しにくくて」
エッダは俺の顔を見た。
「最近の若い子は、どうして揃いも揃って『説明しにくい』で済ませようとするんだい」
「ミアもそう言ったことが?」
「あの子が小さい頃、厨房の窓を割ったときにね」
覚えておこう。
エッダが部屋の扉を開ける。
中にあるのは、細いベッドと木の机、椅子が一脚。それに、壁際へ置かれた洗面用の銅盆だけだった。
窓は街の中心に面していて、ここから中央鐘塔の上半分が見える。
「ベッドは右側が少し軋む。戸棚は持ち上げながら閉めること。夜に蝋燭を何本も使うんじゃないよ」
「分かりました」
「あと、虫を布団に入れないこと」
「普通の虫じゃありません」
「なら、普通じゃないやり方で布団の外にいさせな」
エッダは畳んだ毛布をベッドへ置き、部屋を出ようとした。
扉の前で足を止める。
「厨房にスープが少し残ってる」
「夕食の時間は過ぎたんじゃ?」
「だから残り物だよ」
「いくらですか?」
「明日、中庭の小麦粉を二袋、倉庫へ運びな」
そう言って、彼女は扉を閉めた。
ルゥが俺の肩から飛び立ち、枕の真ん中へ着地する。
「キィ」
「今の話を聞いてただろ。布団に入るな」
「キィ」
少しだけ布団の中へにじり寄った。
「せめて、あの人が遠くへ行ってからにしろ」
ルゥは即座に潜り込み、半透明の翅だけを外へ残した。
◇
スープに入っていたのは、数枚の野菜と柔らかく煮込まれた豆だけだった。
それでも温かかった。
最後の一口を飲み終え、椅子の背にもたれる。
窓の外では、松明を掲げた者たちが何度も通り過ぎていた。中央鐘塔へ続く道は封鎖され、灰白色の外套をまとった教会騎士たちが各所に立っている。
三度目の鐘は鳴らなかった。
静かになると、肩や手のひらの痛みがかえってはっきりした。
上着の裾は瓦礫に裂かれ、袖口には鐘楼の埃が残っている。粗末な木の棍棒は、完全に廃墟の一部になった。
椅子にもたれたまま、無意識に右手を持ち上げる。
「ログアウト」
何も起こらない。
「キャラクター選択画面に戻る」
木の机も、空になった器も、壁に揺れる蝋燭の影も変わらなかった。
ルゥが布団から顔を出し、しばらく俺を見つめてから、またゆっくりと引っ込んでいく。
片づけていなかった空の容器。
待機ランプの灯ったモニター。
半分だけ残った缶コーヒー。
アップデート直前の部屋が、妙にはっきりと脳裏に浮かんだ。
スマートフォンは、今も机の横で充電されているはずだ。
けれど、今夜のうちに俺がいなくなったと気づく人間を、一人も思いつけなかった。
眉間を指で揉み、ステータス画面を開く。
【名前:久瀬玲司】
【レベル:2】
【職業:漂流者】
【HP:43/43】
【基礎攻撃力:9】
【武器:なし】
【称号:《剣を抜かぬ攻略者》】
武器欄は空白だった。
続いて、通貨の項目を開く。
【ゴールド:94,751,820】
【黒晶:238,500】
【現地通貨:銅貨21枚】
システムメニューへ移る。
宝石刻印、職業覚醒、星契召喚、機兵システム。
ほとんどのアイコンは暗い灰色に沈んだままだ。
《界庭》を選択する。
【界庭システム:解放済み】
【現在の状態:未起動】
【現地コア同期:1/3】
アイテム欄にある《界庭コアの欠片》も一つだけ。
灰鐘の試練、その先の領域はまだ開放されていない。残り二つの在り処も不明だった。
《界庭》のアイコンが再び暗くなる。
視界の隅には、もう一つ数字が残っていた。
【未受取メール:5,235件】
数秒だけ眺め、画面を閉じる。
今夜、五千通を超えるメールを相手にする気にはなれなかった。
扉が二度、ノックされた。
ルゥが布団から飛び出し、尾の先に銀色の糸を集める。
「攻撃するなよ。この扉は壊したら弁償だ」
机の上の財布を手に取り、扉を開ける。
廊下にミアが立っていた。
肩当てと外套は外し、濃紺の教会服だけを身につけている。右腕には新しい包帯が巻かれ、普段は高い位置で束ねている金髪も少し緩んでいた。
疲れのせいか、灰青色の瞳はいつもより柔らかく見える。
「傷は?」
「明日には動けるわ」
「つまり、今日は動くとまずい」
「だから今日は剣を抜いていないでしょう」
ミアは部屋の中へ目をやった。
ルゥはベッドの端で、いつでも牽引糸を放てる姿勢を取っている。
「その子、いつもそんなに警戒してるの?」
「訪ねてきた人が食べ物を持っているかどうかによる」
「私は歓迎されていないみたいね」
「今のところ、攻撃されていないだけましだ」
ミアは小さく息を吐いた。
「グレン様からの伝言よ。明日の昼までは中央鐘塔に近づかないこと。調査が進んだら、また私たちから話を聞くそうよ」
「私たち?」
「私も廃鐘楼にいたもの」
「君はもう疑いが晴れたのかと思ってた」
「教会の服を着ているからといって、必ず真実を話すとは限らないわ」
ミアは俺をまっすぐに見た。
「一度誰かを助けたからといって、怪しくなくなるわけでもない」
「わざわざ俺に聞かせているように思えるな」
「あなたに言っているのよ」
「ほかには?」
彼女の視線が俺の腰へ落ちた。
「武器は?」
「あの木の棍棒なら、鐘楼に置いてきた」
「折れたの?」
「見事に」
「予備は?」
「ない」
「これからも木の棒で戦うつもり?」
「ベルハイムの木が許してくれるなら」
「木の方が嫌がるでしょうね」
ミアは少し考えた。
「明日、ベレン古道具店へ連れていくわ」
「信用できる店なのか?」
「店主は信用できないけど、売っている物はたまに信用できる」
「もっとまともな店はないのか?」
「あるわ」
ミアは俺の手の中の財布に目をやった。
「でも、あなたの予算じゃ無理」




