第88話:システムのライフサイクル、作って終わると劣化が始まる
翌日。
ギルド長の執務室には、しんと静まり返った空気が満ちていた。
休日の余韻というものは、始業を告げる鐘の音とともに、朝の冷気の中へあっさりと溶けて消える。それが組織という生き物の習性であり、そうあるべきなのだろう。
ラテリスは部屋の奥の執務机ではなく、俺の対面のソファに腰を下ろしていた。上座から見下ろすのではなく、同じ目線でテーブルを挟む。彼女が自ら選んだ、フラットな対話のための配置だ。
俺の隣には、ヴェリサが控えている。権威を排したこのトライアングルこそが、今の第7支部に必要な問題を解きほぐすための陣形だった。
「まずは、現在の査定基準がどのような工程を経て設定されたのか。その経緯から確認させてください」
問題解決の基本は、現状の可視化と根本原因の特定だ。建物の壁にひび割れが生じているなら、表面を塗料で誤魔化すのではなく、設計図の基礎構造まで立ち返って負荷の偏りを確認する必要がある。
「発端は、本部から展開されたチェックリストを拝見したことでした」
ラテリスは、背筋を伸ばしたまま話し始めた。
「あの仕組み自体は、最低限の品質を担保するものとして、理にかなっていました。ですが、私はそれだけでは不十分だと考えたのです。『問題なし』とされた同じ素材でも、傷の少ない毛皮と戦闘痕の残る毛皮では、状態には明確な差があります。それらを一律に同じ価格で評価することは、品質向上への動機付けを奪うことになると判断しました」
彼女の言い分は、経済のセオリーとしては間違っていない。
「私は以前、実家の領地経営に携わっておりましたが、そこで扱う農作物や織物には厳格な等級が存在しました。優れた品には高い価値を、劣る品はそれ相応の価値を付けています。ゆえに、ギルドの素材にも品質に応じた等級を設けるべきだと考えたのです」
なるほど。ラテリスの思考の出所はそこか。
品質によって価値を分ける。領地経営における品質管理の手法を、冒険者ギルドの素材買取に横展開したわけだ。帳簿上の数字を最適化しようとすれば、自然とその結論に行き着くのだろう。
「等級制度を導入するにあたり、私は最初に人員の整理を行いました」
彼女は、淡々と事実を述べ始めた。
「当時の査定所には10名の職員がおりましたが、大半が惰性で業務を行っている有様でした。一つの素材の鑑定に無駄な時間をかけ、査定待ちの列を生み出している者。目視による確認手順を怠り、規定の作業を守らない者。そうした不適格者を排除した結果、最終的に3名が残りました」
着任早々の7割のリストラ。容赦がないな。
だが、腐敗し停滞した組織を動かすための荒療治としては、一つの手段ではある。少なくとも彼女は、自身の目に映る『無駄』を明確な基準で切り捨てたのだろう。
「残った3名は、勤務態度と業務の処理速度に問題がなく、能力的に信頼できました。その3名に、素材の品質をAからCの3段階に分ける、新たな等級基準の策定を指示いたしました」
「その3人が、実際に現場の基準を作ったわけですね」
「はい。提出された基準を確認しましたが、体系的に整理されており、問題はないと判断いたしました」
「なるほど。基準の策定工程には、特に問題はなかったということですか?」
俺が確認のために念を押すと、ラテリスはわずかに視線を下げた。伏せられた長い睫毛が、白い頬に薄い影を落とした。
「問題と言えるかは分かりませんが、その中の1名から、少々業務外の接触がありました」
「業務外、と言いますと?」
「基準の策定期間中、何度か食事への誘いを受けました。個人的な付き合いは業務に不要ですので、全てお断りしましたが──」
彼女は、まるで今日の天気を報告するような平坦な声で続けた。
「社交界におきましても、似たような誘いを受けることは幾度となくございました。その者の意図がどこにあるのかは、私にも理解できていたつもりです」
つまり、好意を持たれていたことは自覚していたということらしい。
「ですが、どのような感情を抱いていようとも、専門家として提出された基準には問題ないと判断しました」
俺は、思わず息を吐き出しそうになるのを堪えた。
ラテリスは、相手の感情を判断から外すことで客観性を保っているつもりだったのだろう。
だが、相手の側も同じように感情を排除できるとは限らない。好意を持った相手の期待に沿う方向へ、判断が傾いていた可能性は十分にある。彼女が求めるであろう『より厳格な基準』を、自ら先回りして形にしていた可能性は考えられる話だ。
「あの、ラテリスさん」
どう指摘すべきか、その言葉の選び方を思案し始めた矢先。隣からヴェリサの声が上がった。
「好意を持った相手に対して、その方が完全に客観的な助言をできたとは、限らないのではないでしょうか?」
真っ直ぐな視線が、ラテリスに向けられている。
「相手に良く思われたいという感情は、人の判断を鈍らせます。ラテリスさんが厳格な基準を望んでいると感じ取れば、それに迎合する形で、意図的に基準を上げた可能性があると考えられます」
それは、直球の指摘だった。
だが、組織の構造的な欠陥を正すには、これくらい率直な言葉が必要なのも事実だ。
ラテリスは、瞬きすら忘れたようにヴェリサを見つめていた。
「私は当時、業務と感情は、分離できるものだと考えておりました。ですが人は、私が思うほど単純には割り切れない生き物だということでしたね」
また一つ、彼女の前提が崩れたようだ。自分は感情を排除できても、相手がそうとは限らない。昨日の街歩きで学んだことの延長にある話だが、自分の判断の土台に直接関わる問題として突きつけられたのは、これが初めてだったのだろう。
「美しく生まれたことが、正確な情報収集の妨げになってしまいました」
ラテリスは、真剣な面持ちだった。
「今後は、私に好意を持たない人間にのみ意見を求めるべきなのでしょうか。ですが、それをどう見分ければいいのか、今の私には判断がつきません。容姿に恵まれすぎると、業務上の障害になってしまうのですね」
俺とヴェリサは、反応に困り顔を見合わせた。
嫌味でも自慢でもなく、純粋な事実の確認としての嘆きだった。ラテリスの極端な論理展開は、根本的な部分では変わっていないらしい。
深刻になりかけていた空気が、彼女の発言で妙な具合に腑抜けてしまった。俺は咳払いを一つして、話の軌道を元に戻した。
「まあ、人の感情が判断を歪めることは、往々にしてあるものです。好意を持たなくても、相手が自分の評価を握る上司であれば、同じようなことは起こりえますからね。重要なのは、その基準が現場の運用に耐えうるかどうかの検証が不足していたということです」
今回の問題の本質は、基準を策定したプロセスで現場の声を拾い上げる手順が欠落していたことだ。誰が作ったかではなく、何を参照して作ったか。そこを正さなければ、同じ構造の問題は形を変えて繰り返される。
「査定所の鑑定士たちに、直接話を聞いてみましょう。余裕のある時間帯は把握されていますよね?」
---
別館の査定所は、独特の空気に満ちていた。
薬草の青臭さ、魔物の毛皮が放つ獣臭、そして微かな土の匂い。それらが混ざり合い、ダンジョンから持ち込まれた素材が集まる場所であることを物語っている。
バックヤードでは数人の職員が鑑定業務を行っていた。
奥の作業机では、中年のドワーフの男が書類に目を通している。第4支部から補充要員として着任した熟練の鑑定士だ。壁際の棚の前では、若い男の鑑定士が2人、査定済みの素材を整理していた。
「お手すきの方に、少しお時間をいただきたいのですが、よろしいですか?」
ラテリスの声に、バックヤードの空気が一瞬で張り詰めた。鑑定士たちの手が止まり、全員の視線が彼女へと集まる。
「査定基準の再調整を行うにあたり、現場の運用について、皆さんの意見を伺いたいのです」
その言葉に、鑑定士たちの間に微かな動揺が走ったように見えた。ラテリスが現場に意見を求めるのは、着任時に基準策定を指示した時以来なのかもしれない。
だが、その時は『作れ』という命令だった。今は『聞かせてほしい』という問いかけだ。同じように見えて、その姿勢は根本的に異なる。
「現在の素材に対する等級の運用について、現場の率直なご意見を聞かせていただけませんか。問題点があれば、教えていただきたいのです」
彼女が問いかけると、3人の鑑定士が集まってきた。ドワーフの鑑定士が代表するように口を開く。
「等級制度そのものは、品質管理の手法としては決して間違ってはおりませんよ。私自身、第4支部でも似たような基準で査定を行うことはありましたのでね」
第4支部は職人街にある支部なので、高品質な素材の需要も供給も豊富な環境なのだろう。
「問題としては、この第7支部の環境との相性でしょうか。ご存知の通り、ここに出入りする冒険者の大半はEランクやFランクの初級者層です。彼らの技術や装備では、素材をほぼ無傷で持ち帰ることは難しい。結果として、この厳格な基準を一律に当てはめると、持ち込まれる素材の半分強がB級以下という評価になってしまっていますね」
つまり、ターゲット層のミスマッチだ。
初級者向けの市場に対して、熟練者向けの厳格な品質基準を持ち込んでいた。提供側である冒険者の稼ぎが恒常的に圧迫され、結果として直接取引への流出を招いたのだ。
「なるほど。ありがとうございます」
ラテリスは頷くと、残りの2人に視線を向けた。
「あなた方も、現場で感じていたことがあれば、お聞かせください」
一人が、恐る恐るという様子で口を開く。
「正直に言うと、運用が厳しすぎると感じてはいました。ですが、等級分けはギルド長の方針でしたし、それの基準を作ったのも僕たちです。いまさら不満を言うわけにもいかないなって思ってました」
現場は問題を感じていたが、声を上げられなかった。ラテリスの指示で基準を作ったのは彼ら自身であり、それはギルド長の方針でもある。その二重の縛りが、現場からのフィードバックを完全に封じていたわけだ。
仕組みとしては看過できない欠陥だ。改善の声が上がらないシステムは、自浄作用を持たないからな。
「等級化されたことで、現場の運用に変化はありましたか?」
「僕たちの作業自体に影響はありません。でも、大半の常設依頼は加工に耐えうる『最低限の品質』を満たしていれば納品可能なので、等級をつける必要性を感じたかというと、そうではなかったですね。依頼主が求めているのは最高品質の素材ではなく、一定の基準を満たした素材ですから」
「では、通常の依頼に品質の等級は必要ない、ということでしょうか」
「そうなりますかね。なので、大半の冒険者にとっては報酬を下げられるだけ、という結果になってしまっていました」
顧客である依頼主の需要とも乖離していたわけだ。
依頼主が求めていない過剰な品質を追求し、そのしわ寄せを末端の冒険者に押し付けていた。
俺の世界でも、多機能と高品質を追い求めるあまり、安価で必要十分な機能を持つ海外製品にシェアを奪われていったメーカーがいくつもあった。技術者の自己満足が顧客のニーズを追い越してしまった結果陥る、行き過ぎた品質至上主義の罠だ。
現場の声は、明確だった。基準は現状の組織体制に適合していない。
等級化という試み自体は、品質管理の手法として間違ってはいなかった。やってみなければ分からないことは、どんな組織にもある。問題は、導入した後に現場の声を拾い上げる仕組みがなかったことだ。運用開始後に一度でもフィードバックを行っていれば、基準と現場の乖離にはもっと早く気づけたはずだった。
ラテリスは、自身の足元を見つめたまま、微かに唇を引き結んでいる。
自分の下した合理的な判断が、結果的に組織の首を絞めていたという事実。それを突きつけられ、自ら認めることは、経営陣として苦い毒を飲み込むような作業だろう。
彼女は顔を上げると、鑑定士たちに告げた。
「状況は理解しました。私の現場に対する認識不足により、多大な負担を強いていたこと、お詫びいたします」
深く頭を下げたギルド長の姿に、鑑定士たちは戸惑いの表情を浮かべた。
「近日中に、現在の等級基準の一律適用を廃止します。それ以降の査定は、以前のチェックリストに基づいた、要件を満たしているかどうかの判定に戻すこととします」
迷いのない意思決定だった。過去の投資や自身の決定に固執することなく、即座に現状の運用を取り下げる。サンクコストに囚われない彼女の決断力の高さは、なかなかできることではない。
「ですが」
ラテリスは言葉を継いだ。
「一部の依頼において、特定の高水準な素材が要求されるケースがあることも事実です。そうした『品質指定のクエスト』に限り、現在の等級基準を参考資料として運用します」
彼女のその言葉に、俺は感心した。
ただ白紙に戻すだけではない。失敗の産物となった基準を無に帰すのではなく、必要な場所にだけ適用するという落とし所を見つけたのだ。
俺たちは鑑定士たちに礼を言って、査定所を後にした。
---
ギルド長の執務室に戻った俺たちは、査定基準について話を続けた。
「素材の等級化は廃止し、元のチェックリストに戻す。品質指定のクエストに限り、等級基準を参照する。この方針で進めましょう」
俺が結論を述べると、ラテリスは頷いて、口を開いた。
「私は、魔石の等級については現行のままで問題ないと思っています。ヴェリサさんはどうお考えになりますか?」
「魔石の等級判定は元からあるものですし、これは見本との比較による判定ですので、鑑定の仕組みとして機能しています。こちらはそのままで問題ないと思います」
魔石の鑑定は、素材の査定とは根本的に仕組みが異なる。鑑定士が魔石に魔力を通すと、内部に蓄積された魔力の量を肌感覚で読み取ることができるらしい。事前に各等級の見本となる魔石で感覚を理解しておき、それとの比較で等級を判定する。いわば、自分の体を測定器代わりにしているようなものだ。
温度計の目盛りを体で覚えておいて、触れるだけで何℃かが分かる、という感覚に近いのだろうか。俺には魔力がないので実際に試すことはできず、正直なところその感覚は想像の域を出ない。個人的には魔力の測定は魔導具でできないのかと思うのだが、意外と簡単にはいかないらしい。
「そうですね。私も実際に試してみましたが、魔石の等級判定は、鑑定士の感覚に依存します。理想としては、魔力量を数値化して属人性を排除したいところですが、現時点では見本による理解が最も合理的な手法なのでしょう」
ゲームのようにマジックパワーを数値化することはできないのだ。バッテリーのように使える物なのに、便利なようで不便なものだな。
「お二人とも、ありがとうございました。素材の査定基準については本日の方針で確定としまして、具体的な運用の切り替えは後日進めていきましょう」
一区切りついたところで、ラテリスは立ち上がった。
そろそろ昼の時間だ。
「では、午前の業務はここまでとしましょう。ヴェリサさん、本日は専門的な見地からのご意見、ありがとうございました」
その言葉に対して、ヴェリサは立ち上がると、深く一礼した。
「承知いたしました。それでは、失礼いたします」
無駄のない所作で、ヴェリサは退出していった。
重い木扉が音を立てて閉まると、広い室内には静寂が降りた。
俺もソファから立ち上がり、軽く首の後ろを揉みほぐした。
「カツラギさん。もう少しだけ、よろしいですか?」
ラテリスは立ち上がったまま、こちらを真っ直ぐに見ていた。
いつもの無表情だったが、その金色の瞳の奥には、査定所で鑑定士たちに頭を下げた時と同じ、確かな覚悟のようなものが宿っている気がした。
「もちろん。どうぞ」
「カツラギさんが以前仰っていた、『精度が粗すぎた』という言葉の意味が、ようやく理解できました」
あの時の彼女は聞き返してきた。論理としては理解したのだろうが、実感が伴っていなかった。
今日、自分の足で現場に立ち、鑑定士の声を聞き、自分の目で確認して、ようやくその言葉が彼女の中で血の通った意味を持ったのだろう。
「一律の基準で縛るのではなく、用途に応じて物差しを使い分けるべきだったのですね」
「はい。そしてあなたは今日、それを自分で判断し、自分の言葉で現場に伝えた。それが一番大事なことです」
「今回の件で、私は自分の判断の土台が脆いものであったことを理解しました。元のチェックリストに戻すという判断に迷いはありません。カツラギさんの作られた基準であれば、現場の実態に即したものであると信頼できます」
その言葉には、社交辞令や理論武装の気配は無かった。
だが、俺一人の基準を無条件に信頼するのは、今回と同じ構造の問題を繰り返すことになる。
「私が作った基準も、決して普遍的なものではありません。時間が経てば実態とズレが生じることもあるでしょう」
仕組みに絶対はない。建物が完成した瞬間から風雨による経年劣化が始まるように、いかに優れた仕組みであっても、導入された直後から環境の変化による陳腐化へのカウントダウンが始まる。市場の要求は移ろい、組織の形も変容していくからだ。
「重要なのは、作って終わりにしないことです。今後は、定期的に現場の意見を聞いて、都度見直していく仕組みにしましょう。誰か一人の判断に依存しない運用です」
俺は肩の力を抜いて、ラテリスに語りかけた。
「ラテリスさんの行った人員整理を経て、怠慢な人間はすでに淘汰されているんです。結果的に、今の組織には、業務に対して真摯に向き合える人間が残っています」
彼女が着任時に行った、容赦のない人員の削減。その過程で現場に混乱と反発を生んだだろうが、それが無意味な破壊だったわけではない。組織の土台を支える人材の、強力なフィルターとして機能していたのだ。不要な部分を削ぎ落としたからこそ、次に進むための土壌ができている。
俺の言葉に、ラテリスはしばらくの間、何も言わずに立ち尽くしていた。
室内に差し込む午後の光が、彼女のピンクブロンドの髪を淡く照らす。静かな執務室に、沈黙が降りた。
やがて、ラテリスはゆっくりと口を開く。
「……はい」
その声は、いつもの感情を削ぎ落とした響きではなく、どこか確かな納得を帯びていたように思えた。
第7支部の凝り固まった内部統制が、ゆっくりと、だが確実に実態に即したものへと形を変えようとしていた。




