第87話:行動監察のメソッド、悪役令嬢は一歩ずつ進む(後編)
第7区のメインストリートは、午後の穏やかな空気に包まれていた。
朝方の賑わいが一段落したのか、通りを行き交う人の数も、荷馬車の往来も、少し落ち着いているように見える。
隣を歩くラテリスは、口数が減っていた。
通りの店や、すれ違う人々の姿を、静かに目で追っている。何が見えて、何が見えていないのか。彼女なりに考えながら歩いているのだろう。
「少し、歩くペースを落としましょうか?」
「いえ。確認に手間取ってはいますが、このままで問題ありません」
できる限りは自分で掴みたいようだ。焦らず、じっくり考えればいい。
彼女の視線の先を追うと、胡散臭い笑顔を浮かべた中年の商人が、こちらに近づいてくるのが見えた。
「そこのお二人さん。お似合いのカップルだねえ。どうだい、彼女さんにこの細工物のネックレスは。ちょいと珍しい石を使っているんだが、今なら特別価格で譲るよ」
商人は馴れ馴れしい態度で、赤い石のネックレスを差し出してくる。
ラテリスが立ち止まったので、俺は彼女より半歩前に出て商人に向かって手で制した。
「結構です。急いでいますので」
すぐに断ると、商人の顔から愛想笑いが消えた。舌打ちを一つ残し、彼は足早に人混みの中へと消えていく。
相手を威圧したわけではない。単に取引の意思がないことを、はっきりと伝えただけだ。
「カツラギさんは、ああいった方にも慣れていらっしゃるのですか?」
「慣れているってほどでもありませんが──本当に価値のある品なら、通りすがりの者に声をかけて売る必要はないですからね。ああいう手合いの浮かべる笑顔は、相手を欺くための道具なんです」
俺が答えると、ラテリスは小さく息を吐き、視線を足元へと落とした。
「はい。笑顔というものは、最も信用できない不確かなものです。私のいた世界でも、それは同じでした」
歩みを再開しながら、彼女は語り始めた。
「私が幼い頃から身を置いていた社交界という場所は、建前と本音が渦巻く場所でした。表面上は優雅に微笑み合いながらも、裏では派閥の駆け引きや権力争いが行われています。昨日までは親しげに笑いかけてきたのに、翌日には平然と裏切る。そうした光景を、私は何度も見てきました」
社交界。
俺の世界でいえば、政財界のパーティに近いのだろうか。縁がなかったので想像が難しいが、華やかさの裏で腹の探り合いが日常的に行われているような場所らしい。
「ですから、私は人の表情というものを信用しないと決めたのです。愛想笑いも、涙ながらの訴えも、全ては状況を有利に運ぶための道具に過ぎません。そう考えた方が、物事の見通しが良くなりますから」
それは、彼女の徹底した合理主義の、根幹にある原体験なのだろう。
領地再建の際、腐敗した者たちの事情や情に流されないためだけではない。彼女はもっと前から、他者の感情という不確かなものを、自分の判断基準から意図的に排除していたのだ。信じるか信じないかで考えていたのは、その頃からだったのか。
「数字は嘘をつきませんし、裏切ることもありません。実績と効率だけを評価基準に据えれば、誰が有能で誰が無能か、一目で分かります」
「そして、あなたは領地でその方法を実践して、結果を出したというわけですね」
「はい。どれほど恨まれようと、冷血だと罵られようと構いませんでした。領地の腐敗を取り除くためであれば、私は嫌われる『悪役』で十分だと考えていましたから」
ラテリスの語り口は淡々としていたが、そこに込められた信念は強固だった。
組織の改革において、憎まれ役を引き受ける人間は必ず必要になる。構造改革やルールの徹底を推し進める旗振り役は、いつだって現場の反発を一身に受けるものだ。それを『悪役』だと割り切ってやり遂げた。その覚悟は、掛け値なしに本物だ。
「『悪役』になること自体は、間違った選択ではないと思いますよ。組織の利益のために私情を挟まず、非情な決断を下せる管理者は稀有です。ですが、『悪役』という役割は、確かな結果と、それを支える適切な仕組みがあって初めて成立するものですね」
「はい。結果が出なければ、ただの独善的な暴君になってしまいます。第7支部では、私のやり方は一定の成果を上げました。ですが、その成果の裏側で何が起きていたのかを、私は確認しようとしませんでした。数字の上では機能しているように見えていたものが、現場では人を追い詰めていたのです」
「今回はそれを確認できて、改善の機会があります。その経験を仕組みに反映させていきましょう」
「はい。しっかりと取り組んで参ります」
彼女は前を向いたまま、歩調を緩めた。
「……今まで、こうして誰かと一緒に改善に取り組むということが、ありませんでした」
一人で背負う。一人で決める。一人で憎まれる。それが彼女の覚悟であり、孤独の正体だったのだろう。
「『悪役』にも、裏方は必要ですよ」
俺は、深く考えることもなく口にしていた。
憎まれ役は一人でやるもの。その前提で、彼女はずっと戦ってきたのだ。嫌われることを覚悟し、孤立することを受け入れ、結果だけを拠り所にして組織を動かしてきた。裏方という発想そのものが、彼女にはなかったのかもしれない。
非情な決断を下すその裏で、現場との間を繋ぎ、仕組みを整え、決断が正しく機能するように支える人間が必要だ。俺がやっているのは、そういう仕事でもある。
不意に、隣を歩いていたラテリスの足が止まったので、俺も半歩先で歩みを止めた。
彼女は俯いたまま、動かなくなった。午後の風がローブの裾を揺らし、帽子のつばが、その表情を隠している。
やがて、ゆっくりと顔を上げると、ラテリスの金色の瞳が、真っ直ぐに俺を見た。
「ありがとうございます、カツラギさん。改めて、よろしくお願いいたします」
そう言うと、彼女は再び前を向いて歩き出した。
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大通りをしばらく進んだ先の、広場へと続く道の向こうから、見覚えのある2人が歩いてくるのが見えた。
一人は、ヴェリサだ。
首元までボタンの留められたブラウスに長めのスカートという服装だが、布地の自然な起伏が、かえって彼女の均整の取れたスタイルを浮き彫りにしていた。
彼女の隣を歩いているのは、ルキアンだった。
普段の隙のない執事服を脱ぎ捨て、薄手のシャツに軽いジャケットという、年相応のカジュアルな装いに身を包んでいる。
俺の隣にいたラテリスは、流れるような動作で、近くにあった商店の軒先へと身を隠した。
魔導師の装いのおかげで、完全にただの客として風景に溶け込んでいる。変装しているとはいえ、部下と休日の街で出くわすのは、お互いにとって気まずいノイズにしかならないと判断したのだろう。見事な危機回避能力だった。
俺が一人で歩いている形になったところで、前方から歩いてきた2人がこちらに気づいた。
「カツラギ様!? お疲れ様です」
ヴェリサが驚いたような顔をしてから、丁寧に頭を下げた。
隣にいるルキアンも、笑顔を浮かべて会釈をする。
「お疲れ様です、カツラギ様。街でお会いするとは奇遇ですね」
「こんにちは。お二方こそ、休日の買い物ですか?」
俺が適当に話を合わせると、ヴェリサは少しだけ頬を染めて頷いた。
「はい。お休みなので、街を回ってみようと思いまして。そうしたら、その……偶然、ルキアン様とお会いしまして」
「私も気分転換に歩いていたところを、偶然、お会いしたものですから。ご一緒させていただいているんです」
2人して『偶然』を強調する辺り、示し合わせて外出しているような気はしたが、特に言及はしないでおこう。
落ち着いた色合いでまとめた美男美女が並んで歩く姿は、街の風景として非常に収まりが良い。休日に同僚を外へ連れ出して、適切に気分転換を図る。実に理想的な精神的支援の形だった。
「それはいいですね。良い休日を過ごしてください」
「ありがとうございます。カツラギ様も、良い休日を」
すっかり仲が良くて何よりだ。何がきっかけになるかなんて、分からないものだな。
短い言葉を交わすと、2人は連れ立って歩き去っていく。
その姿が見えなくなると、ラテリスが商店の軒先からさりげなく戻ってきた。
「やはり年頃の男女というものは、あてもなく街を出歩くものなのですね。以前、セリウが言っていた通りだったようです」
どうやら、彼女の思考の枠組みに『男女のロマンス』という項目は最初から存在していないらしい。
「そうですね。まあ、仲が良さそうで何よりです」
俺の言葉に、ラテリスは少しだけ視線を落とした。
「ルキアンは長く仕えてくれていますが、先ほどのような顔は初めて見ました」
「同じ笑顔でも、種類がありますからね」
「はい。主家の私に向ける笑顔と、ヴェリサさんに向ける笑顔は違うのでしょう。ですが、どちらにも裏はありません」
「それが分かるなら、あなたの見る目は確かですよ」
今回は、付き合いの長い相手だから違いが見えたのかもしれない。
だが、それでも笑顔の裏に裏がないと判断できたのは、彼女の目が機能している証拠だろう。
「あの時、ルキアンの話を聞いていれば良かったと、思ってしまいますね」
「ラテリスさん。後悔は過去を変えたいという気持ちですが、反省は未来を変えようとする気持ちです。私たちは未来のために、やれることをやっていきましょう」
「……はい。一歩ずつ、努めて参ります」
抑揚のない、いつもの声だったが、そこには確かな意志が感じられた。
ラテリスは小さく頷くと、再び前を向いて歩き出した。
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実地調査の後半は、第7区の中央から少し外れた場所にある広場へと向かった。
木陰が適度に配置され、石造りのベンチがいくつも並んでいる。夕方近いこの時間帯は、仕事を終えたらしい職人や、買い物帰りの住人たちがベンチに腰を下ろし、思い思いに過ごしているようだった。
広場の隅にある空いたベンチを見つけ、俺たちは腰を下ろした。
歩きながらの慌ただしい視察ではなく、定点からの人間観察だ。
西日が長く伸びる広場では、子供たちが声を上げて走り回り、噴水の縁に腰掛けた老人たちがのんびりと会話を交わしている。
しばらくその様子を見ていたラテリスが口を開いた。
「カツラギさん。あの3人組をご覧ください」
彼女の視線の先には、広場の端に腰を下ろし、装備の手入れをしている冒険者のパーティがいた。布で剣の刃を拭い、革鎧の汚れを落としている。
「あの者たちは、それぞれが自分の装備を個別に処理していますが、非効率ではないでしょうか?」
ラテリスは帽子の下から真剣な眼差しを向け、言葉を紡いだ。
「例えば一人が汚れを落とし、もう一人が仕上げを行うといった工程の分担をすれば、全体の作業時間は短縮できるはずです。何故彼らは、あのような方法を選んでいるのでしょうか?」
俺は内心で苦笑した。
冒険者の装備の手入れにまで、分業制のロジックを持ち込もうとしている。彼女の持ち味である『効率』と『合理性』の視点はブレていないが、まだ人間の行動原理を読み解くには精度が足りていない。
「効率だけを見れば、仰る通りかもしれません。ですが、彼らにとって今の時間は、単なる『装備の保守点検』ではないのだと思いますよ」
「でしたら、他にどのような目的があるのでしょうか?」
「よく見てください。彼らは手を動かしながら、ずっと互いに言葉を交わしているでしょう。今日の反省点や、次のクエストの話、あるいはただの雑談かもしれません」
俺の説明を聞いたラテリスは、わずかに前のめりになった。
「整備しながら言葉を交わすことで、パーティ内の情報共有や、一日の冒険を終えた後の精神的な労いを行っているんです。効率化して無駄を削ってしまえばいい、という時間でもないんですよ」
「余白の時間、ということですか」
「はい。数字に表れない、人間にとって必要な余白です」
ラテリスは「なるほど」と小さく呟いた。
彼女の観察は荒削りだ。目に見える非効率の裏に、人間関係の構築や休息といった別の目的が隠れていることまでは考えが及ばない。
だが、彼女は間違いなく見ようとしている。自身のロジックを、生きた人間に当てはめようと試行錯誤しているのだ。
「無駄に見えるものにも、理由があるのですね。帳簿の数字からは、決して見えなかった光景です」
「はい。だからこそ、現場の目視点検は定期的に行うべきなんですよ」
少しずつ、彼女なりのアプローチが形になりつつある。
その変化を頼もしく思いながら、俺たちはしばらくの間、ベンチに座って広場を行き交う人々を眺めていた。
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日がさらに傾き、街の空気が夕暮れのそれへと完全に変わり始めた。
広場の喧騒も落ち着きを見せ始めている。
帰路につく俺たちの間の空気は、朝方の業務的な距離感からは確実に和らいでいた。
劇的に親しくなったわけではない。
だが、共通のタスクを通して、同じ言語で話せる同僚としての確かな手応えがあった。
「カツラギさん、お止まりください」
大通りに出る道に入る手前で、ラテリスは足を止めた。
俺も、その半歩先で立ち止まる。
ラテリスがそのまま右手を上げると、その手の周囲が一瞬輝いた。
何か魔法を使ったのか?
そう思った次の瞬間、俺の視界の外から、一人の小柄な人影が飛び出してきた。
唐突に現れたその影は、重力を無視したような身軽さで石畳の上に音もなく着地した。
「お疲れ様でした、ラテリス様」
メイド服に猫の耳と尻尾。イルデイン家の使用人であり、第7支部の倉庫職員でもあるセリウだった。
「セリウさん? いらっしゃったんですか?」
「はい! 少し離れたところから、お二人の様子を見守ってましたー!」
今朝、ラテリスは「今日は2人で参ります」と言った。その言葉に嘘はなかったが、それはあくまで『表向きは2人』という意味だったらしい。
五大貴族の令嬢が、本当に何の護衛もつけずに街を歩くわけがなかった。視察の純度を保つために、セリウを護衛として適度な距離に配置していたのだ。おそらく、他にもいるのだろう。
俺のような一般人が気づけないのは当然だ。イルデイン家の危機管理体制は、俺の想定通り最初から万全だったというわけだ。
「カツラギ様、今日は楽しかったですか?」
セリウが人懐っこい笑顔で、首を傾げて聞いてくる。
「はい。とても有意義な休日でしたよ」
「それは良かったです! ラテリス様も、なんだか朝よりスッキリした顔をされてますし」
俺を見ていたラテリスは一度視線を逸らしたが、すぐにこちらへ向き直った。
「カツラギさん。本日は、お付き合いいただきありがとうございました。あなたのおかげで、自分が何を見落としていたのか、その理解が進みました」
「お役に立てたのなら何よりです。ですが、本当に忙しくなるのは明日からですよ。現状の課題を、どう仕組みに落とし込むのか。腕の見せ所ですね」
「はい。引き続きご協力をよろしくお願いいたします」
ラテリスは一礼すると、セリウと共に夕暮れの街へと歩き去っていった。
一人残された大通りで、俺は小さく息を吐いた。
彼女が今日見たもの、聞いたもの、感じたものが、これからの第7支部の改善にどう反映されていくのか。それを支援することが、明日からの俺の仕事だ。
『悪役令嬢』の裏方を務めるのも、悪くはないかもしれないな。




