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第四話 怪しいメールにご用心・4

 それは、無様に地面を這い(つくば)るような格好と、いくらも違わなかったと思う。

 けれど、私は必死だった。

 涙で滲む景色の向こうを見つめ、ひたすらに炎の海の中を走り抜けようとしていた。


「たすけて――おねえちゃん、たすけて!」


 刹那、禍々しく混じり合う喧騒の中に、私を呼ぶ声が紛れ込んでいることに気が付く。

 お行儀良く靴を履く暇なんてあったはずもなく、靴下一枚で砂利道を全力疾走していた私は、足に込めた勢いにブレーキをかけることができず、思い切り前方に向かってつんのめっていた。

 無意識に伸ばした手が全身を支えてくれたおかげで、地面と顔とを激突させることだけは避けられたものの、ショートパンツのポケットから飛び出した携帯電話が、見事に宙を滑空しながら、砂利道に叩きつけられる様が見えた。

 四つんばいのまま慌ててそれを追いかけ、見るも無残に傷だらけになってしまった携帯を拾い上げると、私を呼ぶ声が、まさにその携帯電話の落ちたすぐ側から聞こえていることに気が付いていた。


「ねえ、どこに逃げたらいいの? このままじゃ殺されちゃうよ、たすけて――」


 廃屋の傍らに、身を寄せ合うようにして二つの影がうずくまっている。

 それは、鏡に映したようにそっくりな姿をした、小さな子供だった。

 私と目を合わせるや否や、飛びつく勢いで駆け寄ってきた二人の子供は、蒼い瞳を(いびつ)にゆがめ、堰を切ったようにむせび泣いていた。

 周囲に目を凝らしてみても、二人の親らしき人間は見当たらない。

 それが何を意味するのか――集落を覆い尽くす惨状を思えば、熟慮はなくとも、想像はついた。

 よほど恐ろしい目に遭ったのだろう。(すす)と埃にまみれた小さな体は、憐れなほどがくがくと震えていた。

 私自身、どう足掻いたって飲み込めないこの状況には、ただただ動揺するばかりである。だけど、この子達にだけはそれを悟られてはいけない。私が安心させてあげなくちゃ、この子達は――そう考えた途端、何が何でもこの小さな命を守らなければならないと、闘志にも似た気持ちが湧き起こってくるのを感じた。

 喉元にありったけの力を込め、震える声を押し戻す。出来得る限りの優しい声を心掛け、私は二人の子供達をぎゅっと抱き締めていた。


「大丈夫だよ、私が安全なところへ連れてってあげるからね。一緒に逃げよう?」


 ところが。


「おねえちゃん、だめだよ……ここには、怖い人たちがいっぱいいるんだ。逃げられっこないよ……」


 それまでずっと押し黙っていた双子の片割れが、掠れた声を絞り出しながら、私の腕に痛いほど指を食い込ませてくるのが分かった。

 子供が食い入るように見つめていたのは、私のすぐ後ろである。恐怖に潤んだ蒼い瞳に、私の姿は映っていなかった。

 熱風と共に、馬蹄の音が近付いてくる。足元に落ちた影にはっと顔を上げたときにはもう、新たな脅威は目と鼻の先まで迫っていた。


「そこのガキの言う通りだ。死にたくなければ、おとなしくしてな」


 炎の輝きを背に、騎乗した複数の男たちが私を取り囲んでいた。

 鈍色(にびいろ)に輝く甲冑と、研ぎ澄まされた白銀の長剣。男たちの格好は、それこそ映画やゲームの世界ではありふれた、西洋の“騎士”の姿に似ているような気がしたが、濁った瞳と、口許に浮かんだ下卑た(わら)いは、どう見ても“正義の味方”といった雰囲気ではなかった。

 ついでに言えば、彼らの口から次々と飛び出してくる台詞も、百歩二百歩譲ってやったところで、善良なイメージには到底結びつかないものばかりであった。


「今日はツイてるなあ、そこそこの上玉じゃねえか」

「女は俺が貰うぜ。ガキはどうするかな――一思いに、斬り捨てちまうか」


 品定めをするように、()めつ(すが)めつこちらを眺め回した男たちは、私の予想を少しも裏切ることなく、悪役としては完璧なまでに秀逸な台詞を吐き出し続けていた。

 彼らの扮装がただのコスプレならまだいい。

 散々怖がらせた挙句に、“はい、ドッキリでした!”と笑い掛けてくれたのだとしたら、どんなに悪趣味な冗談だったとしても、今なら笑って許してやれるような気がする。

 けれど、この場の全ての状況が、そうならないことを(つぶさ)に物語っている。

 立ち込める死の香りの源泉が、男たちの鎧に、マントに、べっとりとこびりついた赤い染みにあるのだと気が付いたとき、この信じられない光景の全てが現実の延長上にあるものなのだと、否が応でも受け入れざるを得なくなってしまっていたのである。

 ――刹那。

 張り詰めた空気の中に、軽快な電子音が鳴り響いていた。

 アイツ、何でこんなときに――!

 見れば、握り締めていた携帯電話が、場違いなほどにけばけばしい虹色のイルミネーションを輝かせ、陽気なメロディーを奏でていた。


「何だ、それ? お前、何持ってやがるんだ?」


 電子音が響くのと同時、怯んだように瞳をぎょろつかせていた男の一人が、私の手元を指差し、声をあげていた。途端、他の男たちの視線も、一斉に私の手元へ向かって注がれる。

 遠目にちらりとディスプレイを確認すると、そこには“新着メール受信”の文字が浮かび上がっていた。

 それにしても、何て最悪なタイミングだろう。

 この際、“どうしてこんな場所に電波が届いているのか”とか、そんな常識的な疑問は全て考えないことにする。

 流れたメロディーから推測するに、おそらくメールの送信者はあの“アヴァロン”の男だろう。あの男のやったことだとすれば、たとえどれほどこの世の摂理に反したことが起こったとしても、今なら全て受け入れられるような気がする。

 問題は、何故このタイミングだったのかということだ――私の行動を逐一見張っているはずのアイツのことだから、何か意図があってのことかもしれないけれど。

 ここへ来る前、アイツは“やってほしいことがあるから、後で伝える”と言っていた。

 つまり、このメールを読んで内容を理解しなくては、アイツからの課題を片付けるための、スタート地点にも立てないということなのだろう。

 私の愛用する携帯電話は、最近急激にシェアの増えたタッチパネル式の携帯で、二層になった本体をスライドさせると、ダイヤル式の携帯電話と同じようなボタンが飛び出す仕組みのものである。

 その気になれば、カチカチと音を立ててボタンを押さなくても、画面を触ることさえできれば、こっそりとメールを読むくらいは出来るかもしれないんだけど――ただでさえ男たちの訝しげな目線を集めているこの状況で、明け透けに携帯の画面を見ようとするのは、相当に危険な気がする。

 かと言って、不自然に隠し立てをすれば、おそらく男たちは余計に不審がって、私の手からこれを奪おうとするだろう。

 だったら、答えはひとつだ。

 妙に隠し立てをしないこと。

 出来る限り、“これは怪しいものではない”とアピールしてみせて、その上で、コイツらの興味をここへ集中させてやる。そうすればきっと、いくらか時間を稼ぐくらいのことは出来るかもしれない。

 (もっと)もそれは、私を取り囲むこの悪漢たちが、話を聞く耳を持っていなければ成立しない話だが――

 それでも、他に何の手立ても持ち合わせていない私には、もはや男たちが興味を示してくれることに賭ける以外、術はない。

 とにかくまずは時間を稼いで、ここから逃げる方法を考えなくちゃ――

 必死に思索を巡らせた私は、訝しむ男たちの目の前に、おずおずと携帯電話を差し出していた。


「これは、ええと――私の国に伝わる、魔法の本なの。ほら、見て。ここにたくさん文字が出てるの、分かるでしょ?」


 そうして、もっともらしい嘘を捻り出した私は、どうにかしてこの決死のアドリブを広げることは出来ないものかと画策する。恐る恐る、暇潰しのためにストックしておいた電子書籍の一ページを開いてみせると、目を丸くしてそれを覗き込んだ男たちからは、予想以上の手応えが返ってきていた。


「何だこれ――よくわかんねえけど、こんなの見たことねえぞ」

「何でこんなに明るいんだ? 明かりのねえ場所で本が読めるなんて、すげえぞ!」


 思い思いの言葉を口にした男たちは、まるで新しい玩具を買い与えられた子供のようにきらきらと瞳を輝かせ、電子書籍に見入っている。

 人相の悪い男たちに、揃いも揃って熱い眼差しを向けられても、微妙な気分になるだけなんだけどね……


「おい、これ何て書いてあるんだ? どう見ても、フランス語じゃねえよな?」


 貴方達の話してる言葉は、私にはどう考えても日本語にしか聞こえないんですけど。

 これも、あのアヴァロンの男の力の成せる業ということなのだろうか。

 そこまでを考えたところで、私はようやく気がついていた。先ほどの何気ないやり取りの中に、起死回生のチャンスに繋がる重大なヒントが隠されていたことに。

 どうやら、この男たちの公用語は、フランス語であるらしい。

 と、いうことは――


「貴方達、日本語は読めないの?」

「ニホン? ニホンって、どこの国だ? お前、そこから来たのか? 変な服着てるから、外国人じゃねえかとは思ってたけど」


 やっぱり、そうだ――

 男たちの容姿を目の当たりにしたときから、彼らが西洋人であることはすぐに理解していたのだが、耳に届いてくる言葉が日本語ばかりであったせいか、私はどうやら、とても単純なことを見落としてしまっていたようである。

 コイツらは、日本語が読めない。

 アルファベットの羅列に見慣れた西洋人からしてみれば、日本語の漢字や平仮名なんてものは、うっすらと意味を推測することすら出来ない未知の言語に違いない。

 それならきっと、私がどれだけここで大っぴらにメールを見ようと、内容がバレてしまうことはまず無いだろう。

 しかし、下手を打てば殺されかねない危険性はずっと付き纏ったままである。彼らを迂闊に刺激してはいけないのは当然のことだが、今のような雰囲気を保つことが出来れば、きっと時間を稼ぐ方法はいくらでもあるはず。それ以外に気をつけなければならないのは、携帯電話を取られないようにすることだけだ。


「そんなの簡単よ。すぐ貴方達の言葉に書き直してあげるから、ちょっと待っててね」


 指先の震えをどうにか押し隠そうと、私は何度も深く息をする。

 大丈夫だ、絶対にバレることはない――

 心の中で何度も繰り返しながら、私はとうとう、メール受信画面を呼び出していた。


『差出人:Merlyn

 件名:林檎の島から貴女へ

 ようこそ、僕らの世界へ。

 遅ればせながら、僕とのお約束についてのお話です。

 これから貴女に、いくつかの質問をさせていただきます。

 その質問は、貴女が僕の見込んだ御方であるかどうかを見定めるためのものとお思い下さい。

 首尾よく、正しき道を選び取ることが出来れば、

 それはそのまま、貴女の行く先を照らす道しるべとなりましょう。

 それでは、最初の課題です。

 死後の幸福、

 負けないための力、

 出し抜くための知恵、

 遺された者の繁栄。

 戦の地で、窮地に立たされた貴女が最も望むものとは何ですか?

 お返事を、お待ちしております』


 何なのよこれ、どういうこと?

 ただ私に質問したいだけなら、こんな訳の分からない場所に放り込む必要なんてどこにも無いではないか。

 御多分に漏れず、メールの内容通り窮地に立たされている私のことを、何処かでニヤニヤと観察している男が居るのだと思うと、苛付きがおさまらなくなってくる。

 自業自得だと言われればそれまでのことだが、やはり本人も口にしていた通り、顔も合わせたことのない赤の他人を信じるというのは、無謀な話だったのだろうか――

 いや、待てよ。

 この質問、相当に皮肉や厭味のスパイスが効かされている事は間違いないが、もしかすると、“今、私が必要としているものは何か”ってことを聞いてるんじゃないだろうか。

 妙に詩的というか、気取った調子で書かれているのは、もしも他の誰かにメールの内容を知られてしまっても、“物語からの引用だ”などと、ある程度の言い訳が出来るようにするためなのでは――

 だとすれば、この選択肢の意味するところとは、何だろう。

 力と知恵っていうのは何となく分かるけど、他の二つは――


「おい、何やってんだ?」


 ぼんやりと考えに耽っていると、訝しげな表情でこちらを見下ろす男と目が合った。

 深く考え込む余裕なんて、あるはずがない。

 私の傍らで縮こまる子供達を確実に安全な場所へ連れて行く方法――それは、暴力に訴えてこの場を切り抜けることでも、自分の身を犠牲にすることでも、ましてや死後の冥福を祈ることでもない。

 ここは、今までの常識が通用するかどうかすら計り知れない、未知の世界である。頼るものの無い世界で、信じられるのは自分しかいない。

 だとすれば、最も重要なのは、何よりも自分自身が“うまく生き続ける”ことだ。

 誰かのために命を投げ出すことはとても気高いことだけれど、それは、相応の心意気を持ち続けるだけで充分だ。私自身が生きていなければ、子供達を助けることも、元の世界に居るはずの慧兄を助けることも、何もかもが出来なくなってしまう。

 私が生きるために、一番必要なものは――

 苦笑いを浮かべてお茶を濁した私は、素早くメール返信画面を開く。そして、“知恵”とたった二文字だけ、今まで生きてきた中で最も愛想の無いレスポンスを返すと、再び電子書籍のアプリケーションを起動させ、すぐに翻訳機能を呼び出していた。


「ほら、出来た。これ、フランス語よね?」


 引き攣った笑顔はそのままに、まるで印籠を見せびらかすようにしながら、私は彼らに向かって順繰りに翻訳済みの電子書籍を見せ付けてやる。ディスプレイの動きに合わせ、瞳を左右にゆっくりと動かした男たちは、溜め息にも似た歓声を上げながら、すっかり私の手元に釘付けられていた。

 さあ、今のうちに早く返信しなさい、アヴァロンの男!

 次のメールには、この地獄のような状況を奇跡的に突破するための妙策が綴られていると――信じなければ居られない。

 お願いだから、一秒でも早く――

 空いた掌をぎゅっと握り締めた私は、今か今かと、再びあのメロディーが鳴り響く瞬間を待っていた。


「それじゃ、もうお遊びは終わりだな? 俺はお前を、その玩具ごと連れて帰るぜ」

「え、ちょっと――」


 ところが、予想もしない事態が起きていた。

 どういうわけか、今の今まですこぶる熱烈であったはずの男たちの興味が、ものの数秒ももたず、急激に消え失せてしまったのである。

 小慣れた所作で馬上から飛び降り、がちゃがちゃと(いか)めしい音を立てて甲冑を揺すりながら、呆気に取られた私に向かって歩み寄ってきたのは、グループのリーダー格と思しき、熊のように大柄な体格の男だった。


「待ってよ、もうちょっと読んでみない? まだまだ面白いことが書かれてるのよ、これ」

「そうは言ってもなあ……」


 露骨にたじろいだ私を見下ろすと、男はいかにも面倒臭そうに口許を歪め、大きく息をついて後方を振り返った。


「おい、お前ら。この中で、誰か字の読める奴は居るか?」


 男の口から飛び出したその台詞は、今までのどんな悪役染みた台詞よりも、遥かにショッキングなものだった。


「ラ・イールさん――読み書きできるような英才教育受けてるなら、誰もこんなところで傭兵なんかやっちゃいませんよ」

「ははは、そうだよなあ、お前ら! だが、読み書き出来なきゃ出世できねえってのは勘違いだぞ! 俺は自分の名前すら書けねえが、これでもフランス傭兵団の司令官だ」


 ふざけないでよ、オッサン――! 陽気に笑ってる場合じゃないわよ!

 大誤算である。

 彼らは、日本語どころか、母国の言葉ですら読むことができないらしい。

“これはフランス語ではない”と言ったのは、おそらくパッと見の日本語の形状が、明らかにアルファベットからは大きく掛け離れたものだったからに過ぎないのだろう。

 私の常識に照らし合わせれば考えられないことだが、言われてみれば、予測出来ないことではなかったのかもしれない――この場所が、“常識が通用するかも分からない未知の世界”だと、ついさっき自分でも考えていたばかりだというのに。

 どういう摂理に従って、自分がこんな場所に飛ばされてきてしまったのかは謎のままであるとしても、いい加減、ここが“現代の日本よりもかなり文明の遅れた時代のヨーロッパ”であることは認めなくてはならないようである。

 電子機器などというものが、おそらく一切存在しないこの世界において、非常識な存在なのは、間違いなく私の方なのだ――

 言葉を失い掛けていた私に向かって、再び振り返った男は、傷跡だらけの顔を歪め、大口を開けて笑っていた。


「悪いな、お嬢ちゃん。よく考えたら俺たち、字を読める奴が一人もいねえんだわ。そんなに読み聞かせをやりたいってんなら、続きは寝る前にベッドの上で聞かせてくれよ。こんなところに居るより、その方がずっと楽しいぜ?」


 絵に描いたようなスケベ面を浮かべて、馴れ馴れしく私の肩を抱き寄せた男は、ごつごつとした指先を、ニーハイソックスの裾から覗いた私の太股に滑らせると、またも下卑た笑みを零していた。

 気持ち悪い。

 気持ち悪い。

 これが普段だったなら、こんなスケベオヤジなんて、容赦なく肘打ちを入れた後、怯んだ隙を見計らって、警察に通報してやってるところなのに!

 けれど、黒々と逆巻く思いとは裏腹に、太股を撫でる手とは反対の手に握られた、ギラギラと光る鋭利な刃を見ていると、足が(すく)んで動かなくなってしまうのだ。

 どうすればいいの――

 濃霧のように立ち込める絶望感に、目の前がくらくらとする。

 しかし、胸元で握り締めた携帯電話に更なる力を込めた瞬間、まるでその力に呼応しようとするように、待ち焦がれたメロディーが鳴り響いてくるのが分かった。


「遅いわよ、馬鹿!」


 電撃が走ったかのように、びくりと全身を震わせたスケベ男が、(おのの)きながら後退(あとずさ)る。

 周囲の挙動なんて、既に気にする余裕は無くなっている。僅かに口を開きかけたスケベ男を横目で見遣ると、私はすぐさま携帯電話に指先を滑らせていた。


『差出人:Merlyn

 件名:林檎の島から貴女へ

 さすがは、僕の見込んだ御方です。

 正しき道を選び取られた貴女に、ささやかな贈り物をお届け致します。

 親愛なる貴女に、真心を込めて。

 ご武運をお祈りしています』


 相変わらずの呑気な気取り調子で綴られたそのメールを読み終えると、主人の号令を待つことなく、またも突然あくせくと働き出した私の携帯は、見慣れない添付ファイルをインストールし始める。

 インストールを終えた携帯電話が、とあるアプリケーションの起動画面を呼び出した瞬間、私は大きく目を見開いていた。

 露骨に黙り込んだ私をじっと見つめた男が、再び怪訝な表情でディスプレイを覗き込んでくる。

 読めないくせに。

 微かな侮蔑を込め、私はちらと男を側める。


「何だ、そのムカつく目は。お前――」


 俺を馬鹿にしているのか。

 怒りの色を灯した男の瞳は、そう言っているに違いなかった。

 私のやったことは、軽率で粗忽で、酷く浅はかな挑発だ。

 けれどそれは、状況の打開を諦めたわけでも、自暴自棄の成れの果てでも何でもなかった。


「おい、今すぐそれをこっちへよこしな。二度と使えないように、真っ二つにへし折ってやるからよ!」


 ほら、引っ掛かった。

 狡猾なアヴァロンの男の施した知恵は、最良の形で効果を発揮してくれそうである。


「危ないわよ、それ」

「何?」


 ディスプレイに現れたアプリケーションを起動させた私は、迷うことなく、スケベ男に向かって携帯電話を放り投げてやっていた。


「穢れた心を持ってる人が触ると、天罰が下るの」


 それと同時に、捨て台詞を投げつけてやることも忘れない。見る間に顔中の筋肉という筋肉を引き攣らせた男を尻目に、私はすかさず、二本の人差し指を、左右それぞれの耳の奥に思い切り突っ込んでいた。

 実際に使ってみたのは、それが初めてのことだった。

 どんなアプリケーションだったのかって?

 それは、世のか弱き女性と、いたいけな子供達を悪漢から守るための、実用性を突き詰めた“御守り”――そう。いわゆる“防犯ブザー”というやつである。

 ご時世がちょっとばかりずれ込んでしまっているおかげで、ブザーの存在意義自体は、大幅に様変わりしてしまっているかもしれないけれど。

 周到に耳を塞いでいた私でさえ、僅かに硬直するほどの大音量が鳴り響いたのだから、身構える余裕の無かった悪漢たちは、さぞかし驚き慄いたことだろう。

 しかし、真っ先に大きなダメージを負ったのは、人よりも遥かに研ぎ澄まされた聴力を持った馬たちである。狂ったように(いなな)きを上げた馬たちは、背に乗せた主人達を振り落とさんばかりの勢いで、大暴れを始めていた。


「二人とも、逃げるわよ!」


 これ以上の好機なんてあるはずがない。

 反射的に駆け出した私は、スケベ男の落とした携帯電話を拾い上げ、ショートパンツのポケットに放り込んだ。

 そして、怯え切った馬たちと変わらないくらいのパニックに陥っていた双子を、半ば引き摺るようにして掴み上げると、闇色に包まれた森の中へ、無我夢中で飛び込んでいた――

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