第一章④ 必要は発明の母
現実も物語ものんびりペースで進行していきます。
「……ん……朝……?」
聞きなれない鳥の鳴き声が聞こえる。
薄く開いた瞼の向こうには、古ぼけた石造りの天井があった。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる。けれど、身体の下に感じる硬い床と、周囲に漂う土の匂いが、昨日の出来事を思い出させてくれた。
「……そっか…まだ、ここなんだ」
身体を起こすと、背中や肩が少し痛んだ。
眠れなかったわけではない。むしろ、思ったよりは眠れた方だろう。ただ、夜中に何度か目を覚ましたし、寝返りを打つたびに床の硬さが気になった。
どうやら、熟睡とはいかなかったらしい。
「ぁ……ふぁ……おはよう、セラ太」
傍らに座っていた犬型ゴーレムに声をかける。セラ太は顔を上げると、短く尻尾を振った。
「一晩ありがとね。おかげでちゃんと眠れたよ」
欠けた左耳のあたりを避けながら頭を撫でる。陶器のような素材でできた身体はひんやりしていたが、不思議と冷たくは感じなかった。
寝袋から這い出して立ち上がり、軽く伸びをする。
昨日組み上げた石の扉を倒さないようにどけて、遺跡の外へ目を向けると、朝の光が木々の間から差し込んでいた。地面には薄い朝靄が漂い、草の葉には小さな水滴がいくつも光っている。どこからか聞こえる鳥の声も、昨夜の暗闇の中で聞いたものとはずいぶん印象が違った。
「……綺麗だなぁ」
思わず呟く。
ゲームの中でも朝の景色は何度も見てきた。けれど、こうして肌に朝の空気を感じ、草木の匂いを嗅ぎながら眺める景色は、まるで別物だった。
しばらくその光景を眺めていた伊織だったが、ふと動きを止めた。
「……ん…?」
違和感がある。
最初は気のせいかと思った。しかし、意識を向けた途端、その存在は無視できないほど明確になった。
身体の内側から、じわりじわりと圧迫されるような感覚。
痛みはない。少なくとも今のところは。
だが、このまま放置すればどうなるか。伊織には容易に想像できた。
「……まずい」
思わず呟いた声に反応して、セラ太が顔を上げる。
「いや、大丈夫…まだ大丈夫だから」
自分に言い聞かせるように答える。
昨日から今朝にかけての行動を思い返す。
食事はした。水分も摂った。そして夜はひとまず眠れた。
しかし、重大な行動が一つ抜け落ちている。
「……いやいや待って…そこまで再現する必要ある…?」
伊織は思わず天を仰いだ。
「ノア・システムズさんさぁ…リアリティを追求するのはいいけど、限度ってものがあるでしょ…」
ゲーム内で空腹を感じることはあった。食事をすれば満腹にもなった。睡眠だって必要だった。
だが、排泄まで要求された覚えはない。
「そもそも、なんでこんなところまで……」
下腹部を意識しないようにしながらそこまで言って、伊織は口を閉じた。
いや、待て。
昨日からずっと、妙だとは思っていた。
メニューは開かない。ログアウトもできない。痛みも疲労も、何もかもが妙に生々しい。
食べたものは腹に収まり、眠れば朝が来る。
そして今、身体は容赦なく自己主張している。
「…………」
伊織はしばらく考え込んだ。
いや、考えるまでもない。
「……これ、どう考えても現実なんじゃない…?」
今更である。
「…いやね?わかってた…わかってたけどさぁ……」
わかっていたつもりだった。けれど、心のどこかで、まだゲームの延長だと思いたかったのかもしれない。
しかし、そんな感傷に浸っている場合ではなかった。
「……とりあえず場所探さなきゃ……」
伊織は周囲を見回した。
木々は生い茂り、人の気配もない。適当な茂みに入れば、誰かに見られる心配はまずないだろう。
「……いや、無理。無理無理無理…」
頭ではわかっている。非常事態なのだ。多少の不便は受け入れるべきだろう。
しかし、理屈と感情は別問題だった。
昨日まで普通に水洗トイレを使っていた人間に、いきなり大自然の中で用を足せと言われても困る。
「でも……うー……どうしよう」
下腹部の圧迫感が、どんどんと存在感を増していた。
残された時間は、そう長くない。
伊織は必死に考える。何か方法はないか。
道具はない。設備もない。人に頼ることもできない。
あるのは、自分の身体と、魔法だけ。
「……魔法?」
その瞬間、脳裏に昨日の光景が浮かんだ。
遺跡の入口。積み上げた瓦礫。そして、それを固定した土属性の魔法。
「……あれだっ」
伊織の目が見開かれる。
土属性は固定化。物質の形状を保持し、構造を安定させる力。
ならば、土を加工して形を作り、それを固定すればいい。
水属性の均質化で土砂の状態を整え、風属性の流動で必要な場所へ運ぶ。最後に土属性で構造を固定する。
材料なら、周囲にいくらでもある。
瓦礫を骨組みに。土砂を壁に。床下には穴を設け、便座を作り、外から見えないように囲う。
迫りくるリミットを感じながらも、必要な構造が、頭の中で次々と組みあがっていく。
問題は構造だけではない。使用中に崩れないこと。外から見えないこと。最低限の衛生を確保すること。
普段なら一つ一つ検討していたであろう課題を、今の伊織は恐るべき速度で処理していた。
人生でこれほど頭を回転させたことがあっただろうか。
大学受験の時ですら、ここまで必死ではなかった気がする。
「……できる…できるはず……!」
額に脂汗が浮かぶ。
足が小刻みに震えている。
セラ太が心配そうに首を傾げた。
「だ、大丈夫……大丈夫だから……!」
大丈夫ではなかった。
もはや一刻の猶予もない。
伊織は両手を地面へ向けた。
脳裏に完成した構造を強く意識する。
瓦礫の配置。土砂の流れ。壁の厚み。床の強度。扉の開閉機構。
水・風・土、三つの属性を同時に制御し、組み合わせ、一つの術式へとまとめ上げる。
失敗は許されない。
いや、失敗したところで命を落とすわけではない。
だが、それ以上に失いたくないものがある。
尊厳だ。
人として、どうしても譲れない最後の一線。
そして、その一線は今、決壊寸前だった。
「ーーーー《化粧室》ッ!!」
裂帛の叫びとともに、地面が震えた。
周囲の土砂が巻き上がり、瓦礫が滑るように集まってくる。
水属性によって均質化された土が瓦礫の隙間を埋め、風属性の流動によって次々と積み上げられていく。そして土属性がそれらを一つの構造物として固定した。
艶やかな床ができる。まっさらな壁が立ち上がる。通気口とともに天井が閉じる。
内部には滑らかな洋式便座が形成され、その下には十分な深さの穴が掘られていた。
最後に扉が形を成し、すべての動きが止まる。
僅か数秒。
そこには、異世界の森の中には似つかわしくない小さな個室が遺跡と並んで完成していた。
「……間に合った……!」
伊織の瞳に涙が浮かぶ。
魔法は成功した。しかも、魔力を注ぎ続けなくても形状を維持している。
三つの属性を駆使して、魔法のみで完成させた構造物が誕生したのだ。
だが、そんな画期的な発見を喜んでいる暇などなかった。
「セラ太!見張りお願い!!」
伊織は個室へ飛び込んだ。
扉が叩きつけられるように閉まる。
まさしく間一髪であった。
◇ ◇ ◇
しばらくして、個室の扉がゆっくりと開いた。
「………はぁーーーー……」
伊織は深く、深く息を吐いた。
そして両手を広げて空を仰ぐ。
「なんて…美味しいんだろう……森の新鮮な空気……!」
木々の間を吹き抜ける風が、頬を優しく撫でていく。
朝露に濡れた草木の香り。葉擦れの音。どこからともなく聞こえる、名前も知らない鳥たちの鳴き声。
つい先ほどまで耳に入る余裕すらなかったそれらが、今はなによりも素晴らしく感じられた。
「鳥さんたちも、すてきな朝の音楽をありがとう……!」
鳥たちは答えない。そもそもなんという種類の鳥なのかもわからない。
しかし、今の伊織にはそんな些細なことはどうでもよかった。
世界はこんなにも美しい。
生きているとは、なんと素晴らしいことなのだろう。
傍らでは、セラ太が不思議そうに首を傾げていた。
「セラ太…私、今なら何でもできそうな気がするよ…!」
伊織は人生最大級の危機を乗り越えたという達成感を噛み締めていた。
もっとも、完成したばかりの個室にはまだまだ改善の余地があった。
例えば洗浄設備だ。
今回は水魔法で適温の水を用意し、お尻を洗い流すことができた。水属性の均質化を応用すれば、水流を均一に保つことも難しくない。
問題はその後であった。濡れたままというわけにもいかず、マジックバッグの中を探したところ、幸いにも適当な布が見つかった。柔らかさも、吸水性も申し分ない。その布は栄えある初代お尻拭きくんとして任命された。
ただし、任命早々に重大な問題が発生した。
使用済みのお尻拭きくんを、どうするか。
捨ててしまうのは簡単だが、今後も同じような布が手に入るとは限らない。かといって汚れたままマジックバッグに戻すのは論外だった。
「洗っただけじゃ、まだばっちいよね…」
せっかくなら消毒まで済ませてしまいたい。火魔法の励起と水魔法で熱湯消毒し、さらに火魔法と風魔法で熱風を当てて乾かす。火・水・風の三属性を組み合わせて誕生した洗浄魔法ーーーー
「《洗濯》……おぉ…できちゃった…」
汚れもきれいに落ち、嫌な臭いも消えたお尻拭きくんを眺めて、満足げに頷く。
そのまま畳んでマジックバッグに……入れる前に止まる。
伊織はマジックバッグを探り、適当な小袋を取り出して、その中にお尻拭きくんを収め、しっかりと口を閉じた。その小袋をマジックバッグのサイドにあったポケットに入れた。
こうして初代お尻拭きくんは専用の収納を与えられるという厚遇を受けたのだった。
「さて、と…そろそろ朝ごはんにしようかな」
伊織はもう一度大きく伸びをすると、セラ太を伴って遺跡へ戻った。
水魔法で手を包み、手をしっかり洗う。仕上げに風魔法で水気を飛ばせば完了だ。
「うーん…やっぱり魔法って便利だなぁ…」
蛇口もタオルも必要ない。つい先ほどの騒動を思い返せば、なおさらありがたみが身に染みる。
昨日、寝床として使った場所に腰を下ろし、マジックバッグからツナサンドとオレンジジュースを取り出した。
「いただきます……んー…美味しい……マジックバッグ様様だなぁ…」
足元ではセラ太がちょこんと座り、こちらを見上げて尻尾を振っている。
「あー…食べる?……無理かー…そうだよね。ゴーレムだもんねぇ…」
わかってはいたが、こうして見つめられるとついつい何か上げたくなってしまう。
伊織はセラ太の頭をひと撫ですると、再びサンドイッチを頬張った。
「さて……今日はというか今後はどうしようかな…」
食事を続けながら、頭の中で現在の状況を整理する。
まず、ここがどこなのか。
昨日見た遺跡や周囲の地形には、ゲームで見覚えがあった。おそらくルイーナ列島の中央付近。
ただし、正確な位置まではわからない。
「マップが使えないのはやっぱり不便だなぁ…」
ゲームなら、メニューを開けば現在地が一目でわかったし、UIにも小さくマップは表示されていた。周囲の地形も、目的地までの距離も、簡単に確認できていた。
だが、今はそれができない。
「えーっと…ルイーナってどんな形だったかな…」
伊織は指先で床の砂埃をなぞり、簡単な地図を描いてみた。
カタカナの「ワ」に似た、少し歪な列島。
南に長く伸びた部分と、そこから北へ連なる島々。そして各地に点在する古代遺跡。
「…うん、たぶん今は…このあたり」
中央付近を指先で叩く。ルイーナ到着地点の南端にある「釣鐘の岬」から北上し、最初のダマスクキングクラブの出現エリア。そこからさらに北上して中央にあるアダマンキングクラブの出現可能性があるエリア。
もちろん、ゲームの地形がそのまま再現されている保証はない。昨日からの経験を考えれば、むしろ違っている部分があって当然だろう。
それでも、何も手掛かりがないよりはずっといい。
「んで、問題はどうやって大陸に帰るかなんだよねぇ…」
伊織はサンドイッチをもう一口食べ、考え込んだ。
ルイーナ列島は、この世界での最東端。世界の東半分を占めるライタート大陸のさらに東に位置している。
ゲームで初めて訪れたときは、ライタート最東端の港町ヤマティナから船に乗った。
もっとも、その船は航海中に「嵐のクジラ」と呼ばれる海洋生物にイベントシーンで船を破壊されてあえなく沈没してしまったが。
「強制イベント…まだ立ちふさがるかと思ったよね…」
結局、南端の釣鐘の岬に漂着し、そこから探索を始めることになったのだ。
しかし、問題はルイーナからの帰り道だった。
ゲームでは、一度訪れた場所へは各地のオベリスク経由でファストトラベルすることができた。そのため、わざわざ帰りの船を探す必要がなかったのだ。
そもそも、この列島にまともな港があったかどうかすら、記憶にない。
「となると…やっぱりオベリスクを目標にした方がいいかな?」
伊織は床に描いた地図へ目を落とした。
記憶を辿ると、ルイーナ列島には三基のオベリスクが存在していた。
南端、北西端、そして東端。
今いる場所から比較的近いのは、東端のものだったはずだ。
「東端…ルイーナ第二オベリスクだっけ…行ってみよう」
もしオベリスクが使えれば、ライタート大陸へ戻ることもできるかもしれない。もっとも、ゲームの機能がほぼ存在しない現状では、ファストトラベルだけが都合よく残っているとは考えにくかったが…
それでも、オベリスクが実在しているなら、この世界とゲームの関係を知る手掛かりになるかもしれない。
「もしもダメだったら…」
伊織は指先を地図の中央から西へ滑らせた。
「西の突端にある鰐口海岸…ここかなぁ…」
隣のライタート大陸への最短経路だ。もちろん、海を泳いで渡れるとは限らない。だが少なくとも、大陸に近い側へ移動する方が、船や人の痕跡を見つけられる可能性はあるだろう。
もっとも、ルイーナ列島はゲームではほとんど人のいない地域だった。
高レベルの厄介な魔物が徘徊し、古代遺跡ばかりが点在してキャンプすらない、いわゆるエンドコンテンツ向けの場所である。
「人……いるのかなぁ」
できれば、誰かに会いたい。
この世界について教えてくれる人。現実世界に帰れる方法を知っている人。何より、普通に会話のできる人。
昨日から、ずっと独りだった。
「…セラ太がいてくれて、ほんとによかったよ」
声をかけると、セラ太は嬉しそうに尻尾を振った。
「でも、やっぱりお話しできる相手も欲しいなぁ…」
伊織は最後のひと口を食べ終えると、オレンジジュースを飲み干した。
「ごちそうさまでした」
今日の予定は決まった。
まずは東端にある第二オベリスクを調査する。
使えなければ、西に向かいながら人の痕跡や帰る手掛かりを探す。
「…うん、こんなところかな?」
包み紙と瓶をマジックバッグに収納し、床に描いた地図も軽く手で払って消しておく。
寝袋も畳んで収納し、カンテラも火が消えているのを確認してからマジックバッグへ。
ローブを羽織り直し、服装を整え、杖を手に取る。
改めて、忘れ物がないか周囲を見渡す。
小さなバリケード。石を組み上げた扉。セラ太がいた遺跡の奥。
「……ありがとうございました」
誰にともなく、小さく頭を下げる。
「…さて、セラ太。準備はいい?」
「わんっわんっ」
「それじゃ、行こっか!」
遺跡の外では、朝の光が木々の屋根を抜け、草葉に残る露をキラキラと輝かせていた。
相変わらず、名前も知らない鳥たちが賑やかに鳴いている。
昨夜はあれほど心細かった森も、今朝は少しだけ違って見えた。
伊織の傍らを、陶器のような素材でできた犬型ゴーレムが軽やかな足取りでついてくる。
こうして、一人と一匹の異世界生活二日目が、本格的に動き始めた。
ちょっと説明多かったかな…でもギミック考えるの楽しいよね




