第一章③ 返ってきた音
第3話お待たせしました。
寝床。
屋根があって、壁があって、外のモンスターが入ってこないところ。
ベッドとお風呂があるとなおよし。最悪寝袋でも可。
「…この島だとあまりに高望みかぁ…」
木々の隙間から見える空は、すでに星が輝き始めていた。もはや足元の草や木の根は注意しないと見えないほどであった。
「…森の夜ってこんなに暗いんだ…」
杖を握り直し、歩き出す。
急いで探したいけれど、走るのは難しかった。
地面は平らじゃないし、茂みの向こうに何がいるかもわからない。転んで足を捻ったら、寝床を探すどころではなくなる。
自然と耳を澄ましてしまう。
葉擦れ、虫の音、なにかの鳴き声。
それら全てが、先ほどより近く聞こえた気がした。
「洞窟とか…あーでも先客がいたら嫌だなぁ…」
実はモンスターの巣でした。奥からのっそりこんにちは。
嫌すぎる。挨拶している場合ではない。眠っているときに来るのはもっと嫌だ。
できれば奥まで一目で見渡せる広さがいい。入口は一つ。雨風が凌げて、崩れそうじゃなくてーーー
庵のころに歩き回った記憶を必死に思い出しながら、目ぼしい場所を探して歩いていたそのとき。
木の幹の向こうに灰色の人工物が見えた。
蔦の下から覗いているそれは、どうみても人の手が加わった石材であった。
「…壁…かな?」
近付くとそれは、半ば崩れた石壁と、半分ほど入口が瓦礫で埋まった小さな遺跡の小屋であった。
屋根のほとんどは木に飲み込まれ、小屋の後ろ半分も土砂と瓦礫で原型がわからない有様であったが、未だにしっかりと柱が建ち、生半可では崩れはしなさそうに感じた。
足元に気を配りながら、慎重に小屋の入口に近付く。
「………生き物はいない…かな…………《ライト》」
杖の先に、小さな明かりを灯した。
光が石の縁を照らし、その向こうへ伸びる。
ひび割れた石の床。部屋の隅に瓦礫。小さな隙間のある石壁。
部屋の奥は瓦礫で埋まっているように見える。
何も動かない。
明かりを部屋の中に入れ、少し高く掲げると、天井が見えた。入口に近いところは石材が抜けているけれど、奥側はしっかりとした屋根が残っている。
嗅覚に意識を集中させる。
湿った土と、埃の匂い。
素人なりに、獣の巣らしい強い臭いは感じなかった。
「……お邪魔しまーす……」
返事はないとわかっていながら、小さな声で囁いた。
そろりそろりと、忍び込むようにゆっくり小屋の中へと入る。
部屋の隅まで光を向けて、何もいないことを確認してから、ようやく息を吐いた。
ここなら、夜を明かせそうだ。
床にはひびと瓦礫、入口に扉は無し。そのまま寝るにはさすがに心許ない。
伊織はマジックバッグからカンテラを取り出し、燐寸を使って火を入れた。
《ライト》の魔法を解除し、床に散らばる石片を一つ持ち上げた。
ざらざらしていて、硬く、冷たい。
「土は……固定」
これを部屋の邪魔にならない所に集め、崩れないようにしたい。
部屋の奥の一角を寝る場所に決め、その外側に小さな瓦礫と石片を寄せる。隙間に土を詰め、杖を構えた。
ばらばらの粒が、お互いを支えあう。
押しても揺らしても崩れない。
その場に留まる。
そういう形を思い浮かべる。
杖を通して、何かが流れる感覚を得た。
石片と瓦礫の隙間で、土がわずかに沈む。
それきり動かなくなり、小さなバリケードができた。
「どう…かな…?」
杖の石突でつつく。
靴底で押してみる。
びくともしなかった。
「……よし」
少なくとも、今のイメージで固定はできそうだ。
次は扉だ。
部屋にまだまだ残っている瓦礫と石片を頑張って入口に寄せ、もはや漆黒となった小屋の外をできるだけ意識しないようにイメージの構築を急いだ。
(外から押しても倒れなくて、内側から押したら倒れるように…)
もっと具体的に。そう、工事現場の立て看板みたいな形。それで入口をしっかり埋めるように。
さっきのバリケードよりも幾分意識を集中すると、入口に寄せておいた瓦礫と石片に繋がった感じがした。
(今度は土の…固定と形成…石で組み上げるように…)
間もなく、瓦礫と石片たちがまるで見えないいくつもの手で積み上げられていくように小屋の入口を塞ぎだした。それも、伊織がイメージしたようにやや傾斜のついた壁一枚と、それを支えるように石の突っ張りが組みあがった。
伊織はゆっくりを息を吐き、集中を解くと、試しに石の扉を触ってみた。瓦礫は欠片すら落ちることなく、しっかりとした板状に固定されていた。ゆっくり押してみると、じわりと扉が向こう側に倒れそうになったため、慌てて戻した。
「…今日の宿、完成かな?」
先に作ったバリケードを背もたれにして床に腰を下ろす。
肩から力が抜けると、足がじんわり痛み始めた。
日頃に比べて遥かに歩いていたことを、今になって思い出す。
入口の隙間から、夜の森が見える。
カンテラの明かりを少し弱めた。
石の壁に、伊織の影が小さく映った。
「……お腹すいたなぁ…」
次にやるべきことを、身体が訴え始めた。
マジックバッグを腰から膝の上へ引き寄せ、たまごサンドを思い浮かべながら手を入れる。
指先に、包みの感触が触れた。
取り出してみると、ゲーム中で幾度となく見た包み紙だった。開いた中には、ふわふわの白いパンに黄色いたまごがたっぷり挟まったサンドイッチがふたつ。
「……ちゃんとたまごサンドだなぁ…」
続いて、リンゴジュース。
今度はひんやりとした瓶が手に収まった。取り出してカンテラの明かりに透かすと、薄い金色の液体が揺れていた。瓶の口には手で外せるような形でコルク栓がしてあった。
瓶を床に置き、まずはサンドイッチをひと口。
やわらかでほのかに甘いパンと、たまごの濃厚さ、少し酸味のあるまろやかなマヨネーズの味が口に広がる。
「……こんな味だったんだ……おいしい…」
気付くと、ひと口目より大きく頬張っていた。
その後、一つ目のサンドイッチをあっという間に食べ終え、瓶のコルクを掴む。少し固かったけれど、捻りながら引くと、ぽんっ、と小気味良い音を立ててコルク栓が抜けた。
甘いリンゴの香り。
瓶を両手で持ち、口をつける。喉を通る冷たさが気持ちよくて、つい続けて飲んでしまった。
「…はー…生き返る…」
口から瓶を離し、息を吐く。
ひびのある石の床に座って、やや埃っぽい遺跡の中で晩ごはん。
普通なら、落ち着いて食べられるような場所ではない。
それでも、今はサンドイッチを味わうことができる。何かに追われることもなく、ジュースを飲んでいられる。
それだけで、ずいぶんありがたかった。
ふたつめのサンドイッチに手を伸ばして、ふと止まる。
(…これいつ買ったっけ?)
少なくとも、ルイーナに来る前に買ってマジックバッグに入れていた食べ物だ。
しかし、パンは柔らかいままだし、潰れてもいない。たまごも変なにおいや味はしなかった。
ジュースもしっかり冷えていた。
伊織は、膝の横に置いていたバッグを見た。
あれだけいろいろ入っているのに、外から見れば少し大きめのポーチにしか見えない。
手を入れてみても、瓶や道具がごちゃごちゃ詰まっている感触はない。欲しいものを思い浮かべれば、それが手に触れる。今までは特に意識もせず使っていたけれど。
「中…どうなってるんだろ?」
時間が止まっている?異空間に繋がっている?
どちらにしても、今すぐ確かめる方法は思いつかなかった。食べ物を入れて、外に置いたものと比べればわかるだろうか。でも、貴重な食糧で実験する気にはなれない。
残ったサンドイッチを口へ運ぶ。
そのとき、結んで短くした袖の端が、包みに引っかかった。
「あ、もう…」
そういえば、歩いている間も何度か緩んでいた。裾も持ち上げて縛っているだけだから、動くたびに引っ張られる。さっき瓦礫を運んだ時にも、靴の違和感が拭えなかった。
庵なら、そのまま着られた服だ。
伊織には、大きすぎる。
「…ちゃんと直そうっと」
今なら座れる。明かりもある。少なくとも、昼間よりは落ち着いている。
最後のひと口を食べ、指先についたパンくずを包みの上に落とした。ジュースにはもう一度コルクを押し込み、倒さないように壁際に置く。
それから、バッグに手を入れた。
取り出すのは裁縫キット。
少し洒落たケースを開き、針と糸巻き、鋏を並べる。
「…前までは選択して指先でちょちょいでできてたけど…」
大学に入ってからは、取れかけたボタンを縫い付けるくらいしかやっていなかった。
まずは袖。
結び目をほどくと、布がするすると落ちて、指先まですっかり隠れてしまった。
余る分を内側へ折り込み、腕を曲げたり伸ばしたりして確かめる。
これくらいなら、杖を持つにも邪魔にならない。まち針で仮止めする。
一度ローブの下でジャケットを脱ぎ、手と服だけを外に出した。
糸巻きから白い糸を引き出し、針に通す。
「…ん?」
糸巻きを見る。
減っていない。
気のせいかと思い、糸をさらに引いた。膝の上に糸がたるみ、ケースの端から床に垂れる。
それでも、巻かれている糸の厚みは変わらなかった。
「…なるほど?」
ゲームでは、糸の残りを気にすることなんてなかった。けれど、こうして実物を引っ張ってみると、なんとも不思議な感じがする。
折った袖の端へ針を刺す。指を刺さないように、ゆっくり引き抜いた。
白い糸が、黒い生地の上に短い線を作った。
その線が、すうっと色を変えた。
「え?」
もう一度縫う。
針についている糸は白い。でも、生地を通って引き締めた部分だけが、周りに馴染む色になっていく。
伊織は袖を持ち上げ、明かりに近づけた。
ちゃんと糸はある。指で触れば縫い目もわかる。
ただ、色がほとんど生地と同じなので、少し目から離すと目立たなくなった。
「…まさしくマジックアイテムだなぁ…」
思わず呟いてから、何度か針を通し、縫った部分を裏返す。
間隔はばらばらだった。少し斜めにもなっている。
「…ここはマジックないんだ…」
何針か進めるたびに腕を通し、長さと動きやすさを確かめる。片方が終わったらもう片方。
揃えたつもりだったけれど、並べてみると少しずれていた。
「うん……着られるから、よしっ」
自分に言い聞かせ、今度は裾の結び目へ手を伸ばす。
外では、ときおり何かが鳴いていた。
そのたびに針を止め、入口を見る。
石の扉は動かない。
しばらく耳を澄ませてから、また手元へ目を戻した。
カンテラの小さな明かりの下で、針を通し、糸を引く。
白い糸が、服の色に溶けていく。
少しずつ、庵のための服が、伊織の服になっていった。
◇ ◇ ◇
最後の糸を切り、伊織は鋏を置いた。
「…できた」
広げてみれば、縫い目は少し曲がっている。左右もきっちり揃ってはいない。
けれど、結び目とたるみだらけだった時よりは、ずっと服らしい形になった。
ジャケットに腕を通し、その上からローブを羽織る。
立ち上がると、今度は裾を踏まなかった。
腕を上げる。
曲げる。
しゃがんで、立つ。
「…うん。しっかり動ける」
杖を持ち、構えてみる。袖が指先に被さらない。肘を曲げても、変なところが引っ張られたりしない。
弓も構えてみる。淀みなく狙うことができた。
伊織はその場で半回転し、肩越しに背中を見ようとした。
当然、よく見えなかった。
「…鏡欲しいなぁ…」
胸元から裾までを見下ろす。我ながら、よくできている…気がする。
「…うん。似合ってることにしよう」
もう一度、杖を持った腕を伸ばす。
肘の少し下に、ちくりとした痛みが走った。
「…ん?」
杖を壁に立てかけ、袖をまくる。
腕の外側に、細い擦り傷があった。乾いた血が薄くついて、その周りが赤くなっている。
いつできたんだろう。森を歩いた時か、瓦礫を運んだ時か。
そっと触れると、ひりつく痛みを感じた。
「気付くと痛くなるのはなんでだろうねぇ…」
バッグへ手を伸ばす。回復ポーションなら入っているはずだ。
でも、この小さな傷に一本使うのは少し惜しい。
もっとひどい怪我をするかもしれない。買い足せる場所だって今はわからない。
傷を見て、入口の石の扉を見る。
石と土を、イメージした形に組み上げて固定できた。
決まった魔法を選ばなくとも、欲しい結果を思い浮かべれば、魔法はそれに答えた。
だったら。
「…傷にも、なにかできる?」
ゲームではウィザード職に回復魔法はなかった。それはプリーストの祈祷が担っていたからだ。
(それでも、私の中の仮説が正しいとしたらーーー)
伊織は腰を下ろし、腕をカンテラの明かりへ近づけた。
傷は浅い。今はほとんど血も出ていない。
治す、と一言で考えるから難しいのかもしれない。
まず、何をしたいのか。
(汚れを落とす、血を止める。それから、傷を保護する…かな?)
いきなり全部は怖い。まずは洗うところから。
バッグから取り出した布を腕の下に敷き、杖を握る。傷の上に少量の水を作った。
水が傷に触れると、ひやりとして、それから少し沁みた。
「っ……」
魔法で作った清潔な水で、表面の汚れだけ浮かせる。
傷の奥へ押し込まず、外へ流す。
小さな水の粒が、ゆっくりと傷の上を滑った。乾いた血がふやけ、薄い赤を帯びた水が布へと落ちる。
伊織は一度、魔法を止めた。
洗った傷の端から、血が小さく滲んでいた。
次は、出血を止める。
土属性の特性は「固定」。
ただし、腕を石みたいに固めたいわけじゃない。
傷ついたところだけ。無理に引っ張らず、今の位置で支える。
伊織は息をゆっくりと吐いた。
傷の細い線へ意識を絞る。
ばらばらになったものを乱暴に繋ぐのではなく。
これ以上開かないように。
杖を通して魔力が流れる感覚があった。
傷の周りに、ごく薄い膜が張ったように感じた。
赤い粒は、それ以上大きくならなかった。
「……とまった?」
しばらく待つ。
肘を曲げ、伸ばす。
血は滲んでこない。
けれど、傷そのものは残っている。
最後に、ひりつく刺激を弱められないかと考えた。
減衰の属性は…闇。
痛みだけを消せたら楽だろう。でも、それでは悪くなっても気付けないかもしれない。
「……ちょっとだけ」
傷の周りに向ける魔力を、細かく微調整する。強くではなく、ごく弱く。
ひりひりしていた感覚が、ゆっくり遠退いた。
完全に傷が消えたわけではない。触れれば、まだ痛い。
伊織はそこで魔法を止めた。
腕を持ち上げ、傷を眺める。
見た目は治療前より綺麗になった。
出血もない。動かしても傷が開く感じもしない。
「成功…かな?」
治った、と言っていいのかはわからない。傷はまだあるし、魔法をやめた後も同じ状態が続くか経過観察は必要だ。
それでも、傷口を洗浄し、出血を抑え、傷を保護することはできた。
「回復魔法じゃない…応急処置?」
大怪我を治せるようなものではない。少なくとも、今の自分には無理だ。
でも、小さな傷ならその場でできることが増えた。ポーションを節約することができた。
水で洗い、土で支え、闇で刺激を弱める。
一つの属性で全部やる必要はない。欲しい働きに分解して組み合わせればいい。
入口の扉も同じなのかもしれない。
石を動かし、形を作り、留める。ひとまとめに考えていたけど、実際にはいくつかの働きが重なっていた。
「…色々組み合わせられるかもしれないなぁ…」
そこまで考えて、ふと気付く。服を直し、ご飯を食べ、傷の処置もひとまずできた。
「……結構頑張ったよね?」
声が、石の壁に小さく響いた。
それきりだった。
伊織は顔を上げて周りを見渡した。
カンテラ。
瓦礫。
小さなバリケード。
自分で作った石の扉。
誰もいない。
さっきまで、糸や傷を見ていた。
次に何をするか考えていれば、時間は勝手に過ぎていった。
だが、手が空くと、小屋の中が急に広く感じられた。
外で何かの鳴き声が聞こえた。
葉が擦れる音がする。
「……今日、誰とも話してないな…」
自分の声ばかり聞いていた。
便利な道具を見つけても。
ゲームにはなかった魔法ができても。
驚く声も、笑う声も返ってこない。
伊織は膝を引き寄せた。
傷のある腕を避けて、もう片方の腕で抱える。
明日になったら。
明るくなったら、誰かを探そう。
そう考えてみても、今夜の静けさは変わらなかった。
カンテラの炎が、かすかに揺れた。
「…………?」
頬に、冷たいものが触れた。
風だ。
入口からだろうか。
炎を見て、それから石の扉を見る。
もう一度、頬を撫でる風に意識を向けた。
違う。
風は、瓦礫に埋もれた小屋の奥から流れてきていた。
「……奥、まだ続いてる?」
伊織は膝をほどき、カンテラを持ち上げた。
杖を手に取り、瓦礫の前へ近付く。
光を向けると、積み重なった石の隙間に暗い穴が見えた。
顔を近付け過ぎないようにして、耳を澄ます。
何も聞こえない。
ただ、細い隙間から冷たい空気が流れてくる。
外へ繋がっているかもしれない。だとしたら、入口を塞いだだけでは安心できない。
「…確認だけ。確認だけだから…ね」
カンテラを足元に置き、杖を向けた。
手前の石から、一つずつ。
上に載っているものを崩さないよう、動かす場所を思い浮かべる。
石が擦れ、低い音を立てた。
伊織は一度手を止め、天井を見る。
何も落ちてこない。
次の石を動かす。
その次も。
少しずつ、瓦礫の向こうが見えてきた。
壁だと思っていたところに、入口があった。その先には、小さな空間が続いている。
カンテラを持ち上げ、隙間から明かりを差し入れる。
床に、何かがいた。
「……っ」
伊織は息を止めた。
それは、犬のように見えた。
前脚を揃え、その上へ顎を載せている。
伏せたまま、こちらを見ているように見えた。
動かない。
杖を握ったまま、もう少し明かりを近付ける。
頭の両側に、長い耳が垂れていた。先の丸い耳は頬に沿って下がり、床の近くまで届いている。
丸みのある頭から、程よく長い鼻先が突き出していた。
細身というより、胴はがっしりしている。
その脇に後ろ脚を畳み、尻尾を添えていた。
「……ビーグル犬…かな?」
見覚えのある犬の形だった。長い垂れ耳と、どこか困っているような顔。
けれど、その身体に毛は一本もなかった。
カンテラの光が照らした姿は、全身硬い石のようなものでできていた。
鼻も、脚も、垂れた耳まで。
「……置物?」
詰めていた息が抜ける。
伊織は杖を少し下げ、残った瓦礫を脇へ寄せた。身体を横にして隙間を抜け、犬の前にしゃがむ。
長い垂れ耳。丸みのある頭と、少し突き出した鼻先。
がっしりした胴の下に脚を畳み、揃えた前脚へ顎を載せている。
やっぱり、ビーグル犬に似ていた。
その姿を眺めているうちに、ゲームで見た光景が浮かんだ。
街を歩くプレイヤーの後ろを、小さな動物がついていく。足元で待ったり、主人を見上げたりしていた、あの姿。
「もしかして…『ファミリア』?」
プレイヤーが連れて歩ける、動物型のゴーレム。戦闘力は一切無いが、種類も色も様々で、性格まで違うらしい。
他のプレイヤーが連れているのは、何度か見た。羨ましくて、入手方法を調べたこともある。
けれど、伊織は結局手に入れることができなかった。
「……本物、かな?」
近くで見ると、左耳の先が欠けていた。丸いはずの輪郭が、そこだけ不揃いになっている。
胴体にもひびがあった。背中から脇腹へ、斜めに一本。
伊織はカンテラを床に置いた。
石の犬は、ピクリとも動かない。
壊れているのだろうか。
それとも、ただ起動してないだけなのか。
埃を被った前脚の上で、鼻先だけが少し覗いていた。
眠っているみたいだった。
「……ちょっと、触るね…」
そっと手を伸ばす。
指先で頭の埃を払った。長い耳の付け根から、鼻先へ。
石の犬は、冷たかった。
それでも、伊織はすぐには手を離さなかった。
頭を撫でていた手を、背中へ移す。
指先が、ひびの縁に引っかかった。
「……ここ…直してあげられないかな?」
石なら、さっきも扱った。ただ、動くはずの身体を、扉と同じように固めてもいいのだろうか。
伊織は犬の胴を眺めた。ひびは背中から脇腹へ伸びている。そこだけを繋いで、周りには触らないようにすれば…
「……ちょっと、やってみるね」
ひびに入り込んだ埃を払い、床から少量の土を集める。
杖の先を近付け、細い隙間へ意識を絞った。
足りないところを埋める。
元の形に沿わせる。
バラバラになりかけた部分を、繋ぎ留める。
土がひびへ入り込み、細い線になった。
ざらついた表面が少しずつ締まり、石の身体に馴染んでいく。
伊織は魔法を止めた。
指先で、そっとなぞる。
線は残っているけれど、さっきの様に引っかかる隙間はなくなっていた。
「……どうかな?」
犬は動かなかった。
「ですよねー…」
伊織は手を引きかけて、顎の下に赤いものを見つけた。
埃に隠れていたけれど、首をぐるりと囲んでいる。
赤い首輪だ。
指で汚れを払うと、その正面には小さなクリスタルがはまっていた。
「…この色…土属性のクリスタル?」
入手方法を調べた時、起動にはその個体に合った属性の魔力が必要だと読んだ。
修理しただけでは、動かない。こちらにも、魔力を入れないと。
伊織は結晶へ指先を添えた。
土属性。
まずは少しずつ。
杖を通して扱っていた魔力を、今度は指先へ向ける。
結晶の奥へ流し込むように。
淡い光が灯った。
「……お?」
光が、結晶の内側に溜まっていく。
伊織は息を詰め、そのまま少しずつ魔力を送り続けた。
こつ、と音がした。
指の下で、首輪が動いた。
「えっ……?」
慌てて手を引く。
石の犬が、顔を上げていた。長い耳が頬から離れ、ゆっくりと揺れる。
伊織を見上げたまま、鼻先を少し傾けた。
「…………かわいい…」
前脚が伸びる。
床を踏み、後ろ脚を立てる。
伊織は思わず腰を浮かせた。
犬はその場で一度、身体をブルっと震わせた。
背中に残っていた埃が舞い、伊織は顔を背ける。
「わっ…ちょっ……」
目を戻すと、もっと近くにいた。
鼻先が、膝のそばに出していた手へ触れる。
ひんやりとした、硬い感触。
伊織が手を引くと、犬は一歩ついてきた。もう一度、鼻先を寄せる。
「……なにかな?」
尻尾が揺れていた。
伊織が手を差し出すと、その下へ頭を潜り込ませる。
「撫でてほしいの?」
耳の間に手を置く。
犬は目を細めるようにして、顎を少し上げた。尻尾の動きが速くなる。
「……ふふっ」
声が漏れた。
さっきまで、何を言っても動かなかった。
今は、撫でると頭を押し付けてくる。手を止めれば、鼻先で軽くつついてくる。
「はいはい、撫でますよー」
背中へ手を滑らせる。
修復したところにも触れたけれど、ひびが広がる様子はなかった。
犬は伊織の膝へ前脚を載せようとした。
「待って、重い重い…!」
慌てて両手で受け止める。小さく見えても、身体は石だ。ずしりとした重みに、伊織は後ろへ傾きかけた。
犬は、不思議そうに首を傾げた。
「……お腹の上には乗らないでね?」
前脚を床へ戻す。すると今度は、伊織の足にぴったり身体を寄せて座った。
見上げてくる顔。
欠けた左耳。
まだうっすら線の残る背中。
伊織はその頭を、もう一度撫でた。
「……おはよう」
犬の尻尾が、床をこつこつと叩いた。
伊織は笑った。
今度は、声を出した後にも、小さな音が返ってきた。
◇ ◇ ◇
しばらく撫でていると、犬が口を開いた。
「くぅん」
伊織の手が止まる。
「…君、鳴くの?」
犬は首を傾げた。それから、止まった手の下へ鼻先を差し入れる。
「くぅん」
「…かわいい……」
石の身体から、こんなに柔らかい声が出るとは思わなかった。
耳の付け根を撫でると、犬は顎を上げた。尻尾が、また床をたたく。
「君、名前は?」
聞いてから、赤い首輪を見る。
どこかに書いてあるかと思ったけれど、見えるのはクリスタルだけだった。
もちろん、名前を表示してくれる画面もない。
「……名前、私がつけてもいいかな?」
犬は伊織を見上げていた。
硬い身体。
滑らかな頭。
陶器みたいな手触り。
「陶器…セラミック……セラ…」
頭を撫でながら、口の中で転がす。
「……セラ太」
犬の耳が、少し動いた。
「セラ太。どうかな?」
「わんっ」
短い声が、小さな部屋に響いた。
伊織は目を丸くして、それから笑った。
「そっか。じゃあ、セラ太ね」
立ち上がると、セラ太も立った。
カンテラを持って歩き出せば、すぐ後ろからコツコツと足音がついてくる。
瓦礫の隙間を抜け、元の部屋に戻る。
振り返ると、セラ太は鼻先を出し、欠けた耳を石にぶつけないよう身体を通していた。
「……ちゃんと来られたね。偉いね」
伊織がしゃがむと、真っ直ぐ寄ってきた。
また膝に乗ろうとするので、胸元をそっと受け止める。
「そこは駄目です。君重いから」
セラ太は尻尾を振ったまま、床に座った。
伊織はマジックバッグから寝袋を取り出し、片づけた床、石の扉からはバリケードを挟んで反対側に広げる。
セラ太はその周りを一周して、端に鼻先を寄せた。
「私の寝床だよ。君も、ここにいてね」
寝袋へ身体を入れる。
横になった途端、背中と足が重たく感じられた。
今日は、ずいぶん色々とあった。
思い返そうとしても、もう順番がうまく並ばない。
セラ太が、入口の方を向いた。
外で葉が擦れる音がする。
セラ太は長い耳をわずかに動かし、しばらくそちらを見ている。
伊織も顔を上げた。
石の扉は動かない。
やがてセラ太は寝袋のそばへ戻り、前脚を揃えて伏せた。
身体は入口へ向けたまま、顔だけを伊織へ向ける。
「……なにかあったら、教えてね」
小さな声で頼む。
セラ太は鼻先を伸ばし、寝袋から出した手に触れた。
ひんやりしている。
けれど、伊織はそのまま頭を撫でた。
カンテラの灯を消すと、部屋が暗闇に閉ざされた。
一瞬、胸が落ち着かなくなる。
すぐそばで、コツ、と音がした。
セラ太が顎を前脚に載せ直したらしい。
伸ばした指先には、垂れた耳が触れていた。
「……おやすみ、セラ太」
「くぅん」
伊織の口元が、少し緩んだ。
外では、まだ何かが鳴いている。
それでも、さっきほど遠くまで耳を澄ませずにいられた。
手を寝袋へ戻し、目を閉じる。
今夜は、ひとりではなかった。
作者は犬派です。大きければ大きいほど好きです。




