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忘却の魔女と星を拾う筆跡  作者: まつたけひめ
第1章

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第九話 昨日のあしたが降る街と透明な落とし物

 街道を歩いていたエルノアは、ふと足元から立ち込めてきた奇妙な霧に気づいた。それはただの霧ではなかった。茜色と群青色が入り混じったような、夕暮れとも夜明けともつかない不思議な色合いを帯びていた。


 「これは……」


 立ち止まる間もなく、霧はあっという間にエルノアを包み込んでいった。息を吸い込むと、甘く懐かしいような、それでいてどこか寂しいような、名前のつけられない香りがした。何かを思い出しそうで、思い出せない、そんなもどかしさが胸をよぎる。


 やがて霧が晴れたとき、エルノアは見覚えのあるようで、誰も見たことのないはずの奇妙な街に立っていた。足元の地面は柔らかく、まるで綿雲を踏んでいるかのような不確かな感触だった。


 「ここは……いったい」


 空はいつまでも茜色と群青色が混ざり合う、終わらない黄昏に染まっていた。太陽も月も見当たらないのに、辺りは不思議と柔らかな光に満ちている。見上げると、ガラス細工のように透き通った魚たちが、まるで水の中を泳ぐようにゆったりと空を漂っている。ひれを動かすたびに、きらきらとした光の粒がこぼれ落ちていった。逆さまに立つ時計塔からは、針の代わりに小さな光の粒がぽつり、ぽつりと零れ落ちていた。


 道沿いの露店カフェでは、輪郭だけの人影――シルエットのような存在たちが、中身の入っていないティーカップを傾けながら、楽しげに談笑していた。時折、笑い声のようなものが空気を震わせるが、それは言葉になる前の、ただの温かい響きだった。


 困惑するエルノアの前に、シルクハットをかぶった一つの人影が、恭しく一礼して歩み寄ってきた。輪郭は淡く揺らめいているのに、その所作の一つひとつには、まるで長い年月を生きてきた紳士のような品格が漂っていた。


 「ようこそ、忘却の旅人さん」


 紳士的な、けれど輪郭の曖昧な声だった。


 「ここは『誰かが忘れてしまった時間』が集まる場所です。……街の名は、ヌルと申します」


 「忘却の……旅人? なぜ、私のことをそう呼ぶのですか」


 問いかけるエルノアに、人影はゆっくりと頭を下げた。


 「この街に辿り着く者は、皆、何かを失った者たちです。貴方の輪郭には、そういった方特有の、優しい寂しさが滲んでいますから」


 その言葉に、エルノアは思わず自分の胸に手を当てた。何かを失っているという感覚は、確かに常に付きまとっている。だが、それを他者にこうもはっきりと言い当てられたのは初めてのことだった。その言葉の奥に込められた意味を、エルノアはすぐには理解できなかった。それでも、その声には確かな温かさと、深い敬意が込められているように感じられた。


 


 


 


 


 人影は自らをアニマと名乗った。導かれるまま、エルノアは宙に浮かぶ石畳の上を歩きながら、この不思議な街を見て回った。


 石畳は歩くたびにふわりと沈み、まるで雲の上を歩いているかのような感触だった。街のあちこちには、言葉にならない呟きのようなものがふわふわと漂い、時折人の形になったかと思うと、またすぐに霧散していく。街の隅には、階段が真っ直ぐに雲へと伸びていたり、雨粒が地面から空へと逆さまに降っていったりと、常識では考えられない光景が当たり前のように広がっていた。それでも不思議と恐怖は感じず、むしろどこか懐かしいような安らぎすら覚えた。


 「この街には、人々が世界の中で失ってしまった『言葉』や『忘れ去られた時間』、それに『名前のつかない感情』たちが、こうして形をとって集まってくるのです」


 「まあ……なんて不思議な」


 「あの魚たちは、過ぎ去った時間が刻んだ、時計の針の音を食べて生きています。空から零れ落ちる光は、誰かが忘れてしまった、ささやかな喜びの欠片なのですよ」


 澄んだ音を立てながら泳ぐ魚たちの群れを見上げ、エルノアはしばらく言葉を失っていた。


 アニマは歩きながら、いくつもの奇妙な光景を指し示していった。道端に佇む小さな灯りは、誰かが口にできなかった一言が形になったものだといい、風に乗って流れる淡い旋律は、幼い頃に口ずさんだきり忘れられてしまった子守唄なのだという。エルノアはその一つひとつに耳を傾けながら、この街のすべてが、誰かの人生の断片で織り成されていることに、静かな畏敬の念を抱いた。


 アニマの説明に耳を傾けながら、エルノアはふと胸に手を当てた。この街を歩けば歩くほど、なぜだか懐かしさと切なさが入り混じった不思議な感覚が募っていく。


 「私は、大魔法を使うたびに、たくさんの大切な思い出を失ってきました。……私の消えてしまった記憶も、もしかして、ここにあるのでしょうか?」


 声に出してみると、その問いは思っていたよりもずっと重く、そして切実なものだった。ずっと胸の奥にしまい込んでいた疑問が、ようやく言葉になった気がした。


 アニマは静かに首を振った。


 「記憶そのものは、燃えて消えてしまいました。……ですが、貴方が誰かに残した『想いの影』なら、あそこにありますよ」


 シルクハットの下から覗く輪郭だけの瞳が、遠くの方角をそっと指し示した。その先には、雲を突き抜けるようにして建つ、小さな塔のような建物がぼんやりと見えていた。


 


 


 


 


 アニマに連れられて辿り着いたのは、雲の上にぽつんと立つ、小さな建物だった。中に足を踏み入れると、天井まで届く棚に、無数の透き通ったガラスの箱が整然と並んでいる。それぞれの箱には、うっすらとした光が灯り、まるで小さな星が瞬いているかのようだった。棚は見上げても見上げても終わりが見えないほど高く積み重なり、この街に集められた無数の想いの多さを物語っていた。


 「ここは……忘れ物保管所、とでも言うべき場所でしょうか」


 「その通りです。ですが、ただの忘れ物ではありません。ここにあるのは、誰かの心に確かに刻まれ、それでも本人が気づかぬまま消えてしまった、大切な欠片たちです」


 アニマの声には、どこか誇らしげな響きがあった。まるで、この場所に集められた無数の想いを、大切に守り続けてきた番人のようだった。


 エルノアは吸い寄せられるように、一つの小さな箱の前で足を止めた。その瞬間、箱の中から、オルゴールのねじを巻いたような、かすかで優しい音の響きが聞こえてきた。


 「これは……」


 耳を澄ませてみると、それはただの音ではなかった。誰かの声のような、温もりのような、けれど言葉としては形を成さない、不思議な響きだった。じっと聞いていると、幾重にも重なる声が、まるで大勢の人々が一斉に何かを伝えようとしているかのように感じられた。


 「それは、貴方自身はもう完全に忘れてしまった、過去に救った誰かが、去りゆく貴方の背中に囁いた『ありがとう』の言葉です。差し出された手の温もりの残響でもあります」


 アニマの説明に、エルノアの胸が締め付けられた。誰のものかは分からない。けれど、確かに自分に向けられたものだったのだと、理屈を超えて感じ取ることができた。


 「他にも、たくさんの箱がありますよ」


 アニマに促され、エルノアは並んだ箱の間をゆっくりと歩いた。それぞれの箱から、微かな温もりや、優しい光、時には涙の匂いさえ漂ってくるようだった。どの箱も、エルノアがこれまで意識することのなかった、無数の小さな奇跡の欠片だった。


 ある箱からは、幼い子供の笑い声が聞こえた。別の箱からは、誰かが安堵して漏らした深いため息が伝わってきた。また別の箱からは、静かにすすり泣くような、それでいてどこか温かい音が響いていた。それぞれの音や香りが、確かにどこかの誰かの人生の一場面だったのだと思うと、エルノアは胸が熱くなるのを感じずにはいられなかった。


 「頭の中から思い出が消えても、貴方が世界に灯した『優しさの波紋』は消えません。それはこうして形を変え、世界のすき間を優しく満たしているのです」


 その言葉を聞いた瞬間、エルノアの瞳から静かに涙がこぼれ落ちた。理屈では説明できない、けれど確かな安堵と喜びが、胸の奥から込み上げてくる。旅の中で何度も感じてきた孤独が、少しずつ溶けていくような感覚だった。誰にも気づかれないまま消えていったと思っていた記憶たちが、こうして確かに世界のどこかで息づいていたのだと知り、涙は止まらなかった。


 「よかった……。私が忘れてしまっても、何も無くなってはいなかったのですね」


 その呟きは、これまで胸の奥にずっと抱えていた不安への、静かな答えのようだった。


 


 


 


 


 街の広場で、アニマや他の人影たちに誘われて、エルノアは小さなお茶会に参加することになった。丸いテーブルの周りには、輪郭だけの人影たちがいくつも腰掛け、それぞれが優雅な仕草でティーカップを傾けている。


 差し出されたティーカップの中身は、やはり何も入っていなかった。それでも、そっと口をつけてみると、ほんのり甘い、胸の奥がぽかぽかと温かくなるような不思議な味が広がった。まるで、遠い記憶の中にある誰かの優しさを、そのまま口に含んだかのようだった。


 「美味しい……」


 思わず呟くエルノアに、周囲の人影たちが輪郭を揺らして笑うような仕草を見せた。声にならない笑い声が、優しく広場を満たしていく。誰かが手を叩くような仕草をすると、別の人影がゆらゆらと立ち上がり、まるで踊るように輪郭を揺らめかせた。言葉はなくとも、そこには確かな親しみと歓迎の気持ちが満ちていた。


 「この街の住人たちは、皆、貴方に感謝しているのですよ。貴方が世界に残してきた温もりが、彼らをここに存在させているのですから」


 アニマの言葉に、エルノアは目を細めた。姿も名前も分からない相手だというのに、不思議と懐かしさを感じる。まるで、遠い昔からずっと知っていた友人たちのような気がした。


 テーブルの周りでは、いくつもの人影たちが、代わる代わるエルノアの傍に寄っては、輪郭を優しく震わせながら、何かを伝えようとしていた。言葉はなくとも、その仕草の一つひとつから、確かな感謝と親しみが伝わってくる。エルノアはその温もりに包まれながら、しばらくの間、時間を忘れて笑い合った。この街にどれほど長く滞在していたのか、もはや分からなくなるほど、穏やかで満ち足りたひとときだった。


 旅立ちの刻が近づいた頃、アニマはガラスの箱から溢れ出た光の粒を、そっと指先で掬い取った。それを丁寧に紡ぐようにして、一筋の透明な光の羽を作り上げる。その様子は、まるで熟練の職人が繊細な硝子細工を仕上げていくかのように、静かで丁寧な手つきだった。


 「これは記憶ではありません。ですが、貴方が世界へ与えてきた『愛の証明』です。どうぞお持ちください」


 差し出された光の羽を、エルノアは両手でそっと受け取った。ひんやりとしていながらも、どこか温かい、不思議な感触だった。指先に伝わるその温もりは、まるで誰かが優しく手を握ってくれているかのようだった。羽の表面には、これまで訪れた街々の風景が、幻のようにうっすらと映り込んでいるようにも見えた。エルノアはその羽をしばらくの間、大切そうに見つめ続けた。


 「ありがとうございます、アニマさん」


 深々と頭を下げるエルノアに、アニマはシルクハットを軽く持ち上げ、恭しく一礼を返した。


 「こちらこそ、貴方のような方に出会えて光栄です。……いつかまた、この街に迷い込むことがあるかもしれません。その時は、また私がご案内いたしましょう」


 その言葉に、エルノアは思わず微笑んだ。次に会うときには、この出会いすら忘れてしまっているかもしれない。それでも、そのことを寂しく思う気持ちよりも、確かな温もりへの感謝の方が、今は大きく胸を満たしていた。何度忘れても、何度でもこうして出会い直せるのなら、それもまた一つの幸せの形なのかもしれないと、エルノアは静かに思った。


 


 


 


 


 草原の真ん中にぽつんと佇む、古びた木製の扉。それをくぐった瞬間、エルノアは澄み渡る秋晴れの街道へと戻っていた。


 「あれ……?」


 振り返っても、黄昏の街も、空を泳ぐ魚も、輪郭だけの人影たちも、どこにも見当たらなかった。あるのはただ、どこまでも続く穏やかな草原と、青く澄んだ空だけだった。まるで、すべてが白昼夢だったかのように。風にそよぐ草の音だけが、やけに現実味を帯びて耳に届いていた。


 「夢だったのでしょうか……」


 首をかしげたエルノアだったが、ふと自分の両手に視線を落として息を呑んだ。そこには確かに、ひんやりと温かい透明な光の羽が握られていた。陽の光にかざすと、羽はきらきらと淡い虹色に輝き、まるで生きているかのように小さく震えた。


 サッチェルバッグにそっと納めると、これまでの思い出の品々と共鳴するように、優しい鈴の音がちりんと響いた。星の歯車も、空色のしおりも、木彫りのパンも、モフモフのハンカチも、修復された布人形も、真鍮のネジも、そして押し花のしおりも、すべてが一つになって歌うように音を重ねていく。まるで、これまで出会ってきたすべての人々が、遠くから見守ってくれているかのような、温かい響きだった。


 道端の切株に腰を下ろし、エルノアは『無題の皮革手帳』を開いた。不思議な余韻を噛みしめながら、静かにペンを走らせる。


 『〇月〇日。世界のすき間にて。失われたものは、消えてなくなったわけではありませんでした。思い出せない記憶も、私が残してきた温もりとなって、世界のどこかで優しく息づいています。だから私は、何も恐れることはありません』


 書き終えた文字を見つめ、エルノアは満足げに微笑んだ。ペンを置き、そっと空を見上げる。あの黄昏の街では見えなかった、澄んだ青空が広がっていた。不思議な充足感と温かい余韻を胸に抱きながら、エルノアはどこまでも続く青空の下を、軽やかな足取りで歩き出した。

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