第十話 逃亡するサッチェルバッグと三人のドジな泥棒
賑やかな商業都市グランバザールの宿屋で、エルノアは長旅ですっかりほつれてしまった愛用のサッチェルバッグを広げ、じっと見つめていた。窓の外からは、市場の呼び込みの声や、荷馬車の車輪の音が絶え間なく聞こえてくる。
「うーん、ここもほつれていますし、ここも……。手縫いで直すには、少し時間がかかりそうですね」
肩掛けの部分や底の縫い目が、あちこちほころびかけている。長い旅路を共にしてきた相棒だからこそ、丁寧に直してあげたい。だが、この街には見て回りたい市場もたくさんある。窓の外を見やると、色とりどりの屋台や、珍しい品物を売る店が軒を連ねているのが見えた。人々の楽しげな声や賑わいが、宿の部屋にまで届いてくるようだった。エルノアは少し悩んだ末、名案を思いついたとばかりに手を叩いた。
「そうです、生活魔法の『全自動裁縫魔法』を使いましょう。これなら、あっという間に直るはずです」
我ながら名案だと、エルノアは満足げに頷いた。
杖を取り出し、意気揚々と呪文を唱える。だが、いつもより気持ちが逸っていたせいか、魔力の加減を少し間違えてしまった。しかも、うっかり露店で見かけた「なんだか怪しく光る糸」を面白半分で買っていたことを思い出し、それを縫い糸として使ってしまう。店主は「これを使えば、どんなものでも一針で仕上がりますよ」と怪しげな笑みを浮かべていたのだが、その時のエルノアはすっかり好奇心に負けてしまっていた。
「よし、これで完璧に直ります」
自信満々にそう呟いたのも束の間だった。エルノアはまだ、これから起こる大騒動を、露ほども想像していなかった。
パチパチと、いつもとは違う不穏な光が縫い針の周りで弾けた。針から立ち上る煙は、なぜか薄っすらと紫色を帯びていて、いかにも不吉な予感を漂わせていた。
「あ、あら……?」
嫌な予感がした次の瞬間、サッチェルバッグがぶるりと震えた。そして、底の部分から、まるで意志を持ったかのように、ちょこんと短い二本の足が生えてきたのである。
「な、なんですかそれは……!?」
驚くエルノアの目の前で、バッグはくるりと一回転すると、まるで初めて立つことを覚えた子供のように、たったったっと歩き出した。中に入っていた真鍮のネジや押し花のしおり、木彫りのパン、そして『無題の皮革手帳』までもがジャラジャラと音を立てて揺れる。まるで自分の意志を試すかのように、バッグはその場でくるくると回り、次第に自信を持ったように歩調を速めていった。
「ま、待ってください……!」
エルノアが手を伸ばすよりも早く、バッグは窓に向かって猛然と走り出し、そのままガラスを突き破って街へと飛び出していってしまった。ガラスの破片が飛び散る音と、宿の主人の驚いた声が背後から聞こえてきたが、それを気にしている余裕はなかった。
「待ってー! 私の思い出たちがー!」
悲鳴のような声を上げ、エルノアも慌てて後を追いかけた。
同じ頃、街の裏路地では、三人組の泥棒が息を潜めていた。自らを「あばれネズミ団」と名乗る彼らは、リーダー気取りのガッツ、大柄で食い意地の張ったボンバ、そして小柄で知恵者気取りのチップという顔ぶれだった。今日こそは大きな獲物を仕留めようと、朝からずっと路地裏で獲物を物色していたのだが、これといった成果は上がっていなかった。
「ボス、今日こそ大物を狙いやしょうぜ。このままじゃ今夜の飯代も怪しいんですから」
チップがそう囁いた、まさにその時だった。目の前を、足の生えた革のバッグが猛スピードで駆け抜けていったのである。
「な、なんだありゃあ!?」
三人は目を丸くして固まった。あまりの出来事に、しばらく声も出せずにいたが、チップがいち早く我に返り、興奮気味に叫ぶ。
「ボス! ありゃあ間違いなく、自走式の超高級な魔法宝箱に違いないや! ジャラジャラって音、聞きやしたか!? ありゃあ絶対に金貨か宝石の音でさあ!」
「よし、あいつを奪えば俺たちは一獲千金だ!」
ガッツは鼻息を荒くして立ち上がった。ボンバも「食いっぱぐれずに済むな」と、単純な理由で乗り気になった様子で頷いている。三人はろくに話し合うこともなく、我先にとバッグを追いかけて路地から飛び出していった。
こうして、「逃げるバッグ」を追う「エルノア」、そしてそれを奪おうとする「泥棒トリオ」による、街中を巻き込んだカオスな三つ巴の追跡劇が幕を開けた。
グランバザールの急な坂道を、バッグは軽やかに、そして容赦なく駆け下りていく。周囲の人々は突然走り出したバッグに度肝を抜かれ、悲鳴を上げながら道を空けていった。
「あっ、待ってください、そちらは……!」
エルノアの声も虚しく、バッグは市場の果物カートへと突っ込んだ。積み上げられていた高級な林檎が、ころころころと坂道を転がり落ち、通行人たちが悲鳴を上げながら飛びのく。果物屋の店主が「わしのリンゴがーっ!」と頭を抱える声が、坂の上まで響いてきた。
「うわあああ!」
真っ先に転がる林檎に足を取られたのは、追いかけていたガッツだった。豪快にすっ転び、そのまま坂道を転がっていく。
「ボス!」
助けようとしたチップも、地面に仕掛けていたはずの捕獲用の網に自ら足を引っかけ、器用にぐるぐる巻きになってしまった。
「な、なんでオレが自分の罠にかかるんだよぉ!」
情けない声を上げながら、チップは芋虫のように地面を転がっていった。その様子を見たガッツも、思わず舌打ちをこぼしたが、それどころではなかった。
その隙に、バッグは高級レストランの厨房へと突入していく。エルノアも慌てて後を追いかけ、粉まみれになりながら厨房の中を駆け抜けた。鍋やフライパンが次々と倒れ、コックたちの悲鳴と怒号が飛び交う。ある者は焼き上がったばかりのパイを手に持ったまま呆然と立ち尽くし、ある者は慌てて包丁を置いて逃げ出した。
「すみません、すみません……! 少々お借りします……!」
謝りながらも足を止めるわけにはいかない。エルノアは息を切らしながら、粘着魔法をバッグに向かって放った。
「これで捕まえました……!」
だが、狙いが逸れ、粘着の風は近くにいたボンバの足に命中してしまう。想定外の失敗に、エルノアは思わず頬を引きつらせた。
「うおっ、動けねえ!」
巨体のボンバがその場に固まり、勢いよく追いかけてきたチップがそのままぶつかり、二人揃って将棋倒しになった。近くに置かれていた小麦粉の袋も巻き添えを食らい、真っ白な粉塵が厨房いっぱいに舞い上がった。コックたちの悲鳴が、粉塵の向こうから聞こえてくる。
「もう……!」
エルノアも負けじと足元を滑らせる魔法を放とうとしたが、床にこぼれていた小麦粉に自分の足を滑らせ、盛大に転倒してしまった。
「きゃあっ!」
そのままつるつると滑り、ちょうど起き上がろうとしていたガッツと正面から衝突する。
「ぐえっ!」
「ご、ごめんなさい……!」
ぶつかった衝撃で、二人はしばらくの間、床に折り重なったまま起き上がれずにいた。周囲では他のコックたちが慌てふためきながら片付けに追われている。
立て続けに繰り広げられる珍事に、店内はもはやコントさながらの大惨事となっていた。コックの一人が呆然と「今日はもう店じまいだ……」と呟く声が、厨房の隅から聞こえてきた。それでもバッグは止まらない。厨房を飛び出し、あろうことか街で一番高い時計塔の壁面をよじ登り始めたのである。窓から差し込む光を反射しながら、まるで挑発するかのように高く高く登っていく姿に、追いかける四人は思わず言葉を失った。
「うそでしょう……!?」
「お、追うぞ野郎ども!」
全員が息を切らしながら、時計塔の階段を駆け上がっていった。狭い螺旋階段を、四人がもつれ合うようにして駆け上がる様子は、まるで一つの生き物のようだった。
時計塔のてっぺん、巨大な文字盤の上に辿り着いたバッグは、そこでようやく足を止めた。文字盤の上に立つバッグの姿は、遠目にはまるで小さな動物のようにも見え、下から見上げる街の人々もざわめき始めていた。だが、慣れない高さに戸惑ったのか、ぐらりとバランスを崩し、そのまま文字盤の縁から真っ逆さまに落下し始めてしまう。
「私の思い出ーっ!!」
「俺たちの宝箱ーっ!!」
エルノアと泥棒トリオの声が、見事に重なった。誰が指示したわけでもなく、その場にいた四人全員が、示し合わせたように塔の下へと駆け出し、落下地点に向かって飛び込んだ。
「うおおおおっ!」
ガッツが両手を広げ、ボンバがその後ろで受け止める体勢を作り、チップが的確な位置取りで補助に回る。エルノアもぎりぎりのところで滑り込み、まるで組み体操のような形になりながら、全員で息を合わせてバッグを受け止めた。周囲にいた通行人たちも、思わず息を呑んでその光景を見守っていた。
「や、やった……!」
衝撃と共に、バッグにかけられていた魔法の効き目がふっと切れた。短い二本の足はしゅるりと消え去り、ただの使い込まれた革のバッグへと戻る。
その拍子に、チャックが開き、中身がぱらぱらとこぼれ落ちた。真鍮のネジ、押し花のしおり、木彫りのパンのストラップ、モフモフのハンカチ、修復された小さな布人形、そして『無題の皮革手帳』。文字盤の上に散らばったそれらは、陽の光を受けて、なんとも言えず穏やかな輝きを放っていた。
泥棒トリオは、それをまじまじと見つめた。
「……あれ? 金貨は?」
「宝石は……?」
「な、なんだよこれ……。ただのガラクタじゃねえか!」
ガッツが力なくその場にへたり込んだ。ボンバとチップも、脱力したように地面に座り込む。
「散々走り回った挙句がこれかよ……」
チップが情けない声で呟いた。全員、汗まみれ粉まみれになった格好のまま、しばらく誰も口を開かなかった。時計塔の下では、追いかけっこの一部始終を見ていた街の人々が、遠巻きに様子を窺っている様子が見えた。
「はあ……。とんだ勘違いだったな」
ガッツがため息交じりにそう呟くと、なぜかその場に、気の抜けたような笑いが広がっていった。
「俺たちも大概バカだが、お前さんもたいがいおっちょこちょいだな」
「面目ありません……。裁縫の魔法加減を間違えてしまいまして」
エルノアが恐縮しながら答えると、ボンバが豪快に笑い出した。
「はっはっは! バッグが自分で走り出すなんて、初めて見たぜ! こんなに笑ったのは久しぶりだ」
ボンバは涙まで浮かべながら笑い転げた。その笑い声につられて、チップも堪えきれずに吹き出している。
しばらく全員で顔を見合わせ、やがて誰からともなく笑いがこみ上げてきた。命がけの大捕物だったはずなのに、振り返ってみればあまりにも間抜けな結末に、笑わずにはいられなかったのだ。文字盤の上に座り込んだまま、粉まみれの顔を見合わせて笑う光景は、傍から見ればさぞ奇妙なものだっただろう。
ガッツは懐から小さな瓶を取り出し、エルノアに差し出した。
「これでお手入れしな。革製品用の、上等なオイルだ。……お前さんのバッグ、随分と頑張って走ってくれたみたいだからな」
「まあ……ありがとうございます。まさか、盗賊さんからこんなものをいただけるとは思いませんでした」
「盗賊っつっても、根っからの悪党じゃねえよ。今日みたいに、間抜けなことばっかりしてるしな」
ガッツは照れくさそうに鼻の下をこすった。その仕草はどこか少年っぽく、悪党を気取っていた先ほどまでの姿とはまるで違って見えた。ボンバとチップも、それぞれエルノアに小さく手を振り、名残惜しそうな顔をしている。
受け取ったエルノアに軽く手を上げ、ガッツたちは去っていった。悪党にしては、どこか憎めない後ろ姿だった。
宿屋に戻ったエルノアは、さっそく貰ったオイルで、傷だらけになったサッチェルバッグを丁寧に磨き上げた。艶を取り戻したバッグを見つめながら、ほっと胸を撫で下ろす。
「よかった……。ちゃんと元に戻ってくれて」
安堵の息を漏らしながら、エルノアは何度もバッグを撫でた。
中身も一つひとつ確かめながら、丁寧にしまい直していく。どれも無事だったことに、心から安堵した。木彫りのパンのストラップを手に取り、傷がついていないか確かめる仕草には、旅の中で積み重ねてきた思い出への深い愛おしさが滲んでいた。ミハルの人形や真鍮のネジも、一つひとつ丁寧に確かめ、無事を確認するたびに小さな安堵の息をついた。
窓の外はすっかり夕暮れに染まり、市場の喧騒も少しずつ落ち着きを見せ始めていた。今日一日の騒々しさを思い返しながら、エルノアはくすくすと笑いをこらえきれずにいた。
最後に『無題の皮革手帳』を開き、今日の出来事を思い出しながら、くすくすと笑いをこらえつつペンを走らせる。
『〇月〇日。グランバザールにて。魔法を使うときは、説明書をよく読むこと。それと、私のバッグは走ると意外と速いことがわかりました。今日はたくさん走って、たくさん笑いました』
書き終えた文字を見つめ、エルノアは思わず声を上げて笑ってしまった。窓の外には、賑やかなグランバザールの灯りが揺れている。今日という一日の騒々しさを思い返しながら、エルノアの旅はまた一歩、明るい明日へと進んでいくのだった。
サッチェルバッグの中で、真鍮のネジや押し花のしおりが、今日も変わらず優しい音を立てている。ただ、いつもより少しだけ、その音が誇らしげに聞こえるのは、きっと今日の大冒険のせいだろうと、エルノアはひとり微笑んだ。
窓辺で揺れる灯りを眺めながら、エルノアはベッドに横たわり、今日出会った三人の泥棒たちの、どこか間の抜けた顔を思い出した。悪事を働こうとしていたはずなのに、なぜだか憎めない、そんな不思議な出会いだった。旅を続けていれば、こんな風に思いがけない縁が生まれることもあるのだと、エルノアは静かに胸に刻んだ。




