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忘却の魔女と星を拾う筆跡  作者: まつたけひめ
第1章

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第八話 花咲く温室と小さな魔法使い

 星詠みの聖域を後にしてから、エルノアの足取りには、以前とは違う確かな軽やかさが宿っていた。自分が何のために旅をしているのか、その芯を胸に抱きながら歩む道は、これまでとは少し違う景色に見える気がした。まだ完全に晴れたわけではない胸の奥の重さも、この旅を続ける中で少しずつ形を変えていくのだろうと、エルノアは静かに感じていた。


 街道を進むうち、遠くに緩やかな風車の羽根がゆっくりと回っているのが見えてきた。近づくにつれて、甘く爽やかな香りが風に乗って漂ってくる。


 「まあ……なんて素敵な香りでしょう」


 丘陵地帯に広がっていたのは、色とりどりの花々が咲き誇る美しい町だった。看板には『ブルーメン』と刻まれている。道の両脇には花籠が飾られ、家々の窓辺にも色鮮やかな花が並んでいた。すれ違う人々も皆穏やかな笑みを浮かべ、花に囲まれた暮らしの豊かさが、町全体からにじみ出ているようだった。石畳の道には、風に運ばれてきた花びらがひらひらと舞い落ち、まるで祝福の道しるべのように続いていた。


 うっとりと町を眺めながら丘を登っていくと、大きなガラス張りの温室が見えてきた。陽光を受けて煌めくガラスの向こうには、無数の花々の影がゆらゆらと揺れているのが見える。その傍らで、一人の老婦人が重そうな鉢植えを抱えたまま、膝を押さえてうずくまっているのが目に入った。


 「大丈夫ですか!?」


 エルノアは慌てて駆け寄った。老婦人は苦しげに顔を歪めながらも、それでも気丈に微笑んだ。


 「ああ、すまないね……。急に膝が痛んでしまって。年には勝てないもんだ」


 「無理をなさらないでください。まずは座って、お手当てを」


 エルノアはそっと老婦人を支え、近くのベンチへと座らせた。震える足取りを支えながら、ふと目に入った温室の中には、色とりどりの花々がぎっしりと並び、丹精込めて育てられてきたことが一目で分かった。杖の先からほのかな温もりを灯し、痛む膝にそっとかざす。凝り固まった筋肉が、じんわりとほぐれていくのが分かった。


 「これは……随分と楽になった。ありがとうね、旅の魔女さん」


 老婦人は、フローラと名乗った。この町で長年温室を営んでいるのだという。長年の労働で節くれ立った手には、それでも花を扱う繊細さが残っていた。近くで作業をしていたらしい少年が、心配そうな顔で駆け寄ってきたが、フローラが元気な様子を見せると、ほっとしたように笑顔を見せた。


 「フローラおばあちゃん、大丈夫?」


 「ああ、大丈夫だよ、レオ。この人が助けてくれたんだ」


 少年はエルノアに向かって、はにかむように頭を下げた。


 


 


 


 


 「よかったら、少しだけお手伝いさせてください。この温室、お一人で管理されているのですか?」


 「ああ、そうなんだよ。もう随分と長いこと、一人でやってきたからね。息子は町を出て、都会で働いているんだ。時々顔を見せてくれるけど、普段はこの子たちの世話が話し相手みたいなものさ」


 フローラの言葉に甘えて、エルノアは温室の中へと足を踏み入れた。ガラス越しの陽光を浴びて、色とりどりの花々が瑞々しく輝いている。むせ返るような芳しい香りに包まれながら、水やりの如雨露を手に取り、エルノアは花々の間を丁寧に歩き回った。土に触れる感触や、水を吸い込んでいく音の一つひとつが、なぜだかとても心地よく感じられた。


 「こちらの鉢は、少し土が乾いていますね」


 「よく気づいたね。あんた、花を育てたことがあるのかい?」


 「いえ、詳しくはありませんが……なんだか、この子たちが教えてくれる気がするのです」


 くすくすと笑いながら答えるエルノアに、フローラも柔らかな笑みを返した。作業を続けるうち、エルノアはふと、温室の奥にあるガラスケースに目を留めた。中には、一輪だけ固いつぼみのまま眠っている、不思議な植物があった。他の花々とは明らかに違う、荘厳ささえ感じさせる佇まいに、エルノアは思わず足を止めた。


 「これは……」


 「陽光の薔薇サンライズ・ローズだよ。もう何年も、咲いてくれないんだ」


 フローラは寂しそうに目を細めた。近くで水やりをしていたレオも、その花を見上げながら、どこか切なそうな表情を浮かべていた。窓から差し込む光が、閉じたままのつぼみをそっと照らしている。


 「昔、ひどい冷害があってね。それ以来、この子だけはどうしても芽吹かなくなってしまった。……この花は、もうすぐ町で開かれる『春を祝う感謝祭』のシンボルなんだ。みんな、毎年この花が咲くのを楽しみにしてくれているのに」


 フローラは椅子に腰かけ、遠い目をしながら続けた。


 「この花は、私の夫が若い頃、遠い国から持ち帰ってきた種から育てたものなんだよ。夫が亡くなってからも、毎年欠かさず咲いてくれてね。それが、あの冷害以来、ぱったりと止まってしまった。……もしかしたら、この子も寂しがっているのかもしれないね」


 その声には、悲しみだけでなく、長い年月をかけて育んできた深い愛情がにじんでいた。エルノアはその横顔をじっと見つめながら、静かに耳を傾けた。


 しんみりと語るフローラの横顔に、エルノアの胸が締め付けられた。誰かを想う花の姿と、それを大切に見守り続けるフローラの姿が、旅の中で出会ってきた数々の温かい光景と重なって見えた。


 「何とか、この子を咲かせてあげたいですね」


 エルノアの脳裏に、一瞬迷いがよぎった。大魔法を使えば、この花を一瞬で咲かせることができるかもしれない。だが、それはまた、記憶を失う代償を伴う。今この温室で過ごした穏やかな時間も、フローラやレオとの触れ合いも、すべて灰のように消えてしまうかもしれない。


 その迷いを見透かしたように、フローラはそっとエルノアの手を包み込んだ。皺の刻まれた手のひらは、驚くほど温かかった。


 「無理はいらないよ。……寄り添ってあげるだけで、花は喜ぶんだから」


 優しい声だった。エルノアは目を見開き、それからゆっくりと頷いた。誰かを救うために大きな力を使うことだけが、自分にできることではないのかもしれない。そんな小さな気づきが、静かに胸に灯った。


 


 


 


 


 その日から、エルノアは毎朝、陽光の薔薇のそばに寄り添うようになった。大きな力に頼るのではなく、自分の手のひらでできる、ささやかな魔法を重ねていく。


 冷えた土には、手のひらから灯した小さな熱風の魔法をそっと注ぎ込む。日差しの弱い日には、光を集める生活魔法で、つぼみに柔らかな輝きを届けた。水やりも、土の入れ替えも、すべて自分の手で丁寧に行った。


 フローラは膝の調子を見ながら、少しずつ仕事に復帰していった。二人で並んで作業をする時間は、どこか懐かしい親しみに満ちていた。日が傾く頃には、温室のガラス越しに橙色の光が差し込み、花々のシルエットが柔らかく浮かび上がる。その光景を眺めながら、二人は今日一日の作業を労い合った。


 「あんたみたいな若い子が、こうして手伝ってくれるのは嬉しいもんだよ。まるで、娘ができたみたいだ」


 「ふふ、光栄です。フローラさんは、まるで私のおばあ様のようで、私も嬉しいです」


 他愛のない会話を交わしながら、二人は花々の世話に励んだ。時折、レオが顔を出しては、水やりを手伝ったり、他愛のないおしゃべりをしたりして、温室には笑い声が絶えなかった。


 「咲いてくださいね」


 毎日、そう語りかけながら、エルノアはつぼみを見守り続けた。何日も変化のないまま時間だけが過ぎていったが、エルノアは焦ることなく、根気強く世話を続けた。


 そして、ある朝のことだった。


 「あ……」


 いつものように水をやろうとしたエルノアの目の前で、固く閉ざされていたつぼみが、ほんのわずかに緩んでいるのに気づいた。心臓が高鳴る。慌ててフローラを呼びに行こうかとも思ったが、それよりも先に、目の前の小さな変化から目が離せなかった。


 「咲いてください」


 祈るように呟き、両手でそっと包み込むように、最後の小さな光の温もりを捧げる。すると、つぼみがゆっくりと、本当にゆっくりと開き始めた。まるで長い眠りから目覚めるように、幾重にも重なった花弁が一枚ずつ、ためらいがちにほどけていく。


 朝日のような美しい黄金色の花びらが、一枚、また一枚と広がっていく。温室いっぱいに、甘く優しい香りが満ちていった。ガラス越しに差し込む朝日が、開いたばかりの花びらを透かして、まるで小さな太陽が温室の中に灯ったかのような輝きを放っていた。


 「咲いた……! 本当に、咲きました……!」


 エルノアは目を輝かせ、思わずその場に膝をついた。記憶を一切失うことなく、自分の小さな手だけで、確かに奇跡を起こせたのだ。その喜びは、これまで感じてきたどんな達成感とも違う、じんわりと胸に染み渡るものだった。大魔法のような目に見える派手さはなくとも、この手で積み重ねた日々が確かに実を結んだのだという実感が、何よりも尊く思えた。


 駆けつけたフローラも、咲き誇る花を見て涙ぐんだ。


 「ああ……ついに、咲いてくれたんだね」


 震える手で花びらにそっと触れ、フローラは何度も頷いた。


 「夫が生きていたら、どれほど喜んだことか。……ありがとうね、エルノアさん。あんたが根気強く、この子に寄り添ってくれたおかげだ」


 「いえ、私は少しお手伝いしただけです。この子が、フローラさんの愛情にちゃんと応えたのだと思います」


 


 


 


 


 「陽光の薔薇」が咲いたという噂は、あっという間に町中に広まった。温室には、レオをはじめとする町の子供たちや大人たちが、次々と押し寄せてきた。誰もが花を一目見ようと、ガラス越しに顔を寄せ合い、歓声を上げている。


 「わあ、本当だ! すごい、綺麗!」


 目を輝かせる子供たちの中心で、エルノアは幸せそうに微笑んでいた。レオという元気な男の子が、エルノアの袖をくいくいと引っ張る。


 「魔女のお姉ちゃん、花冠作って! フローラおばあちゃんがいつも作ってくれるみたいなやつ!」


 「ふふ、いいですよ。一緒に作りましょうか」


 エルノアは温室の外に咲く野花を摘み、子供たちと一緒に花冠を編み始めた。不器用な手つきの子供たちに優しく手を添えながら、丁寧に茎を編み込んでいく。何人もの子供たちが我先にと周りに集まり、それぞれに好きな花を選んでは、エルノアに差し出してきた。小さな手が花を摘む様子を見ながら、エルノアは思わず頬を緩ませた。


 「これ使って!」「わたしはこっちの色がいい!」


 賑やかな声に囲まれながら、エルノアは一つひとつ丁寧に花冠を編み上げていった。出来上がった花冠を、エルノアは一人ひとりの頭にそっと乗せてあげた。


 「わあ、お姫様みたい!」


 「魔女のお姉ちゃん、ありがとう!」


 ある子供は花冠を頭に乗せたまま、くるくるとその場で回って喜びを表現した。別の子供は、自分で摘んだ花をエルノアの帽子にそっと差し込み、得意げな顔を見せた。フローラも椅子に腰かけながら、子供たちのはしゃぐ姿を目を細めて見守っている。


 無邪気な笑顔に囲まれ、エルノアの心はあたたかな充足感で満たされていった。世界を救う大きな使命も、確かに尊いものだ。けれど、こうして一人ひとりの小さな笑顔を守ることもまた、同じくらい大切なことなのだと、エルノアは胸の奥で静かに噛みしめた。


 


 


 


 


 旅立ちの日、温室の前でフローラがエルノアに小さな包みを差し出した。


 「これ、受け取っておくれ。陽光の薔薇の花びらで作った、押し花のしおりだよ」


 開けてみると、黄金色の花びらが美しく乾燥され、繊細なレースのような細工が施されたしおりが入っていた。エルノアはしばらくその美しさに見入り、そっと指先で花びらの輪郭をなぞった。


 「まあ……なんて綺麗なのでしょう」


 エルノアは大切そうにそれを受け取り、『無題の皮革手帳』の新しいページにそっと挟み込んだ。しおりから漂う、ほのかに甘い香りが、旅の途中でもきっとこの町を思い出させてくれるだろうと感じた。


 「本当にありがとうね、エルノアさん。あんたのおかげで、素敵な感謝祭が迎えられそうだよ」


 「こちらこそ、貴重な時間をありがとうございました。フローラさんとレオくん、それに温室のみなさんのおかげで、私もたくさんの元気をもらいました」


 深々と頭を下げるエルノアに、フローラは優しく笑いかけた。見送りに来たレオも、大きく手を振っている。


 「魔女のお姉ちゃん、また来てね! 今度は一緒に花冠、もっとたくさん作ろう!」


 「ええ、絶対にまた来ますね」


 エルノアはレオの頭を優しく撫で、フローラとも固く手を握り合った。振り返るたびに手を振る二人の姿が、丘の向こうに小さくなっていく。風車の羽根が、変わらぬ速さでゆっくりと回り続けているのが、遠くに見えた。


 この町で過ごした日々は、決して派手な出来事ではなかった。それでも、自分の手で積み重ねた小さな奇跡と、屈託のない笑顔の数々は、これから先もずっと色褪せることなく心に残り続けるのだと、エルノアは確信していた。


 町を出て、街道の途中でエルノアは足を止め、手帳を開いた。晴れやかな気持ちのまま、ペンを走らせる。緩やかな丘の向こうには、まだ風車がゆったりと回っている様子が見えた。


 『〇月〇日。花咲く町ブルーメンにて。大きな魔法を使わなくても、温かな心と小さな魔法で、人は笑顔になれるのだと教えてもらいました。私の旅は、この温もりを守るためのものです』


 書き終えた文字を見つめ、エルノアは満足げに手帳を閉じた。記憶を失うことなく、こうして確かな一日を胸に刻めたことが、何よりも嬉しかった。サッチェルバッグの中で、新しい押し花のしおりと、これまでの思い出のコレクションたちが、カチャリと心地よい音を立てる。


 爽やかな秋晴れの空を見上げ、エルノアは軽やかな足取りで、次の町へと歩みを進めていった。振り返れば、丘の上の温室が、まるでいつまでも見守ってくれているかのように、優しい輝きを放っていた。

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