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忘却の魔女と星を拾う筆跡  作者: まつたけひめ
第1章

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第七話 始まりの聖域と刻まれた名

 サッチェルバッグの中から、かすかな共鳴の音が聞こえた気がした。エルノアは足を止め、バッグの口を開いて中を覗き込む。


 星の歯車、空色のしおり、木彫りのパンのストラップ、モフモフのハンカチ、修復された小さな布人形、そして真鍮のネジ。これまでの旅で出会った人々から貰った、大切な品々だった。


 「不思議です……どれも、同じ方向を向いているような」


 目を凝らすと、確かにそれぞれの品が、かすかな光の粒子を帯びながら、北の空に瞬く一際大きな星の方向へと引き寄せられているように見えた。まるで、それぞれの品に宿った小さな想いたちが、互いに手を取り合って何かを訴えかけているかのようだった。今まで気づかなかった不思議な現象に、エルノアは思わず胸の高鳴りを覚えた。エルノアは吸い寄せられるように、その方角へと足を進めた。


 道なき道を、何日も歩き続けた。険しい岩肌をよじ登り、凍えるような風の中で野宿を重ねながらも、なぜかエルノアの足取りに迷いはなかった。まるで、身体の奥底に眠る何かが、正しい道を知っているかのように。水も食料も乏しくなる中、それでもバッグの中の品々が放つかすかな導きだけを頼りに、エルノアはひたすら歩き続けた。


 険しい霊峰を幾日もかけて登り詰めた末、雲海を突き抜けた先に、それは唐突に姿を現した。


 「これは……」


 断崖の上に浮かぶように佇む、古代の遺構だった。白い石造りの建造物が、雲海の切れ間から差し込む光を受けて、幻想的に輝いている。柱の一本一本には精緻な彫刻が施され、長い年月を経てなお、その荘厳さは些かも損なわれていなかった。どの地図にも記されていなかったはずのその場所に、エルノアはただ立ち尽くすしかなかった。まるで世界から切り離された、時の止まった場所のようだった。


 風が吹き抜けるたびに、どこからともなく澄んだ鈴の音のような響きが聞こえてくる。まるでこの場所全体が、遥かな記憶を静かに歌い続けているかのようだった。


 聖域の入り口には、巨大な門があった。その装飾に目を留めた瞬間、エルノアは息を呑んだ。


 唐草模様に縁取られた金箔の紋様。それは、彼女が肌身離さず持ち歩いている『無題の皮革手帳』の表紙に施された装飾と、寸分違わず一致していた。


 「どうして、私の手帳と同じ模様が……」


 震える手で手帳を取り出し、門の装飾と見比べる。見間違いではなかった。まるで、この場所と自分が、初めから繋がっていたかのように。


 


 


 


 


 導かれるように、エルノアは聖域の奥へと足を踏み入れた。長い回廊を抜けた先に広がっていたのは、天井一面に無数の星々が瞬く、幻想的な空間だった。


 「星空の……間」


 思わず声が漏れる。壁面には古代の文字がびっしりと刻まれ、床には星座を模した繊細な意匠が広がっていた。歩を進めるたびに、床の星座がまるで応えるように淡く光を放つ。まるでこの部屋そのものが、生きた記憶のように呼吸をしているようだった。


 部屋の中央には、手帳と同じ皮張りの装飾が施された巨大な石碑が鎮座している。『星脈の原書』――そう刻まれた文字が、かすかな光を帯びていた。


 エルノアは吸い寄せられるように石碑へと近づき、胸に下げた『星屑のペンダント』にそっと触れた。同時に、手帳を石碑の前に掲げる。


 その瞬間、石碑が眩い蒼光を放ち始めた。


 光は渦を巻きながら人の形を成し、やがて一つの幻影となって現れた。人とも精霊ともつかない、透き通るような姿だった。


 「……ああ、また記憶を失い、巡り巡ってここへ辿り着いたのですね。気高き器よ」


 深く、それでいて限りなく優しい声だった。エルノアは驚きながらも、その存在から目を離せなかった。


 「あなたは……」


 「私はオルフェ。この聖域に刻まれた、星脈の意志。かつて、最初の魔女と契約を交わした記録の精霊です」


 オルフェの瞳が、悲しげに細められた。まるで、何度も同じ光景を見てきたかのような、深い哀しみを湛えて。


 「もう、何度目でしょうか。あなたがこの場所へ辿り着くのは。……そのたびに、あなたは何も覚えていない顔で、私の前に立っています」


 その声には、失望ではなく、むしろ深い慈愛が滲んでいた。何度繰り返されても、決して見捨てることのない、まるで親が子を見守るような温かさだった。


 「何度も……?」


 「ええ。旅を続けては記憶を失い、また旅を続けては、この星の導きに引き寄せられてここへ戻ってくる。それを、気の遠くなるほど繰り返してきました」


 「エルノアさん……いいえ、それも、あなたが旅の途中で名乗った仮初めの名前でしたね」


 「私は誰なのですか? なぜ、魔法を使うたびに記憶を失ってしまうのでしょう」


 積み重なってきた疑問が、堰を切ったように溢れ出す。長年抱え続けてきた孤独と焦燥が、ようやくその輪郭を明らかにしようとしていた。オルフェは静かに頷き、石碑に手をかざした。


 


 


 


 


 石碑から放たれた光が、室内に幻のような映像を映し出し始めた。遥か昔、この世界が崩壊の危機に瀕していた時代の記憶だった。


 空を覆う黒い亀裂、崩れ落ちる大地、逃げ惑う人々。世界そのものが終わりを迎えようとしていたその時、一人の若い魔女が、たった一人でその終焉に立ち向かっていた。


 「これは……」


 「かつて、世界を滅ぼす『終焉の種』と呼ばれる災厄が生まれました。それを止める術は、たった一つ。誰かがその種を自らの内に封じ、永遠に抑え続けることだけでした」


 オルフェの声が、静かに続く。


 「多くの賢者や英雄がその役目から目を逸らす中、あなたは迷わず手を挙げました。誰に強いられたわけでもなく、ただ、世界とそこに生きる人々の未来を守りたい一心で」


 「あなたは、自ら望んでその役目を引き受けました。世界のすべてを救うために、終焉の種を己の身に封印したのです」


 映像の中の魔女――エルノアによく似たその姿が、光の中で静かに膝をつく。世界を救うという決断の重さに、エルノアの胸が締め付けられた。


 「けれど、封印は完璧ではありませんでした。あなたが強い力――大魔法を振るうたび、封印にひずみが生じてしまう。そのひずみを塞ぐために交わされたのが、『思い出を燃料として捧げる』という大契約でした」


 「まさか、それが……私が記憶を失う、本当の理由……?」


 「そうです。あなたが誰かを救うたびに、封印の鍵は強化される。その代償として、直近の思い出が炉にくべられ、消え去っていく。悪意による呪いなどではありません。それは、あなた自身が選び取った、尊き代償だったのです」


 エルノアは膝から崩れ落ちそうになった。誰かに呪われていたのではない。自分自身が、世界のために、自らの記憶を差し出すことを選んでいた。その事実の重さに、身体が震える。


 「私は……自分から、この運命を選んだ……?」


 「はい。誰に強制されたわけでも、騙されたわけでもありません。あなたは、自分の意志で、この重すぎる荷を背負うことを決めたのです」


 オルフェの言葉に、エルノアは目眩を覚えた。これまで旅の途中で幾度となく感じてきた、名状しがたい孤独と喪失感。それらすべてが、誰かに押し付けられたものではなく、自分自身が選び取ったものだったという事実が、胸の中で複雑に渦を巻いていた。


 「なぜ、私はそこまでして……」


 「それは、私にも分かりません。ただ一つ確かなのは、あなたがその決断を下した瞬間、深い悲しみと同時に、確かな喜びの光を纏っていたということです。誰かを守れることが、あなたにとって何よりの誇りだったのでしょう」


 その言葉に、エルノアの脳裏に、これまで旅先で見てきた無数の笑顔が浮かんでは消えていった。名前も思い出せないその人々の温もりだけが、確かに胸の奥に残っている気がした。


 


 


 


 


 映像が消え、再び静寂が戻ってきた星空の間で、エルノアはしばらく声も出せずに立ち尽くしていた。世界を救うために、自らの記憶を代償に差し出し続ける生き方。それは、あまりにも重く、あまりにも尊い選択だった。


 だが同時に、心のどこかで小さな疑問が渦を巻いていた。もし本当に自分がその道を選んだのだとしても、これほどまでに孤独な旅を、これほどまでに何度も繰り返す必要があったのだろうか。答えの出ない問いを抱えたまま、エルノアはゆっくりと石碑に歩み寄った。


 震える指で石碑の下部にそっと触れる。風化して擦り切れた碑文の中に、古代文字で刻まれた一つの名前の欠片が見つかる。


 『エル……――リア』


 完全な形では読み取れない。だが、その響きに触れた瞬間、エルノアの胸の奥で、何かが激しく共鳴した。まるで、長い眠りから覚めるように、身体の芯が小さく震える。


 「これは……私の、本当の名前の一部……」


 「はい。かつてあなたが、まだ何も失っていなかった頃の名です。長い年月と、幾度もの契約の繰り返しの中で、碑文もまた風化してしまいました」


 それでも、その断片だけは、時の流れにも消え去ることなく、確かにここに刻まれ続けていた。まるで、いつか誰かがこの場所に辿り着くことを、信じ続けていたかのように。


 オルフェは静かにエルノアを見つめた。その眼差しには、慈しみと、それ以上に深い敬意が込められているように見えた。


 「あなたには選択肢があります。この契約を破棄すれば、あなたは二度と記憶を失うことはなくなるでしょう。……ですが、その代わりに、封印は緩み、世界は再び歪み始めます」


 その重い問いかけに、聖域全体がしんと静まり返った気がした。オルフェの瞳は、審判者としてではなく、ただ深い慈しみをもってエルノアの答えを待っているようだった。


 その言葉に、エルノアは目を閉じた。頭の中を、これまで旅してきた街の景色が次々と過ぎっていく。鐘の鳴らない街で出会った青年、湖畔で再会を喜んでくれた絵本作家、花祭りで一緒に踊った少女、モフモフの使い魔とのドタバタ劇、そして――雨の森で流した涙も、機械仕掛けの街で取り戻した温もりも。


 はっきりと像を結ばないその記憶の断片たちが、それでも確かに、自分という存在を形作ってきたのだと、エルノアは感じていた。もしここで契約を破棄すれば、これから先の出会いは、すべて色褪せることなく心に刻まれ続けるのだろう。それは、途方もなく魅力的な選択だった。


 だが、それと同時に、世界が再び歪み始めるという言葉が、重く胸にのしかかる。


 どれも今は、はっきりとは思い出せない。それでも、サッチェルバッグの中には、確かにその証が残っている。


 エルノアはゆっくりとバッグに触れた。星の歯車、空色のしおり、木彫りのパンのストラップ、モフモフのハンカチ、修復された布人形、真鍮のネジ。一つひとつが、かすかな温かい光を帯びているように感じられた。


 その温もりに背中を押されるように、エルノアは静かに顔を上げた。もう迷いはなかった。


 「記憶は消えても、私が誰かを救い、誰かと心を通わせたという“想いの形”は、こうして確かに残ります」


 エルノアは顔を上げ、まっすぐにオルフェを見つめた。その瞳には、迷いのない、凛とした光が宿っていた。


 「私は、逃げません。この宿命を受け入れます。たとえ思い出を失い続けても、私が誰かの笑顔を守れるのなら、それに勝る喜びはありません」


 「本当に、それでいいのですか。この先も、同じ苦しみを繰り返すことになるかもしれません」


 オルフェが念を押すように尋ねる。エルノアは静かに、しかしはっきりと頷いた。


 「はい。だって、私はきっと、この生き方を誇りに思っているはずですから。たとえ覚えていなくても」


 オルフェは、まるで安堵したかのように、そして誇らしげに目を細めた。


 「その強さこそ、あなたが最初に選んだものでした。……いつか、この連鎖の果てに、真の救済が訪れることを、私は信じています」


 その言葉を最後に、オルフェの姿は徐々に淡く透けていった。まるで、伝えるべきことをすべて伝え終えたことに満足しているかのように、その表情は穏やかだった。


 


 


 


 


 聖域をあとにしたエルノアは、澄み渡る星空の下で足を止めた。雲海の彼方に瞬く星々が、まるで彼女の歩みを祝福するかのように輝いている。振り返ると、白い聖域はすでに雲海の向こうに霞み、まるで最初から夢であったかのように静かに佇んでいた。


 サッチェルバッグから『無題の皮革手帳』を取り出し、これまでのページをゆっくりとめくっていく。フルール村の温かい思い出、ラパンの街での賑やかな一日、そしてゴルゴタの街で刻んだ痛ましい記録、クロノスの静かな癒しの記憶。すべてが、確かに彼女の歩んできた道の証だった。


 一枚一枚のページを指でなぞりながら、エルノアはそっと目を閉じた。文字として残された記録だけが、失われた記憶の代わりに、彼女がここまで歩んできた証を静かに語りかけてくる。


 エルノアは真新しいページを開き、震える手でペンを走らせた。


 『〇月〇日。星詠みの聖域にて。私の記憶が消えるのは、世界と誰かの笑顔を守るためでした。私の本当の名前には「リア」という響きがあったようです。私は私の歩んだ道を誇り、本当の自分を取り戻すために旅を続けます』


 書き終えた文字を見つめ、エルノアは手帳をそっと胸に抱きしめた。あてのない旅だったはずのこの道のりが、今、確かな目的を持って輝き始めていた。これから先も記憶は消え続けるかもしれない。それでも、自分が何のために旅をしているのか、その芯だけは、もう二度と見失わない気がした。


 サッチェルバッグの中で、これまで貰ってきたすべての思い出の品が、彼女の新たな旅立ちを祝うように、美しい光を帯びて静かに共鳴した。かちり、からり、と小さな音を立てながら、まるで一つの歌を奏でているかのようだった。


 「さあ、リアという名前の欠片を、もっと見つけに行きましょう」


 かつてないほど気高く、そして力強い光を瞳に宿し、エルノアは星空の下、新たな一歩を踏み出した。

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