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忘却の魔女と星を拾う筆跡  作者: まつたけひめ
第2章

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第三十七話 霧の宿場と喰らわれた名前

 鳴動の樹海を抜け、地下遺跡「沈黙の回廊」を後にしたエルノアは、樹海の境界に沿って続く街道を歩いていた。背負ったサッチェルバッグには、これまでの旅で得た数々の品々に加え、新たに黒い装丁の手帳が加わっている。その重みは決して物理的なものだけではなく、二冊目の手帳という重い手がかりを抱えながらも、彼女の足取りは、これまでと変わらず穏やかだった。


 道中、すれ違う旅人たちの表情には、どこか一様に落ち着かない色が浮かんでいた。すれ違いざまに交わした挨拶も、心なしか歯切れが悪い。エルノアは気に留めながらも、旅の疲れのせいだろうかと、深くは考えずに歩みを進めた。


 やがて視界が、白く濁っていく。まるで世界そのものが薄れていくかのような、深い霧だった。木々の輪郭も、道の先も、次第に判然としなくなっていく。案内板の文字も霞み、辛うじて読み取れたその名は――霧の宿場町、フォルグ。


「まあ……なんて深い霧なのでしょう。手を伸ばしても、指先すら見えなくなりそうです」


 エルノアは慎重に霧の中を進んだ。石畳を踏む自分の足音だけが、やけにはっきりと耳に響く。やがて霧の切れ間に、ぼんやりと灯りが浮かび上がるのが見えた。宿屋らしきその明かりを頼りに、エルノアは足を踏み入れた。


「いらっしゃいませ……あ、旅の方ですね。どうぞ中へ」


 出迎えてくれたのは、まだ十代半ばほどの少女だった。名をセレスと名乗ったその少女は、丁寧に頭を下げながらも、その表情にはどこか拭いきれない不安の影が滲んでいた。



 宿の食堂で温かいスープをいただいていると、厨房から出てきた恰幅の良い中年男性が、セレスに向かって声をかけた。


「そこのお嬢さん、火の様子を見てきてくれるかい」


「……お父さん、私はセレスよ。名前で呼んでよ」


 セレスの声には、隠しきれない涙が滲んでいた。父親は一瞬、きょとんとした表情を浮かべ、それから困ったように頭を掻いた。


「ああ、すまん……。どうも近頃、物忘れがひどくてな」


 その様子を見ていたエルノアの胸に、小さな違和感が広がった。父親は決して娘を軽んじているわけではない。ただ本当に、娘の名前がすんなりと出てこない――そんな、切実な戸惑いが表情に浮かんでいたからだ。


 夜、片付けを手伝いながら、セレスはぽつりぽつりと事情を語ってくれた。


「ここ最近、町のあちこちで、こういうことが起きているんです。仲の良かった夫婦が、互いの名前を忘れてしまったり。昨日交わした約束を、丸ごと忘れてしまったり」


「まるで、記憶が虫食いのように、抜け落ちていくのですね……」


「はい……。お医者様に診てもらっても、原因が分からなくて。最初は、皆で笑い話にしていたんです。『年のせいかしら』なんて。でも、日に日にひどくなって……。昨日は、隣の家のご主人が、奥様の顔を見ても『どちら様ですか』と聞いてしまって。奥様、その場で泣き崩れてしまったんです」


「それは……とても、おつらいことですね」


「私も、お父さんの名前を呼ぼうとすると、喉のところで言葉が止まってしまうんです。お父さんの顔は、はっきり見えているのに。まるで、名前だけがすっぽりと、頭の中から抜き取られてしまったみたいで」


 セレスは膝の上で拳を握りしめ、瞳に涙を浮かべた。エルノアはそっとその手に自分の手を重ねた。


「大丈夫です。きっと、何か手がかりがあるはずです」


 窓の外では、相変わらず深い霧が街を包み込んでいる。その霧の向こうに、何か得体の知れないものが潜んでいるような気配を、エルノアは肌で感じ取っていた。



 その夜、エルノアは宿の一室でサッチェルバッグを開き、新たに得た『黒い装丁の皮革手帳』を取り出した。ろうそくの灯りに照らされたページが、ひとりでにぱらぱらとめくれ始める。


「――あ」


 浮かび上がってきたのは、震えるような、しかし確かな筆致だった。


『霧の街フォルグに注意せよ。記録を貪る“黒い影”が潜んでいる。奴らは人の絆の象徴である「名前」や「言葉」から喰らい尽くす』


 エルノアは息を呑んだ。これは自然に起きている忘却の現象などではなく、明確な意志を持った何かによる、記憶への侵蝕なのだ。


「先代の記録者様も、かつてこの町で、この影と戦っていたのですね……」


 ページをさらにめくると、そこには途切れ途切れの記述が続いていた。どうやら先代の記録者は、この影と対峙したものの、完全に封じ込めることはできなかったらしい。文字の震えから、その戦いがいかに苛烈なものだったかが窺えた。


 その時だった。


 ろうそくの炎が、ふっと揺らいだ。部屋の隅、家具の影が不自然に伸びたかと思うと、人の形をした黒いモヤが、ゆらりと浮かび上がった。輪郭はひどく曖昧で、まるで煙が人の形を真似ているかのように、絶えず揺らめいている。


「――っ!」


 エルノアはとっさに手帳を胸に抱え、後ずさった。黒いモヤは、まるで手帳の中の文字そのものを喰らおうとするかのように、こちらへと手を伸ばしてくる。触れられれば、旅の記憶ごと奪われてしまうのではないか――そんな予感に、エルノアの背筋が凍りついた。


(これが……記録を喰らう影……!)


 エルノアは咄嗟に杖を構えたが、影はするりと体をかわし、まるで最初からエルノアの手帳など興味がなかったかのように、窓の隙間から霧のように滲み出て、外へと逃げていった。


「まさか……!」


 嫌な予感が、エルノアの胸に強く広がった。この宿の中で、あの影が本当に狙っていたものは、自分の手帳ではなかったのかもしれない。



「セレスさんの部屋の方角……!」


 嫌な予感に突き動かされ、エルノアは部屋を飛び出した。廊下を駆け抜けながら、先ほどの影の不自然な動きが脳裏をよぎる。あれは自分の手帳を試しに狙っただけで、本命の獲物は最初から別にあったのではないか――そんな考えが、確信めいた不安となってエルノアの胸を締め付けた。


 セレスの部屋の扉を開け放つと、そこには信じがたい光景が広がっていた。


 黒いモヤが、セレスが大切に抱えていた家族写真と日記帳の上を這い回り、そこに写る家族の顔や、綴られた言葉を、じわじわと黒く塗り潰していく。


「やめて……! それは……お父さんとの、大切な思い出なの……!」


 セレスが涙ながらに手を伸ばすが、影は意に介さず侵蝕を続けていく。


「セレスさん、下がっていてください……!」


 エルノアはサッチェルバッグから、光とステンドグラスの街プリズマで得たクリスタルインクと、旧大陸の旅で摘んでおいたハーブオイルを取り出し、両手の中で素早く混ぜ合わせた。


「――インクを定着させる魔法。想いを、深く染み込ませる魔法」


 これまでの旅で幾度となく使ってきた、大魔法ではないささやかな生活魔法。混ぜ合わせた液体が、掌の中でほのかな光を帯びる。エルノアはそれを写真と日記の表面に、丁寧に塗り広げていった。


 黒い手帳の記述にあった、「記憶を物質に強く結びつける古代の符術」――それを、これまでの旅で培った生活魔法の応用で再現する。光の膜が写真と日記を優しく覆っていくと、影は苦しげに身をよじらせた。


「――ギィ……ッ」


 初めて聞く、不快な軋み声。侵蝕された黒い染みが、光の膜に押し返されるようにして、少しずつ剥がれ落ちていく。エルノアはさらに力を込め、詠唱を重ねた。


「あなたに、この人たちの想いを喰らわせはしません」


 光がひときわ強く輝いた瞬間、影は耐えきれなくなったように、悲鳴じみた声を上げながら、窓の外の濃い霧の中へと溶けるように消えていった。



「……あ……」


 セレスが小さく声を漏らした。エルノアがそっと写真と日記に目をやると、黒い汚れはすっかり消え去り、写真の中の家族の笑顔も、日記に綴られた言葉も、元の鮮やかさを取り戻していた。指先で日記のページに触れると、そこにはセレスが幼い頃から綴ってきたであろう、日々の何気ない出来事が、色褪せることなく残されていた。


 その時、部屋の外から慌てた足音が近づいてきた。


「セレス……! 無事か……!」


 駆け込んできたのは、セレスの父親だった。娘の姿を見つけた瞬間、父親の目に、何かがぱっと灯るように光が戻った。


「セレス……。私の、可愛い娘だ……」


「お父さん……!」


 二人はしっかりと抱き合い、涙を流した。互いの名前を、確かな温もりとともに呼び合う声が、静かな部屋に響き渡る。それは、この宿場町でどれほど当たり前のことが、どれほど尊いものだったのかを、改めて教えてくれる光景だった。


 エルノアはその様子を見守りながら、静かに胸の内で呟いた。


(記憶は、頭の中だけにあるものではないのですね。日記や手帳、写真――そういった遺された形の中にも、確かに大切な人との絆が宿っている。だからこそ、影はそれを喰らおうとしたのでしょう)


 窓の外では、あれほど深く立ち込めていた霧が、心なしか薄れ始めているように見えた。まるで、街全体が、失われかけていた温もりを取り戻しつつあるかのようだった。



 翌朝、フォルグの街を包んでいた深い霧は、心なしか薄らいでいるように見えた。宿の食堂には、セレスと父親が心を込めて用意してくれた朝食が並んでいた。焼きたてのパンと、湯気の立つスープからは、これまでとは違う、確かな温もりが伝わってくる。


「エルノアさん、本当にありがとうございました。あなたがいなければ、私たちは、お互いの名前も思い出せないまま、離れ離れになってしまっていたかもしれません」


 セレスの父親は深く頭を下げた。セレスもまた、涙ぐみながら笑顔を見せる。


「エルノアさん、これ、道中で召し上がってください。お父さんが腕によりをかけて作った、温かいパンです」


「まあ、ありがとうございます。大切にいただきますね」


 温かい包みを受け取りながら、エルノアは二人の笑顔を目に焼き付けた。窓の外から差し込む朝の光が、昨夜までの霧を少しずつ押し払っていくのを感じながら、エルノアは静かに席を立った。ここでの出会いもまた、彼女の旅を形作る、かけがえのない一頁になるだろう。



 街を発つ前、エルノアは宿の外のベンチに腰掛け、サッチェルバッグから二冊の手帳を取り出した。『無題の皮革手帳』と、黒い装丁の手帳。黒い手帳のページが再び、ひとりでにめくれ始める。


『我が足跡を追う者よ。「記憶の座」へ至る道には、さらに強大な忘却の影が待ち受けている』


 浮かび上がった新たな一文に、エルノアは静かに息を呑んだ。今回対峙した影は、まだ入り口に過ぎないのかもしれない。この先には、さらに強大な脅威が待ち受けている――そう思うと、胸の奥にわずかな緊張が走った。先代の記録者が、この程度の影にすら完全には打ち勝てなかったという事実が、その先にある脅威の大きさを、静かに物語っているようだった。


 それでも、エルノアの心は不思議と落ち着いていた。セレスと父親が取り戻した笑顔、そして自分自身の手帳に刻まれてきた、これまでの旅の記憶。それらすべてが、彼女の背中を静かに押してくれているように感じられたからだ。


「独りではない、と思えることが、こんなにも心強いなんて……」


 黒い手帳の持ち主もまた、かつて同じ道を歩んでいた。その事実だけで、エルノアの胸には、名も知らぬ誰かへの静かな連帯感が芽生えていた。


 エルノアは『無題の皮革手帳』を開き、力強い筆致で今日の出来事を書き加えていった。


『〇月〇日。霧の宿場町フォルグにて。記憶を喰らおうとする黒い影の存在を知りました。しかし、想いを込めて遺された言葉や写真は、決して簡単には奪われません。私自身の手帳もまた、これからの旅を守る盾となってくれることでしょう。次に目指すは、影の元凶が眠るという霊峰カイル。恐れるよりも、進む勇気を選びたいと思います』


 書き終えたエルノアは手帳を閉じ、深く息を吸い込んだ。薄れゆく霧の向こうに、うっすらと、遠い山の稜線が見え始めている。あれが、先代の記録者が記した「霊峰カイル」なのだろうか。険しく聳え立つその輪郭は、これから待ち受ける困難を暗示しているかのようだった。


 それでも、恐れる気持ちよりも、進みたいという想いの方が、エルノアの中では確かに勝っていた。セレスと父親が取り戻した笑顔を思い出すたび、自分の旅には確かな意味があるのだと、静かに実感できたからだ。


「セレスさん、お父様、どうかお元気で」


 二人に見送られながら、エルノアは帽子のつばをそっと押さえ、霊峰カイルへと続く道を、静かに歩き始めた。振り返れば、フォルグの霧はもうすっかり晴れ渡り、街並みが柔らかな朝日に照らされているのが見えた。


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