第三十八話 霊峰の氷鏡と拒絶の過去
霧の宿場町フォルグを発ったエルノアは、遠くに見えていた険しい稜線を目指し、幾日も歩き続けた。街道を進むにつれ、道行く旅人の数はどんどん減っていき、いつしか周囲には人影一つ見当たらなくなっていた。麓に近づくにつれ、気温は急激に下がり、吐く息はいつしか白く凍りついていった。
案内板には、こう記されていた――霊峰カイル。雲を突くほどに聳え立つその山は、麓から見上げるだけでも、身の引き締まるような威容を放っていた。頂上付近は分厚い雲に隠れ、その先に何が待ち受けているのか、誰にも予想がつかない。
「ここに……記憶食いの影の元凶が、眠っているのですね」
エルノアはローブの前をしっかりとかき合わせ、山道へと足を踏み入れた。黒い装丁の手帳の重みを、サッチェルバッグ越しに感じながら。フォルグでセレスたちが取り戻した笑顔を思い出すたび、この先にどんな困難が待ち受けていようとも、決して引き返すまいという想いが、彼女の胸に静かに灯っていた。
登り始めてしばらくすると、天候は急変した。突風とともに雪が横殴りに吹きつけ、視界はあっという間に真っ白に染まっていく。それまで見えていた山頂への道筋は、瞬く間に白い闇の向こうへと消えていった。
「うっ……」
凍てつく風に体温を奪われ、エルノアの足取りは次第に重くなっていった。旅の中で幾度となく厳しい状況を乗り越えてきた彼女でさえ、この寒さは想像を絶するものだった。指先の感覚が薄れ、思考すらも凍りついていくような錯覚に襲われる。膝が崩れ、雪の中に倒れ込みそうになったその時――
「――しっかりしなさい」
凛とした声とともに、誰かがエルノアの体を支えた。目を開けると、そこには白銀の髪をした若い女性の姿があった。氷のように澄んだ瞳が、感情の読み取れない眼差しでこちらを見下ろしている。身にまとう衣は薄手であるにもかかわらず、寒さを微塵も感じさせない立ち姿だった。
「私はフレヤ。この先の氷窟の守人です。今夜だけは、私の住処で休むといい」
抱きかかえられるようにして連れて行かれる道すがら、エルノアは朦朧とする意識の中で、フレヤの横顔をぼんやりと見つめていた。整った顔立ちに反して、その表情には笑みの欠片も浮かんでいない。まるで、感情そのものを、どこかに置き忘れてしまったかのようだった。
連れて行かれた氷窟の中は、外の吹雪が嘘のように静まり返っていた。壁一面には、幾つもの氷の結晶が埋め込まれ、淡い光を放っている。エルノアが暖を取りながら礼を言うと、フレヤは表情を変えずに言った。
「勘違いしないで。ただ、行き倒れを放っておくのは寝覚めが悪いというだけ」
「それでも、助けていただいたことに変わりはありません。ありがとうございます」
フレヤはそれには答えず、氷窟の奥へと視線を向けた。
「ここは、忘れてしまいたい苦しみを凍らせて眠らせる場所。余計な記憶を持ってきた者は、生きて帰れないわ」
その言葉には、どこか他人を寄せ付けまいとする硬さが滲んでいた。エルノアは、フレヤの瞳の奥に、深い孤独が潜んでいるように感じた。
翌朝、エルノアは氷窟の奥をそっと覗き見た。夜通し続いた吹雪はいつの間にか止み、氷窟の奥から差し込む薄明かりが、幻想的な陰影を作り出している。そこには無数の氷の結晶が並び、それぞれの中に、人々の悲痛な表情や、涙する姿が、まるで絵画のように閉じ込められていた。
「これは……」
「辛すぎる記憶を、この山に預けにくる者が後を絶たないの。忘れられずに苦しむくらいなら、いっそ凍らせてしまった方がいい――そう望む人々の、記憶の墓標よ」
いつの間にか背後に立っていたフレヤが、抑揚のない声で説明した。エルノアは幾つもの結晶を見渡した。ある結晶には、戦で仲間を失った兵士らしき男の慟哭が。またある結晶には、愛する人に裏切られた女性の絶望が、それぞれ静かに閉じ込められている。誰もが皆、痛みから逃れるために、この山を訪れたのだろう。
エルノアは氷の結晶の一つに目を留めた。その中には、幼い少女を抱きしめる、まだ年若いフレヤ自身の姿が映し出されていた。
「これは……あなたの、妹さんですか」
フレヤの表情が、初めて大きく揺らいだ。
「……お節介ね。ええ、そうよ。妹は病に倒れた。私はあらゆる手を尽くしたけれど、救えなかった。その痛みに耐えられず、私は自分自身の心ごと、この氷の中に閉じ込めたの」
フレヤの声には、抑えきれない苦しみが滲んでいた。
その時、サッチェルバッグの中の『黒い手帳』が、突然激しく光を放ち始めた。ページがひとりでにめくれ、震える筆致の文字が浮かび上がる。
『我もまた、己の後悔を消し去ろうとした。その隙を、影に突かれた』
エルノアは息を呑んだ。先代の記録者もまた、辛い過去から目を逸らそうとした瞬間に、影につけ込まれたのだ。文字はさらに続いていた。『忘れることは、時に必要な優しさでもある。だが、忘れることに逃げ込んだ心には、必ず隙が生まれる。それを、あの影は見逃さない』――震える筆致からは、先代の記録者が味わったであろう痛切な後悔が、確かに伝わってくるようだった。
「――ッ!」
その警告と呼応するように、フレヤの背後の氷が、大きな音を立てて砕け散った。中から現れたのは、フォルグで対峙したものよりも、遥かに濃く、大きな黒いモヤだった。輪郭は禍々しく波打ち、まるで幾つもの悲鳴を練り込んだかのように、絶え間なく形を変えている。
「フレヤさんっ、下がってください……!」
影はフレヤの体を包み込むように広がり、彼女の中に凍らせていた記憶――妹との思い出そのものを、喰らい尽くそうと蠢いていた。
「フレヤさんの存在そのものを、消してしまうつもりなのですね……!」
エルノアが杖を構えると、影はこちらにも矛先を向けてきた。黒い触手のようなものが伸び、エルノアの脳裏に、これまでの旅で味わった失敗や、誰も救えなかった悔しさの記憶が、次々と鮮明に呼び起こされていく。
二十話、フェリシテの街で誰一人救えなかった記憶。五話、ゴルゴタで石を投げられ、追われた記憶。忘れていたわけではないが、深く仕舞い込んでいたはずの痛みが、まざまざと蘇ってくる。
「――ぐ……っ」
鮮やかに蘇る痛みに、エルノアの膝がわずかに震えた。だが、彼女はすぐに顔を上げた。
「辛い記憶も……今の自分を作る、大切な足跡です!」
エルノアは声を張り上げた。逃げるのではなく、これまでの旅で得たすべてを、正面から受け止める覚悟を込めて。
「――温もりを保ち、結露を防ぐ魔法」
エルノアは両手を大きく広げ、詠唱を紡いだ。これまでの旅で幾度となく使ってきた、大魔法ではないささやかな生活魔法。だがその中に、フォルグの街でセレスたちと分かち合った温かな思い出の熱を乗せる。木笛の音色、雨上がりの丘の香り、燻製香草の風味、しっとりとした手帳の感触――五感の巡礼で得たすべての温もりを、一つの光に束ねるようにして。
掌からほのかな光が広がり、氷窟全体を優しく包み込んでいく。氷壁に反射した光が幾重にも重なり合い、まるで無数の小さな太陽が瞬いているかのようだった。フレヤを蝕もうとしていた影が、その温もりに苦しげに身をよじらせた。
「フレヤさん、あなたの妹さんとの思い出は、痛みだけではなかったはずです。共に過ごした温かな時間があったからこそ、失った時に、それほどまでに苦しかったのではないでしょうか」
「……っ」
フレヤの瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「私は……。妹の笑顔が、大好きだった。一緒に雪遊びをした日のことも、覚えている……。それなのに、思い出すのが辛くて、全部、凍らせてしまった」
エルノアはサッチェルバッグから、二冊の手帳を取り出し、両手で重ね合わせた。『無題の皮革手帳』と、黒い装丁の手帳。それぞれに刻まれてきた、無数の出会いと想いが、共鳴するように淡い光を放ち始める。
「後悔を抱えたまま生きていくことも、立派な強さです。忘れることでしか、前に進めないわけではありません」
二冊の手帳から放たれた光が、氷窟いっぱいに広がっていった。温もりの光に耐えかねた影は、断末魔のような悲鳴を上げながら、輪郭を崩し、氷窟の外へと霧散していった。
影が消え去ると、フレヤの周囲を覆っていた氷が、ぱきり、ぱきりと音を立てて解け始めた。凍りついていた記憶の結晶もまた、次々と柔らかな光となって、フレヤの中へと戻っていく。
「あ……あぁ……」
フレヤは自らの胸を押さえ、崩れ落ちるように膝をついた。頬を伝う涙は、もう凍りついてはいなかった。
「痛い……。すごく、痛い。でも……なんだか、すごく、温かい」
フレヤは涙を拭いながら、初めて柔らかな微笑みを浮かべた。それは、これまでの冷たい表情からは想像もつかない、年相応の温もりに満ちた表情だった。
「妹の名前は、ミア。……ミアと過ごした時間は、私の一番の宝物だったのに。忘れることばかり考えて、大切なことまで、見失っていたのね」
フレヤは氷が解けたばかりの床に座り込み、遠い目をして続けた。
「最後にミアが眠るように息を引き取った時、私はもう二度と、あの子のことを思い出したくないと思った。思い出すたびに、救えなかった自分を責めてしまうから。……でも、それは間違いだった。あの子との思い出は、責める理由なんかじゃなく、ずっと大切にすべきものだったのに」
エルノアはフレヤの隣に静かに腰を下ろした。
「思い出すことは、時に痛みを伴います。それでも、その痛みごと抱きしめられる強さを、あなたはもう持っているのだと思いますよ」
数日後、氷窟を発つエルノアに、フレヤは小さな結晶を差し出した。
「これは『氷鏡の結晶』。真実の姿を映し出す、この山に伝わる秘宝よ。あなたには、これからの旅で必要になるはずだから」
「まあ……こんな大切なものを、いただいてもよろしいのですか」
「ええ。あなたのおかげで、私は本当の自分を取り戻せた。……ありがとう、エルノア」
フレヤは、初めて名前でエルノアを呼んだ。その響きには、確かな感謝と、これまで凍らせていた温もりが込められていた。フレヤの口元には、まだぎこちなさの残る、しかし確かな笑みが浮かんでいる。
「あなたも、これから先の旅で、辛い記憶に出会うことがあるかもしれない。そんな時は、この結晶を思い出して。痛みごと抱きしめる強さを、あなたは私に教えてくれたのだから」
「ふふ、ありがとうございます、フレヤさん。あなたの言葉、大切に胸に刻んでおきますね」
二人は互いに微笑み合い、しばしの別れを惜しんだ。
霊峰を下山したエルノアは、澄み切った秋空の広がる麓で足を止め、『無題の皮革手帳』を開いた。冷たい風が頬を撫でるが、心はどこまでも穏やかだった。振り返れば、あれほど厳しく聳えていた霊峰カイルの頂も、今はどこか穏やかな表情を見せているように感じられた。
『〇月〇日。霊峰カイルにて。人は時に辛い思い出を消し去りたいと願います。けれど、痛みや悲しみもまた、誰かを愛おしく思う気持ちの裏返しなのだと知りました。すべてを抱えて、私は前に進みます』
書き終えたエルノアは、続けて『黒い手帳』を開いた。フレヤから貰った氷鏡の結晶をそっとページに近づけると、結晶がほのかに輝きを増し、これまで白紙だったページの上に、鮮やかな地図が浮かび上がった。
「これは……」
地図の中心には、見たこともない文字で「記憶の座・天蓋の回廊」と記されていた。忘却の元凶が眠るという、新大陸核心編のクライマックスへと続く場所だ。地図の縁には、これまで先代の記録者が辿ったであろう道筋も、うっすらと点線で示されている。
「いよいよ、この旅の核心に近づいているのですね」
エルノアは深く息を吸い込み、これまでの旅路を静かに思い返した。風鳴りの谷で得た音、花畑の街で得た香り、港町で得た味、泥湯の街で得た触感、光の街で得た色彩。そして、フォルグで守り抜いた絆と、この霊峰で学んだ痛みの尊さ。すべての記憶が、今の自分を形作っていることを、改めて実感していた。振り返れば、これまで出会ってきた誰もが、それぞれの痛みや喜びを抱えながら、懸命に生きていた。その一つひとつが、自分の旅を支える確かな礎になっているのだと、エルノアは静かに噛みしめた。
エルノアは二冊の手帳を大切にサッチェルバッグへ収め、氷鏡の結晶をその上にそっと重ねた。フレヤと交わした温かな時間、そして氷窟で得た確かな学びを胸に、彼女は新たな決意とともに、天蓋の回廊を目指して、力強い一歩を踏み出した。




