第三十六話 静寂の遺跡と二冊目の皮革手帳
光とステンドグラスの街プリズマを発ったエルノアは、新大陸の深部を目指し、幾日も歩き続けた。道中で立ち寄った小さな集落では、旅人たちが焚き火を囲みながら、この先に広がる森について口々に語っていた。
「あの森に足を踏み入れたきり、戻らない旅人も少なくないらしいぜ」
「なんでも、森の奥には古い時代の遺跡が眠っているとか、いないとか」
そんな噂話を聞きながらも、エルノアの好奇心はむしろ搔き立てられていくばかりだった。世界の記憶を巡る旅を続ける自分にとって、古い遺跡の存在は、決して無視できるものではない。
やがて足を踏み入れたのは、見上げるほどに巨大な樹木が幾重にも枝を絡ませ、空を覆い隠している樹海だった。風が吹くたびに、樹々の梢がざわざわと低く唸るような音を立てる。木々の隙間から漏れる光は乏しく、昼だというのに、辺りは夕暮れのように薄暗かった。
「まあ……なんだか、この森自体が呼吸をしているみたいですね」
案内板一つ見当たらないその土地は、地元の旅人から「鳴動の樹海」と呼ばれていると、道中で耳にしていた。エルノアは太い木の根を跨ぎ、時に幹に手をつきながら、深い緑の中を慎重に進んでいった。足元には見たこともない苔と羊歯が幾重にも重なり、踏みしめるたびにひんやりとした湿り気が伝わってくる。
どれほど歩いただろうか。ふと足元の地面が、いやに柔らかいと感じた次の瞬間だった。
「――えっ」
ぱき、と乾いた音を立てて、足元の地面が崩れた。エルノアの体は為す術もなく、ぽっかりと開いた暗い穴の中へと吸い込まれていった。
「い、痛……」
どさり、と何か柔らかいものの上に落ちたおかげか、幸い大きな怪我はなかった。エルノアは体を起こし、辺りを見回す。そこは、地上からは想像もつかないほど広大な地下空間だった。苔むした石柱が等間隔に並び、壁一面には見たこともない古代文字らしき紋様が刻まれている。
「ここは……いったい」
「――だ、誰だ!」
驚いた声とともに、暗がりから明かりを掲げた青年が姿を現した。土埃にまみれた作業着姿で、片手にはノートと羽根ペンを握りしめている。
「あ……すみません、驚かせてしまって。私はエルノア、旅の魔女です。地面が崩れて、ここに落ちてしまったようで」
「魔女……? ああ、いや、失礼。僕はアーク、考古学者です。この遺跡を数週間前から調査していて……。まさか、こんな形で来訪者があるとは」
アークは警戒を解き、苦笑いを浮かべた。年齢はエルノアと同じくらいだろうか、線の細い体つきに、几帳面そうな眼鏡をかけている。着ている作業着のあちこちには、擦り切れた跡や継ぎ接ぎが目立ち、長い間、一人でこの地下に籠もっていたことを物語っていた。
「見たところ、あなたも閉じ込められてしまったようですね」
「ええ、実は……。この遺跡の入り口は、僕が調査を始めてすぐに崩落してしまって。今は、あなたが落ちてきた穴が、唯一の外との繋がりです。食料も残りわずかで、正直、少し焦っていたところなんです」
アークはランタンを掲げ、奥へと続く回廊を照らした。淡い光に浮かび上がる石壁には、見たこともない紋様が幾重にも刻まれ、まるで生きているかのように、微かに脈打っているようにも見えた。
「ここは『沈黙の回廊』と呼ばれる、旧文明の記憶保管所らしいのです。僕はこの奥にある『最深部の書庫』を目指しているのですが……」
アークに案内され、エルノアは回廊の奥へと進んだ。やがて行く手を阻むように、巨大な石の扉が現れた。扉の表面には、幾重にも複雑な魔法陣が刻まれ、淡く発光している。
「この扉です。もう三週間近く、あらゆる解読呪文を試したのですが、まったく反応がなくて」
アークは疲れ切った様子で、扉の脇に積まれた書物の山を指し示した。古今東西の解錠魔法、封印術の文献らしきものが、乱雑に広げられている。
「碑文には、こう書かれているんです」
アークが指差した壁面には、確かに古代文字らしき文様が刻まれていた。エルノアがそっと手をかざすと、旅を通じて磨かれた感覚が、文字の奥にある意味を静かに読み解いていく。
「――言葉のみを携えし者に、扉は開かれず。歌、香り、味わい、温もり、そして光を束ねし者のみが、記憶の門を潜る、と」
「そうなんです。僕はずっと、この碑文を『特殊な呪文の言い回し』か何かだと思って、様々な解読呪文を試してきました。でも、どれも駄目で」
アークは肩を落とした。文字と理論を頼りに真理へ辿り着こうとする彼の姿は、どこか、かつてジュリアンが絵画に対して抱えていた苦悩に似ていると、エルノアは感じた。
(言葉だけでは、開かない扉……)
その瞬間、エルノアの脳裏に、これまで五感を巡る旅で出会ってきた人々の顔が、鮮やかに浮かび上がった。
「アークさん。この扉が求めているのは、きっと呪文ではありません」
「え……?」
「歌、香り、味わい、温もり、そして光――それは、五感で刻んだ記憶そのものなのだと思います」
「私に、少しだけ試させていただけますか」
エルノアはサッチェルバッグの留め具を、そっと外した。中から取り出したのは、これまでの旅で受け取ってきた、五つの宝物だった。
まずは、風鳴りの谷の街カントでリュカから贈られた小さな木笛。エルノアは静かに一節を吹き鳴らす。谷を渡る風の音を思わせる、澄んだ音色が石の回廊に響き渡った。
続けて、花畑の街ルミエールでセシルから受け取った、雨上がりの丘の香りを閉じ込めた香水を、そっと空気に一吹きする。華やかな花の奥から、湿った土と青草の懐かしい匂いがふわりと広がった。
さらに、港町ポルト・ボヌールでマルセルから贈られた乾燥燻製香草を、指先で軽くすり合わせる。香ばしく温かい風味が、静かな回廊に満ちていった。
そして、あの泥湯の街での騒動を経て極上の触り心地になった『無題の皮革手帳』を、両手でそっと石の扉に触れさせる。
「――これらの余韻を、解き放つ魔法」
エルノアは静かに詠唱を紡いだ。音、香り、味、ぬくもり――これまで各地で得た生活魔法の技を、一つずつ丁寧に織り交ぜていく。掌の中で、木笛の音色と香水の香り、香草の風味と手帳の温もりが、目には見えない光の粒となって、ゆっくりと渦を巻き始めた。
最後に、光とステンドグラスの街プリズマでジュリアンから贈られたクリスタルインクを一滴、その渦の中心に垂らす。
瞬間、五感の記憶が寄り集まった光の渦が、虹色の輝きを放ちながら扉の魔法陣へと吸い込まれていった。
「な……!」
アークが息を呑む音が聞こえた。石の扉に刻まれた紋様が、まるで呼応するように次々と輝きを増していく。ごう、と地の底から響くような重低音とともに、幾重にも重なっていた封印の紋様が一つ、また一つと解けていった。
やがて、重厚な音を立てて、固く閉ざされていた扉がゆっくりと左右に開かれていく。
「開いた……。文字以外で開く鍵なんて……」
アークは呆然と呟いた。長年、文字と理論だけを頼りにしてきた彼にとって、それは常識を覆される出来事だったのだろう。エルノアは静かに微笑んだ。
「言葉は、確かに大切なものです。でも、言葉だけでは掬いきれない想いも、この世界にはたくさんあるのだと、私も旅の中で教えていただきました」
扉の奥に広がっていたのは、天井まで届く無数の石棚に、古びた書物や巻物が整然と収められた書庫だった。埃を被った空気の中、部屋の中央にぽつんと置かれた台座に、エルノアの視線は吸い寄せられた。
台座の上には、一冊の手帳が静かに置かれていた。
「これは……」
エルノアは恐る恐る歩み寄り、その手帳を見つめた。革の装丁、大きさ、綴じ方――それは、彼女が肌身離さず持ち歩いている『無題の皮革手帳』と、寸分違わず同じ作りをしていた。ただ一つ違うのは、その革の色が、深い黒に染まっていることだけだった。
「私のものと……同じ……」
震える指先で、エルノアはそっと黒い手帳に触れた。その瞬間、掌から腕を伝い、まるで水が染み込むように、見知らぬ記憶の残影が流れ込んでくる。
誰かの旅の記憶だった。エルノアと同じように、様々な街を巡り、人々と出会い、そのたびに何かと引き換えに記憶を失っていた、名も知らぬ誰かの記憶。最後には、この地下深くに辿り着き、力尽きるようにこの台座へ手帳を置いた、その瞬間の想いまでもが伝わってくる。
「……この方も、私と同じように、忘却と戦っていたのですね」
エルノアの瞳から、自然と涙がこぼれた。かつて大書庫都市ビブリオンで知った、「名も知れぬ記録者」の存在――その人物が携えていたという古い革の手帳が、まさかこうして目の前に現れるとは、思いもよらなかった。
流れ込んでくる記憶の断片は、決して穏やかなものばかりではなかった。誰かを救えなかった悔しさ、記憶を失うたびに繰り返される孤独、それでも歩みを止めなかった強さ――その人物が抱えていたであろう感情の揺らぎが、まるで自分自身の記憶のように、エルノアの胸に流れ込んでくる。
「あなたも、独りで、こんなにも長い旅を続けていたのですね」
エルノアは黒い手帳を両手でそっと抱きしめた。名も知らぬその人物と、直接言葉を交わすことは、もう叶わない。それでも、この手帳を通じて確かに繋がった何かがあるのだと、エルノアは強く感じていた。
黒い手帳のページをそっと開くと、そこには、新大陸の果てにあるという「記憶の座」についての記述と、世界の記憶そのものを喰らい尽くそうとする、何か得体の知れない存在の予兆についての記述が、震える筆致で残されていた。
「記録を、喰らう影……」
エルノアは静かにその文字をなぞった。かつて自分が「大いなる忘却」から世界を守る封印の役目を引き受けたように、この新大陸にも、まだ見ぬ脅威が眠っているのかもしれない。
アークとともに来た道を引き返し、崩落した入り口の近くまで戻ると、幸いにも、外から差し込む光の筋を見つけることができた。二人で力を合わせ、崩れた瓦礫をよじ登り、ようやく地上へと這い出す。
久しぶりに浴びる陽光に、エルノアは思わず目を細めた。
「ふう……。なんとか、外に出られましたね」
「エルノアさん、本当にありがとうございました。あなたのおかげで、僕は歴史学者として、一生に一度あるかないかの発見に立ち会うことができました」
アークは土だらけの顔で、それでも晴れやかに笑った。
「この遺跡のこと、そしてあなたの記録術のことを、街の学会にきちんと報告します。文字だけでなく、五感の記憶にこそ真実が宿ることがある――あなたの記録術は、きっと歴史学者全員の常識を覆しますよ」
「ふふ、大袈裟ですよ。私はただ、旅の中で出会った皆さんから、大切なことを教えていただいただけですから」
アークは深々と頭を下げ、遺跡の発見を報告するため、足早に街の方角へと戻っていった。
一人残されたエルノアは、樹海を見下ろす木陰に腰を下ろし、サッチェルバッグから二冊の手帳を取り出した。使い込まれた自分の『無題の皮革手帳』と、深い黒に染まった、名も知らぬ記録者が遺した手帳。
二冊を並べて膝の上に置くと、エルノアはしばらくの間、じっとそれを見つめていた。装丁も大きさも寸分違わず同じでありながら、片方は長年の旅を経て柔らかな飴色に、もう片方は深く沈み込むような黒に染まっている。まるで、それぞれが辿ってきた道のりの違いを、静かに物語っているかのようだった。
「あなたも、きっと、誰かを救いたい一心で、旅を続けていたのですね」
風が梢を揺らし、遠くから鳥のさえずりが聞こえてくる。エルノアは自分の手帳を開き、静かにペンを走らせた。
『〇月〇日。鳴動の樹海、地下遺跡『沈黙の回廊』にて。私と同じ手帳を持つ、名も知らぬ誰かの記憶に出会いました。この世界には、私の他にも、忘却と戦い続けた人がいたのですね。二冊目の手帳が示す先には、新大陸の果てにある『記憶の座』と、まだ見ぬ脅威が待っているようです。恐れる気持ちがないと言えば嘘になりますが、それでも私は、この手帳が示す道を辿ろうと思います』
書き終えたエルノアは、二冊の手帳をそっと重ね合わせ、大切そうにサッチェルバッグへ収めた。木笛も、香水も、香草も、しっとりとした感触も、クリスタルインクも――これまでの旅で得たすべての記憶が、今、新たな扉を開く力になったのだと思うと、胸の奥が静かに熱くなる。
エルノアは立ち上がり、帽子のつばをそっと押さえた。樹海の向こう、まだ見ぬ大陸の奥深くに、どんな景色と、どんな人々が待っているのだろう。黒い手帳が示す「記憶の座」、そして「記録を喰らう影」という、これまで聞いたこともない脅威。旅の目的が、また一つ、新たな重みを増したことを、エルノアは静かに受け止めていた。
それでも、足を止めるつもりはなかった。黒い手帳の持ち主が辿った足跡を追うように、そして世界の記憶を守るという自らの使命を胸に、エルノアは新たな一歩を踏み出した。振り返れば、鳴動の樹海は相変わらず低く唸るような音を立て続けている。まるで、これから始まる新たな旅を、静かに見守っているかのようだった。




